柏木×祐巳 ※柏木→祐巳
『バレンタイン』
「やあ、祐巳ちゃん」
朝早く、祐巳が家を出るとさわやかな笑顔で出迎えてくれたのは、ギンナン王子こと柏木優さんだった。
「おはよう」
ただの挨拶なのに、キラリと輝く白い歯までがキザに思えてしまう。普通の女の子であれば胸を高鳴らせるところだが、祐巳にとっては逆効果だ。
「おはようございます……。祐麒だったら、あと十五分くらいかかりそうですけど」
当然、弟の祐麒に用があるのだろうと思ったのだが。
「勝手に待っているだけなんだ」
そうですか、と返して首をかしげた。
「こんな朝早くからどうしたんですか？」
それくらいは聞いてもいいはずだ。
祐麒から柏木さんと待ち合わせをしているといった話は聞いていない。あえて言わなかったとしても、家の前で待ち合わせをしているのであれば、今頃テレビを見ながら朝ごはんを食べたりはしていないだろう。
「祐巳ちゃんこそずいぶんと早いじゃないか。出るのはいつもユキチと同じだろう？」
「目覚ましが昨日のままだったんです」
バレンタイン企画のためにいつもより早く目覚ましをセットしていたのだが、寝るときにそれを元に戻し忘れてしまったのだ。
「そうか」
ふ、と柏木さんは目を細めて笑う。
「俺は祐巳ちゃんに用があって」
「私に？」
「そう」
祐巳はハッとした。もしかして、瞳子ちゃんから昨日の「妹にしてください」宣言を聞いたのだろうか。
「瞳――」
「昨日はバレンタインだっただろう？」
「は？」
「だから、チョコを貰いにきたんだ」
「……」
祐巳は瞬いた。瞳子ちゃんのことではなかったらしい。――が。
結局、柏木さんが待っていたのは祐巳なのか祐麒なのか。
「私？ 祐麒じゃなくて？」
「うん、ユキチからでもいいんだけど」
柏木さんの表情はいたって真面目だ。
祐巳は呆れた。
聖さまだって卒業したら「ちょこれーと、ちょこれーと」と貰いに来たりはしなかったというのに、この人と来たら。それより、男子校でもチョコのやり取りをするのだろうか。柏木さんが甘いもの好きだということは知っているが、チョコレートなら昨日たくさん貰っているはずだ。それとも、やっぱり本命である祐麒から貰いたいのか――。
考えていたことがすべて顔に出ていたのか、柏木さんは祐巳を見て楽しそうに顔を緩めた。百面相を笑われるのは初めてではないけれど、思わずムッとして柏木さんの横を通り過ぎた。
ところが、柏木さんが祐巳の隣を一緒についてくる。
「なんですか」
冷たく言い放っても、ギンナン王子はまるで気にすることなくニコニコと楽しそうに笑っている。そうだ、祐巳から「嫌い」と言われてそれを嬉しいと答えるような人なのだ。
「私、チョコなんて持っていませんよ」
「じゃあ、後でユキチから貰うよ。今年も持ってくるんだろう？ 去年、祐巳ちゃんが作ったチョコは傑作だったね。俺が食べたチョコには七味が入っていたんだ」
祐巳はピタリと立ち止まった。なぜそれを、と問おうとして思い出した。去年、聖さまにあげるために作ったびっくりチョコレートの失敗作は、祐麒が面白がって学校に持っていったのだ。当然、生徒会長だった柏木さんも口にしたのだろう。
「知ってる？」
ひょい、と祐巳の顔を覗き込むようにして、楽しそうに柏木さんが聞いてくる。祐巳は柏木さんの顔を手で押し戻して歩き出した。
「なにがですか」
「去年のそれがあったから、旅行の土産は不味い物を買うようになったんだよ。みんなは当然美味しいものだと思って食べる。でも、実際は違う――そのギャップが楽しくてね」
「迷惑な」
祐巳が顔を歪めれば、当人は「ははは」と声を出して笑っている。
「だから、今年も楽しみにしていたんだ」
「残念でした。今年は普通のチョコレートです」
「さっちゃんから聞いたよ。びっくりするくらい愛情がこもったチョコレート」
「愛情がこもっているのはお姉さまのぶんだけですから」
「うん、でも祐巳ちゃんが作ったチョコだろ？」
「そうだけど」
バレンタインに渡すから意味があるんであって、翌日になればただのチョコレートだ。それは、クリスマスプレゼントを十二月二十六日に渡すようなもの。一日でも遅れたら、それはもうクリスマスプレゼントとはいえないだろう。
「だから朝早くから待っていたんだ」
「――」
柏木さんの言い方はどこかおかしい。まるで、祐巳が作ったチョコが目当てで朝早くから家の前で待っていたみたいじゃないか。
