柏木×祐巳
『話をしよう』
「今日が何の日か知ってる？」
高等部の正門前で、偶然というには出来すぎなタイミングで現れたその人は、どうしたんですかと瞬いた祐巳ににっこり笑ってそう云った。
今日が何の日か知っているか、と。
――今日？
祐巳は首をかしげた。
ごく普通の平日で、祝日でもなければ、記念日でもない。ゾロ目でもないし、語呂合わせで何かの日だろうか、と祐巳が考えていると、花寺学院大学に通う柏木優さんは、俺の誕生日だよ、と言った。
ああ、と祐巳は笑った。
――柏木さんのだったのか。
祐巳は鞄を両手で持って頭を下げた。
「誕生日、おめでとうございます」
「うん」
ありがとう、と柏木さんは嬉しそうに笑う。
祐巳と同じバスに乗るのか、一緒に歩きながら柏木さんは大きな溜め息をついた。残念だなあ、とわざとらしく嘆いた。
「何がですか」
「知らなかったってことは、祐巳ちゃんは俺の誕生日を知りたいと思わなかったってことだろ？」
どこか拗ねた物言いが可笑しい。
「知っていましたよ」
「嘘だ。すぐに答えなかった」
「誰の誕生日か知らなかっただけです」
「誰の、誕生日か？」
意味がわからない、といった表情で柏木さんは首をかしげた。
「どういうこと？」
「瞳子が今日は誕生日会に呼ばれているって、早く帰ったから」
だから、今日が誰かの誕生日であることは知っていたが、誰の誕生日なのかはわからなかったのだ。
あ、そ、と柏木さんは呟いた。
「知らなかったと同じじゃないか」
まるで子供みたいに唇を尖らせた。
柏木さんがこんな表情をするようになったのはいつからだろう。
祐巳は自分の中の記憶を探ってみるが、明確な答えが見つからない。
「さっちゃんだって、瞳子だって、ユキチだって知っているのに、」
ぶつぶつと文句を言うが、柏木さんのリアルな感情が素直に顔へ現れている。そんな表情を見るたびに思うのだ。
柏木さんて、聖さまと似てる――と。
そんなことを言ったら、互いに「どこが！」と嫌がるだろうけど。
くすりと笑えば、柏木さんは何か勘違いをしたのか、急に黙り込み、
「この年で誕生日会って恥ずかしいよな」
と言った。
祐巳はパチパチと瞬いた。
――恥ずかしい？
どんなキザな言動も平気でやってしまえるこの人が、「恥ずかしい」なんて言葉を口にするなんて。柏木優の辞書に「恥ずかしい」という言葉はないのかと思っていたけど、普通に載っていたらしい。
そんなことないです、と祐巳は言った。
きっと親の方が盛り上がって張り切っているのだろう。
「うちだって家族の誕生日にはホールケーキを用意して、みんなでハッピーバースデーを歌って、主役が蝋燭を消して、プレゼントを渡しますもん」
「それは身内のお祝いで、パーティーじゃないだろ？」
「はあ、まあ確かに」
ということは、柏木さん家のお誕生会は盛大なパーティー形式なのか。
祐巳が今まで経験したお誕生会は、母親が料理を作って、友達を家に呼んで、みんなからお祝いの言葉とささやかなプレゼントをもらう。その日ばかりはちょっと贅沢に濃いめのカルピスが出されたりするのが嬉しかった。でも、それも小学校高学年までだ。
小笠原家や柏木家クラスともなると、ホテルの披露宴会場を貸しきって、招待客も政財界から呼ばれるのかもしれない。
七五三でそれをやるところもあるらしいけど。うはー、金持ちって大変だわ。
こういうときは庶民でよかった、と心から思う。
そして、ふ、と大切な人が脳裏に浮かんだ。
――柏木さんの誕生日会にお姉さまも呼ばれているのかな。
祐巳の姉である祥子さまも、妹である瞳子も、柏木さんにとっては従姉妹だ。身内の誕生日パーティーなら、当然、招かれているだろう。
「大変ですね」
心から呟いた。でも、祐巳からすれば大変なことも、そういうものだと慣れている人たちからすれば、なんでもないことなのかもしれない。
「ゴンドラ入場したりするんですか」
「まさか！」
