柏木×祐巳 ※柏木→祐巳
『学園祭』
体育館では演劇部による公演が終わり、ざわめきの余韻が残る中、舞台裏では幕が下りている間に次のプチ音楽祭のための入れ替えが大急ぎで行われている。
楽屋になっている更衣室の外で、十五分の遅刻を前提に一年椿組の展示を見に行くと体育館を飛び出していった二人――祐巳と瞳子ちゃんを見送った祥子は、複雑な感情に胸を押さえた。
この手の中から離れていく少女。
胸の中に空洞が出来たような感覚を持て余す。
寂しいのだろうか。
いや、違う。
苛立っているわけでもない。でも、言葉には出来ない感情に胸が痛い。
祥子は溜め息をついた。祐巳は姉の卒業で自分が残されると不安に思っているようだが、残されるのは祐巳じゃない。祥子のほうだ。
背後に人が立ったのはわかっていたが、あえて気づかないフリをしていると、静かに声をかけられた。
「二人はどこに？」
これから劇じゃないのかい、と。
振り返った祥子は、背の高い従兄――柏木優を見上げた。
「デートよ」
少し驚いた顔で、優さんは祥子を見た。
「祐巳ちゃんと、瞳子が？」
「ええ」
「さっちゃんは仲間はずれ？」
「……私は劇が終わったらデートをするからいいの」
何か言いたげな顔をする従兄を祥子は無視して、
「それより、優さん」
腰に手を当てて彼を見上げた。
「私が渡したチケットはどうなったのかしら」
にっこり。
祥子が笑うと、相手もにっこりと笑い返してきた。
「どうして？」
使った、でもなく、あるよ、でもなく。
やはりチケットを他人に譲渡したのはこの人なのだ。
「呼び出されたのよ」
保健室から呼び出しを受けた際、父と妹が来ていると言われて父親に隠し子が！？ と心臓が止まりかけたのはつい先ほどのこと。それが間違いであることはすぐにわかったけれど。
祥子の物言いに、何かあったと気づいたのだろう。優さんが口を開こうとしたとき、更衣室にやってきた花寺学院の在校生が、声を上げて駆け寄ってきた。
「柏木先輩！」
「やあ」
さわやかに笑って、元生徒会長は現役の生徒会長を迎えた。でも、祐麒さんの顔は優さんに会えて嬉しいというより、ひどく真剣だ。
「先輩、祐巳に会いましたか」
「いや？ そこで見かけただけ」
「チケットのことがバレました」
「おや」
「どうせ使っていないんでしょう、祐巳のを返してください」
祐麒さんが右手の平を優さんに向かって差し出した。
祥子は首をかしげた。
祥子が優さんにチケットを渡したのは、学校から配布されたその日だ。遅れて瞳子ちゃんも優さんに渡したことを知っている。他にも彼に送った女生徒はいるだろう。すでにチケットを持っているからと、女性から贈られたものを拒否するような人じゃない。
だが。
「優さん」
「何？」
「チケットは瞳子ちゃんからも貰ったのよね。その上、祐麒さんのチケットまで奪ったというの？」
「奪ったわけじゃないよ。でも、残念ながら祐巳ちゃんのチケットは返せない」
祥子は心臓が冷えるのを感じた。
「どういうこと？」
思わず声が震えた。
リリアン女学園の学園祭は招待制だ。チケットは生徒ひとりに対して五枚が配布される。それを誰に渡すのかは個人の自由だが、チケットには裏面にゴム印で名前が押されているのだ。来場者には学園祭の最中も常にチケットの携帯を義務付けられ、何かあったときにはその人を招待した生徒にも責任が及ぶ。
まさか祥子のチケットを無断で譲渡したように、祐巳のチケットもそのような扱いを受けたとしたら――。
違う違う、と優さんは両手を振った。
「譲渡したのは一枚だけだよ。ほかはちゃんと持っている」
胸のポケットから半券を取り出して見せた。裏面には「福沢祐巳」の文字。
「俺が使ったのは祐巳ちゃんのチケットなんだ」
だから返せないと暗に含めて、優さんはひらひらと半券を振った。
「それなら、いいですけど」
すぐに手を引いた祐麒さんとは違って、祥子はどういうことなのかと説明を求めた。
「なぜ祐巳のチケットを――」
あ、それは、と祐麒さんが手を上げた。
「先輩が祐巳のチケットを持っているのは理由があって」
「どういうことなの」
実は、と話そうとする祐麒さんに被って、優さんが笑った。
「生徒達の間で祐巳ちゃんのチケット争奪戦が勃発したんだ。生徒会も手に負えなくてね。事態を収拾するために俺が貰ったというわけ」
「チケット、争奪戦……？」
なにそれ、だ。祥子には想像がつかない。
「じゃんけん、とか？」
祥子のつぶやきに、優さんだけでなく、祐麒さんの後ろでこのやり取りを聞いていた花寺の生徒たちが吹き出した。
「じゃんけんか、それは思いつかなかった」
「そうすればよかったんじゃないか？」
そうだそうだと声を出して笑う彼らに、馬鹿にされているようで顔が引きつりそうになる。祥子の神経が苛立っていくのに気づいた祐麒さんが彼らを止めようとするが、もう遅い。