祐巳の困惑などお構いなしに、柏木さんは肩をすくめた。
「祐巳ちゃんは花寺の生徒に人気があるんだよ。学校ではユキチが持ってくるチョコレートを我先にいただこうって男たちが列を作って待っているんだ。ユキチが学校に行ってからじゃ、俺が食べる前に全部食べられてしまう」
「きびだんごですか、私のチョコは」
はは、と柏木さんは笑った。
「祐巳ちゃんがくれるなら、一の家来になってもいいよ」
けっこうです、と断った。
祐巳はまっすぐに前だけを見て歩く。柏木さんはしばらく何も言わずに半歩遅れてついてきていたが、交差点で止まると隣に並んで呟いた。
「本当は祐巳ちゃんから直接もらいたいんだけど」
「なんで私が」
「だって、言わないとくれないだろう？」
「当たり前です。――ていうか、言ってもあげませんから」
「だと思った」
「じゃあ言わないで」
「言わないとくれないじゃないか」
まるで堂々巡りだ。
「何で私が柏木さんにチョコをあげないといけないんですか」
好きでもないのに、と暗に含めて言うと、柏木さんが笑ったのがわかる。
「俺が祐巳ちゃんのチョコを欲しいと思っているだけだよ」
「じゃあ、祐麒を待てばいいんです」
「うん」
うん、と言いながら、柏木さんは福沢家のほうへと戻る様子はない。
「そういう意味じゃないんだ」
静かな呟きに、祐巳は柏木さんの顔を見上げた。
じゃあどういう意味なんだろう。柏木さんの言葉はいつも謎かけみたいで祐巳にはさっぱりわからない。
下から向けられる視線に気づいたのか、柏木さんはどこか困ったような笑みを浮かべたが、その表情はすぐに消えてしまった。まるで、カメラのシャッターを切るように気持ちを切り替えている。
「来年はもらえるかな？」
「は？」
「チョコレート」
「たくさんもらえるんじゃないですか」
「みんなに、じゃなくて、祐巳ちゃんから」
祐巳は溜め息をついた。女性からプレゼントなど、腐るほど貰っているだろうに。
「そんなにチョコが欲しいんだったらあげます。お世話になった人とか、友達同士でも渡したりしますし」
「うん」
うん、と素直に頷くのがなんだか可笑しかった。
柏木さんは笑った。
「それでもいい。二月十四日にくれる？」
「いいですよ。でも、私から渡しに行きませんから、欲しいんだったら取りに来てください」
お世話になった人にチョコが欲しいんだったら取りに来い、なんて。自分で言っておきながらあまりの傲慢さに頭を抱えたくなった。でも、柏木さんはまるで気にした様子もなく、じゃあ貰いに行く、などと言うのだ。
本当に可笑しな人。
「取りに来なかったら私が食べるから、忘れても気にしなくて良いですよ」
「絶対、貰いに行く」
来年のチョコを予約して満足したのか、柏木さんはバス停で祐巳を解放してくれた。そこで祐麒を待つのだろう。バスを見送る姿は、いつものようなキザな態度に戻っていた。来年を楽しみにしているよ、と笑ってウインク。それが祐巳には嫌なのだということが彼には通じない。
きっと、柏木さんと知り合いの若い女性はバレンタインになるとみんなチョコレートを彼に渡すのだろう。その中で渡さない女性がただひとり。だからよけいに祐巳のことが気になってしまうのだ。でも、来年は祐巳だってその他大勢のうちの一人になるというわけだ。
祐巳への関心も、それでおしまい。
――それよりも。
祐巳は柏木さんのように、スパッと思考を切り替えて、ほうと白い息を吐いた。
来年は祥子さまだけじゃなくて、瞳子ちゃんにもチョコレートを渡すことになるのだ。それを考えると祐巳の心はふわふわと舞い上がる。
いや、瞳子ちゃんを妹にすれば、彼女が祐巳にチョコをくれるのだろうか――。
くれるといいな。
今年、祥子さまが祐巳にチョコレートをくれたように、交換するのも楽しいと思う。
祐巳に向かって叫んだ瞳子ちゃんの言葉が何度も何度も脳裏で繰り返される。
そういえば、祐巳だってお姉さまからのお申し出を一度は断り、学園祭の前にロザリオをくださいと申し出たのだった。
――同じ、だ。
笑いがこみ上げてきて顔が緩んでしまう。
「覚えていらっしゃい。必ずあなたの姉になってみせるから」
そう祐巳に言ってくれたのは祥子さまだ。それは今、そのまま祐巳の気持ちと重なった。
――必ず、あなたの姉に。
祐巳は窓の外を見ながら、ぎゅっと強く鞄を抱きしめた。
了
『クリスクロス】
2009.02.17