岡村×真央
『隣』
「ちょっと、もっと離れなさいよ！」
「おわ！」
テレビを見ていたら、隣に座っていた少女からいきなりドンと身体を押されて、俺は横長のソファから転げ落ちた。
小夜とハジが行方不明になってから二ヶ月が経とうとしている。
俺たちは沖縄を出たときのまま共に行動してヨーロッパ中を回っているが、依然、金はお嬢が握ったまま、取る部屋は一つだ。
「お前な……」
打った腰をさすって謝花真央を見上げると、わがままなご令嬢は俺を細目で見下ろし、
「側に寄られると臭いのよ！」
と言い放つ。
現役女子高校生にこんなことを言われて凹まない男がいたらお目にかかりたい。
「側に寄るも何も、俺は動いてねえだろうが。眠いって寄りかかってきたのはそっちだ」
真央と行動を共にするようになってから、できるだけ（強制的に）風呂に入るようにはしているのに、こいつは何かというと人をオッサンだの臭いだの。
「くそ」
思わず自分の肩口に鼻を当てた。臭いがするとしたら服……だろう。くんくん、と犬のように臭いを嗅ぐ俺を見て、真央が吹き出した。あはは、と軽快に笑う。すっかり目が覚めてしまったらしい。
眠ってりゃ可愛いのに。
「ちょっと待って」
真央はソファからベッドに向かい、ポーチの中を漁っている。
俺は溜め息をついた。女子高生の気まぐれには付き合っていられない。直接床に胡坐をかき、ソファを背もたれにして一息つくと、チャンネルのリモコンを手に取った。
ニュース、スポーツ、日本の懐かしいアニメ、バラエティ、何を見ようかチャンネルを弄っていると、プシュ、と俺の首筋にスプレーが吹きかけられた。
「おい！？」
なんだ！？ と振り向くと、同時に強烈な香りが鼻を刺激した。
真央がソファの背もたれに上半身を乗りかかるようにして、俺にスプレーを向けている。
「なんだそりゃ」
ふふ、と真央は笑った。ぴら、と指を開いて見せたのは、ブランド名などさっぱりわからないが、真央がフランスで購入した香水だ。
「てめッ！」
臭ぇだろうが！ と怒鳴ると、真央はもう一度プシュと俺に向けて香水をかけた。しかも顔。とっさに防いだが、香水が手首にじわじわと染み込んで行く。
「お前！」
「何よぉ！ いい匂いじゃない！」
「どこがだ！ ババア臭くしやがって」
「なんですって！？」
真央はプシュプシュとスプレーを俺に向かって吹きかけてくる。
「馬鹿！ やめろって！」
奪い取ろうと手を伸ばすが、真央はするりと逃げて再び俺に吹きかける。
こいつ、香水をキンチョールかゴキジェットか何かと間違えてないか！？
携帯用にと小さめの香水を買ったみたいだが、当然、そんな使い方をしていればあっという間に中身は減るわけで。
スカスカ、としか音のならないスプレーに、真央は絶叫した。
「ああああああ……！！！！ どうしてくれんのよ！」
「それはこっちのセリフだ！ どうしてくれんだこの部屋！」
ついでに俺。
身体の一部分にちょっとかけるくらいでも匂うというのに、全身に掛けられて、俺自身が強烈な匂いの元となっている。
鼻がひん曲がりそうだ。香水の瓶を落として割ったとしてもここまでは匂わないだろう。
「ちょっと！ うるさいわよ！」
ドンドン！ と部屋のドアを蹴破りそうな勢いで叩かれた。ユースホステルの女将が乗り込んできたらしい。
「くそ……！ お嬢、窓開けろ！」
「なに、逃げるの？」
「なんでだ！ いいから、早く開けろって」
真央が窓を開けると、入ってきた風に身震いする。とにかく、この充満した匂いだけでもどうにかしなければ。
「ちょっと！ オカムラ！！ 開けなさい！」
「あー、はいはい。今開けますよ」
俺はドアを開いた。
「――う」
人間が仰け反るところを初めて見た。
恰幅のいい女将は顔中を歪めて慌てて鼻を塞いだ。
「なんなの……！？」
「いやあ、すみません。連れが香水の瓶を割ってしまって」
「アンタから強烈に匂うわよ」
「あ〜」
思わず真央を睨むと、あの馬鹿は窓枠にもたれたままそっぽを向いて口笛を吹いている。
どういうことなのと問い詰められても、訛りが強く、半分以上は聞き取れない。
「いや、本当にすみません。静かにしますから」
ひたすら謝り、巨体を外へと追いやり、ドアを閉めた。
――まったく。
ドアを背に崩れ落ちる。
真央はベッドの上で、備え付けの雑誌を振って空気をかく乱している。さすがに自分でもやりすぎだと思ったのか。
こんな部屋で眠れるはずもない。
漏れたのは溜め息。
そして眩暈。
「どうすんだよ、これ」
歩く芳香剤と化した俺に対して、諸悪の根源は「近寄らないで」と手首を振った。
了
【一文字で十のお題／02】
2007.04.02