やめてくれ、と柏木さんは笑った。自分で想像したらツボに入ったのか、それはない、と言いながらおなかを押さえて笑っている。
「今回は特別。成人だから」
「ああ、そっか。二十歳」
お酒と煙草もこれからはオッケーなのか。
今まで柏木さんから煙草の臭いがしたことはないけれど、どちらも初めて……ってことはないだろうなあと思う。煙草はともかく、ワインなんかは小学校の頃から嗜み程度に口にしてそうだし。
――って、実際にそんな小学生がいたら怖いけど。
「うちの父も、祐麒が二十歳になったら一緒にお酒を飲むんだって楽しみにしてますよ」
お酒に強い家系じゃないから、二人でビール一杯を飲むくらいだろう。でも、それを楽しみにしている父親をはたから見ていると、なんだかすごく微笑ましい。
あ、と祐巳は柏木さんを見上げた。
「犯罪を犯したら実名ですからね。気をつけないと！」
「そうそう、気をつけないと……って」
おいおい、と柏木さんに突っこまれた。祐巳は声を出して笑う。
「それより、主役がこんなところにいていいんですか？」
女性ほど支度に時間がかからないとはいえ、パーティーの主役がこんなところでのんびりバスを待っていたりして大丈夫なんだろうか。
「うん」
柏木さんは口角を上げた。
「ギリギリ間に合った」
バスの時間？
ちょうどやってくるバスを見ながら、祐巳は良かったですね、と言った。
「ん？」
きょとんと柏木さんが首をかしげた。
「何が？」
「え？ だから、間に合ってよかったですね、って。――バス」
「ああ――」
何が可笑しいのか、柏木さんは苦笑い。まるで祐巳が頓珍漢なことを口にしたかのように、
「そうだね」
とつぶやいた。
時々、柏木さんは祐巳には訳がわからない笑い方をする。
以前ほど不快に思わないのは、彼の笑みが祐巳の発言を笑っているからではないからだ。でも逆に、すごく気になる笑い方で。
やだな、と祐巳は思う。
柏木さんと言葉のキャッチボールがうまく出来ていないのだと、こういう表情をされるたびに思い知らされる。きっと、祥子さまや瞳子だったら柏木さんが求める答えをきちんと返せるのだろう。
キャッチボールがうまくいかないのは、祐巳が幼稚で物を知らないからなのか、それとも柏木さんたちとは住む世界が違うからなのか。
バスに乗ると座席はちょうど二箇所空いていた。でも前方と後方に一箇所ずつ。離れて座るのも変なので、入り口付近で二人して並んで立った。
あれから会話もなく、外の景色を見たままバスに揺られている。
向かいの窓ガラスに映った自分達の姿を祐巳は見つめた。
デコボコだ、と祐巳は思う。
こうして比較してみると、明らかなことがいくつもある。祐巳の身長は柏木さんの肩くらいしかない。それは祐巳が特別に小さいわけじゃなくて、柏木さんが高すぎるだけ。でも、こうして隣に並んでいると不釣合いだな、と思ってしまうのだ。祐巳と同じくらいの身長の瞳子が柏木さんと並んでいても、ぜんぜん不釣合いとは思わないのに、祐巳と柏木さんだと「お似合い」とは程遠い。
私服の大学生と、制服を着た女学生。
周囲にはどう見えているのだろう。バスの中にリリアン女学園の生徒は祐巳しかいないから、ここにいるのが「紅薔薇さま」だと知る者はいない。薔薇さまフィルターがない彼らの目に映っている祐巳は、普通の冴えない女子高校生だ。
「……てもいいかい」
「え？」
柏木さんの囁くような声に慌てて顔を上げると、彼は軽く首をかしげて、祐巳の顔を覗き込んでいる。
「え、あの、すみません。聞いていませんでした……」
柏木さんは苦笑した。
「プレゼントが欲しいんだけど」
「誕生日の？」
うん、と柏木さんは言う。
互いに周囲には聞こえないくらいの声だ。
「私から？」
「そう」
祐巳は「はあ」と呟いた。
「別にいいですけど……」
祐巳のお小遣いで足りる範囲であれば。
「本当に？」
「ええ、どうぞ」
「じゃあ、遠慮なく」