――これだから男って！
ダン、と右足を小さく踏み鳴らして、一瞬で黙らせた。
「じゃんけんじゃないことはわかったわ」
静かにゆっくりと、優雅につむいだ言葉に彼らはシンと静まりかえった。
舞台ではすでにプチ音楽祭が始まっているため、ここでの話が筒抜けになることはない。祥子は先に男性陣を着替えさせるために更衣室に突っ込み、一緒に入ろうとする優さんの腕を掴んだ。
「チケットを譲渡したのはひとりだけなのね？」
「ああ。無断ですまなかった。でも、いい人だと判断したから渡したんだ」
「赤ちゃんを連れていたし？」
「ああ」
もういいわ、と祥子は息を吐いた。
優さんが使ったチケットは祐巳のものだが、彼は譲渡したチケットが誰のものかはわかっていなかった。入り口で半券を返されてから裏の名前を見た可能性もあるけれど、彼が祐巳のチケットを選んで使った――という可能性はあるのだろうか。
優さんが祐巳のことを気に入っていることは祥子にもわかる。それは祥子の「姉妹」で、祐麒さんの実姉だから。でも、それだけじゃない。
それだけじゃない。
優さんは壁に寄りかかると、楽しそうに喉で笑った。
「とりかえばや物語か」
彼が何を言いたいのかはすぐにわかった。
「企画はさっちゃんだろ？ 俺の発言にヒントを得たのかな」
優さんが高校を卒業する前に、冗談か本気かわからない顔で言ったのだ。
「ユキチと祐巳ちゃんを一日だけ交換してみないか」
――と。
花寺学院で、各部活動がそれぞれに趣向を凝らして三年生を楽しませる卒業イベントがあるのだという。当時、生徒会長でもあった優さんが生徒会に提案したのは、祐麒さんと祐巳を交換させるというもの。
「祐巳ちゃんのことは俺が責任をもって守るよ」
馬鹿なこと言わないで、とそのときは一刀両断したけれど。
「さあ、知らないわ」
ツン、と顔をそらした先で、こちらに向かって駆けてくる少女たちの姿に気づいて祥子は微笑んだ。
「お姉さま！」
祐巳と瞳子ちゃんが手をつないだまま駆けてくる。
「遅くなってすみません」
軽い息切れとともに、二人の声が重なった。頬が紅潮しているのは、駆けてきたからだけでなく、楽しくて興奮しているからだろう。
時計を見れば、ちょうど十五分だ。
「もっとゆっくりしても良かったのに」
「お姉さまったら」
祐巳が笑った。
「二十五分を過ぎて叱りたかったんですね？」
「わかって？」
「わかりますとも」
祥子も笑う。その意味がわからない瞳子ちゃんだけが不思議そうに首をかしげた。そして、ようやく優さんの存在に気づいたらしい。
「優お兄さま」
「可愛かったよ、エイミー」
カーテンコールのように、瞳子ちゃんは若草物語の舞台衣装の裾を掴んで優雅な礼をしてみせた。優さんはパチパチと両手を叩いた。
「後で学校を案内してくれるかい？ さっちゃんに頼もうと思っていたんだけど、舞台が終わったら祐巳ちゃんとデートだって言うんだ」
「わかりましたわ。じゃあ、また後で」
更衣室に入った瞳子ちゃんから視線を戻して、
「やあ、祐巳ちゃん」
優さんが笑う。
祐巳は小さく笑い返すと、ピョコンと頭を下げてすぐに更衣室へと入ってしまった。
どこか嬉しそうな優さんの表情に、祥子は意外なものを見た、と瞬いた。それは作り物の笑みではなかったから。でも、祥子の視線に気づくと、いつものようにさわやかな笑みに変わってしまった。
「身内が舞台にいると、あっという間に終わってしまうね。瞳子以外の子はぜんぜん目に入らなかったよ」
「そうね。あっという間だわ」
「あいつら、ちゃんと演技できるのかなあ」
優さんの呟きに、祥子は口を押さえて笑った。
「心配しなくても大丈夫よ」
今度の舞台は学校の後輩たちが出る。舞台慣れしている瞳子ちゃんとは違って、誰もが素人だ。優さんにとっては、幼稚園のお遊戯会を見に来た親の心境かもしれない。
祥子としては思いっきり笑ってもらいたいけれど、優さんはきっとハラハラしどうしだろう。
「祥子、ちょっといい？」
更衣室から顔を出した令にええと返して祥子は踵を返したが、ふと気になって足を止めた。
――優さんの目は、舞台で誰を追うのだろう。
さっきの舞台は瞳子ちゃんひとりだった。今度は祐麒さんたちもいる。
でも、と思う。
浮かんだのは、大切な大切なひとりの少女。
「そんなこと、あるのかしら……」
祥子は呟いた。
舞台が終わって、彼らが同時に自分達の演技の感想を求めたら、優さんはなんと答えるのだろう。舞台を楽しんでもらえることは間違いないだろうけれど、もしかすると、たったひとりしか目に入っていなかったことに気づく――なんてことはないだろうか。
「どうかした？」
令の声に祥子は首を振った。
「なんでもないわ」
今は、舞台のことだけを考えよう――。
お姉さま、と緊張した面持ちで声をかけてくる祐巳に、祥子は笑みを返した。
了
『特別でないただの一日】
2009.03.03