言って、柏木さんは祐巳の髪に結ばれたリボンに手を伸ばして引っ張った。
――ん？
ゴムで結わいた上にリボンを結んでいるだけなので、蝶々結びはあっという間に崩れ、そのままするりと髪から抜けたリボンは柏木さんの手の中に収まった。
いきなり何――？
祐巳が目を丸くして驚いていると、柏木さんもまた驚いたように祐巳を見た。
「今、いいって言ったよね？」
「あ」
柏木さんに言われて、祐巳は慌てて頷いた。
「うん、はい」
言いました。
確かに言いましたが。
プレゼントって。
「それでいいんですか」
そういえば、ぼうっとしていたときに「リボンをもらってもいいかい？」とか、そんな声が聞こえてきたような気がする。
祐巳は柏木さんが握る赤いリボンを見つめた。
――男の人がリボンなんてもらってどうするんだろう。
考えていることがわかったのか、
「違うのをくれるの？」
くすりと笑う柏木さんに、祐巳は慌てて首を横に振った。
リボンひとつですむなら安いものだ。
「なんだ、残念」
柏木さんは祐巳のリボンをくるくると巻くと、ジーパンのポケットに入れて笑った。
「早まるんじゃなかったなあ」
「残念でした」
祐巳は片方だけになったリボンを外すと、鞄の中に入れようと吊り革から手を離した。すると、すぐに柏木さんが祐巳の二の腕を支えてくれる。鞄の蓋を閉めて、ありがとうございますと言ったら、柏木さんはこちらこそ、と笑って手を離した。
「お返しに、クリスマスプレゼントにリボンをあげるよ」
祐巳は素直にその言葉を受け取って笑った。
「ありがとうございます」
それは楽しみだ。
誕生日にあげたのだから、お返しも誕生日が正当だ。でも、祐巳の誕生日はとっくに過ぎているし、来年の誕生日では高校も卒業している。なにより、金額的にも高くなりすぎない「リボン」というプレゼントなら、祐巳も気兼ねすることなく受け取ってくれると柏木さんは考えたのだろう。
お金のかかるプレゼントをもらっても、祐巳はぜんぜん嬉しくないのだ。
祐巳は吊り革につかまったまま軽くのけぞって、リボンが入っている柏木さんのポケットを見た。
「でも、どうするんですか？ それ」
「家にある狸のぬいぐるみにつける」
「もう」
祐巳は鞄で柏木さんの足を叩いた。
カク、と足を曲げて、柏木さんは楽しそうに笑っている。
「別にいいですけど」
祐巳はツン、と前を向く。そして、あることに気づいて小さく吹き出してしまった。
「なに？ 祐巳ちゃん」
柏木さんが祐巳の笑った理由を聞きたそうにしている。でも、祐巳は笑いを堪えることが出来ぬまま、首を横に振った。
「祐巳ちゃん」
「なんでもないです」
「気になる。言って」
「お姉さまが」
笑って、肩が小刻みに揺れてしまう。
「さっちゃんが？ なに」
「柏木さん、お姉さまと同じことするから」
「え？」
「リボン」
祐巳が一年生の冬に、祥子さまも柏木さんと同じものを求めたのだ。クリスマスプレゼントに祐巳のリボンを、と。
「お姉さまも、私のリボンを頂戴って」
「ああ……」
そっか、と柏木さんも笑った。
「血がつながっているからなあ」
「それ、関係あるんですか？」
ある、と柏木さんは静かに言った。
「プレゼントにリボンを欲しがる家系なんだ」
真面目に言うのが可笑しい。
祐巳は笑いを堪えたまま言った。
「それは知りませんでした」
「俺も子供の頃は髪にリボンを結ばされたんだよ。写真も残ってる」
「本当に？」
今度、見においで、と柏木さんは優しく笑った。
「俺はさっちゃんと瞳子の下僕でね。おままごとにだって付き合ったんだ。ひとりで父親と子供と犬と馬と従者の五役さ」
「王子さまじゃなくて？」
「王子さまじゃなくて。――そういえば、瞳子はあの頃から演技に関してはうるさかったなあ……」
ぶつぶつと呟く柏木さんが本当に可笑しくて。
想像すると楽しくて。
祐巳は小さく吹き出した。
了
【君と、５題 04】
2009.03.10