柏木×祐巳
『恋がしたい』
「はい、柏木さん」
祐巳ちゃんの小さな手のひらに乗るのは、パッケージに着物姿の少女が描かれた飴。
「……ありがとう」
小梅ちゃんを受け取って、俺は首をかしげた。
「俺には選ばせてくれないのかい？」
※
私立リリアン女学園の学園祭で、今年は薔薇さま三人が来場者を相手に――主に子供たちを相手に飴を配っている。学園祭のテーマと関係しているらしいが、紅薔薇さまである祐巳ちゃんもまた籠を手に下げて飴を配っていたのだ。
真っ先に祐巳ちゃんを見つけたのは自分だという自信がある。でも、同行していた花寺学院の生徒会の面々が彼女に群がり、飴を頂戴頂戴と子供のように訴えると、彼女の小さい姿はあっという間に隠れてしまった。
「こんなに大きい子にあげる予定はないんだけどなあ」
そう言いながら彼女は笑って、籠の中から好きな飴をひとつどうぞと男たちに選ばせた。
――それなのに。
次は俺の番というときになって、彼女は自分で籠の中から飴をひとつ取って差し出してきたのだ。
「はい、柏木さん」
と。
思わず彼女の手のひらに乗る飴を見つめて、小梅ちゃんの公式設定――明治生まれの１５歳、東京・小石川育ち、かに座のB型、身分違いの男に恋をしている――といったどうでもいいマメ知識が脳裏に浮かぶ。
ありがとう、と礼を口にして受け取ったけれど。
俺には選ばせてくれないのかと問えば、祐巳ちゃんは瞬き、籠を俺の前に出した。
「じゃあ戻して」
「いや、これでいいんだけど」
一緒にいたユキチたちへ「先に行っていい」と目で伝えると、俺は笑った。
「梅味が好きだと思った？」
「苺味のほうが良かったですか？」
「いや、そうじゃなくて」
選ぶ楽しみを奪われてしまったようで、つまらない。
「俺も選びたかった」
なんだか子供みたいな主張だと思ったが、彼女はくすりと笑うと、「じゃあ、もうひとつどうぞ」と籠を差し出してきた。
「いいよ。これで」
市販のものであっても、彼女がくれたものだ。それだけで価値がある。
「でも、選びたかったんでしょう？ どうぞ」
いや、と再度断ろうとしたが、彼女の口元に笑みが浮かんでいるのでそれ以上断ることができなかった。梅を返却して別のものを、というのなら断るけれど、もうひとつ選んでも良いというのなら、ありがたく頂戴しよう。
それじゃあ、と籠の中を覗き込むと、飴だけでなくソフトキャンディーが何種類も混ざっている。
どれにしようか迷うほど優柔不断じゃないので、選ぶのは早かった。
「これを」
アセロラの飴をつかむと、彼女は小さく笑った。というより、笑われてしまった。
「やっぱり」
そう言って、楽しそうに彼女は笑う。
――やっぱり？
俺は首をかしげた。すっぱいのが好きだとでも思われているのだろうか。
「祐巳ちゃん、何？」
「ロサ・キネンシス」
祐巳ちゃんの背後に、小学校低学年くらいの妹を連れたリリアンの在校生が立っていた。
祐巳ちゃんが振り返ると、おそらく彼女が微笑んでいたからだろう――憧れの薔薇さまを前に緊張していた顔がほっと緩んで、女生徒は妹の肩をそっと前に押し出した。
「妹に飴をいただいてもよろしいでしょうか」
「もちろん」
祐巳ちゃんはそのまま子供の目線に合わせて腰をおろした。
「好きな飴をひとつどうぞ」
「わあ！」
子供の瞳がキラキラと輝いた。
「あたし、赤がいいー」
「赤が好きなの？」
ふふ、と楽しそうに祐巳ちゃんが笑って、先ほど自分が笑われた理由に気づいた。
「どれでもいいよ、好きなのを選んでね」
お姉ちゃんもどうぞと言われて、姉妹そろって楽しそうに飴を選んでいる。
飴を選んだ妹はすぐに袋を開け、姉のほうは飴を大事そうに胸の前に抱いて、頬を高潮させたまま礼をすると嬉しそうに妹の手を引いて去っていく。
背を伸ばした祐巳ちゃんは姉妹を見送って、振り返るとくすりと笑った。
「赤が人気ですね」
――やっぱり。
彼女が最初に選んだのは梅。変更するかと聞いてきた飴は苺。そして、俺が選んだのはアセロラ。
彼女は適当に選んだわけじゃなかったのだ。
「赤が好きだって知っていたんだ？」
「知っていたわけじゃないですけど、でも分かりますよ。車は赤だし、遊園地のティーカップだって真っ先に赤を選んでいたし」
「なるほど」
言われたらそうだ。それで白が好きとは思わないだろう。ここに花寺学院の生徒――特に源氏がいないことを心の中で安堵しながら、俺は微笑むと、彼女にだけ聞こえる声でささやいた。
「薔薇も赤が好きだよ」
「私も薔薇は赤が好きです」
にっこりと微笑まれてしまった。
彼女は、自分もまた「紅い薔薇」であることに気づいてないんだろうか。いや、気づいていないというより、俺が言う薔薇と自分が結びついていないのだ。
なんだか脱力したくなった。
ユキチがこの場にいたら、俺の肩を叩いて「がんばってくださいね先輩」と、同情の目を向けられるに違いない。ニヤニヤと笑いながら。
俺はため息をついた。分かっている。彼女の鈍さは今に始まったことじゃないと。
それに、以前と比べれば俺に向けられる笑みも増えた。
それだけでも喜ぶべきなのだと。
問うような表情になった少女に笑って、彼女の髪にそっと触れると梳くように離れた。
彼女の髪や肩に触れると、最初は馴れ馴れしくするなとばかりに弾かれていた手も、今は慣れてきたのか放置されることが多い。それが良い兆候なのか悪い兆候なのかは判断がつかない。不本意だがただの触り魔だと思われている可能性もある。
「午後の劇、楽しみにしているよ」
少しでも彼女から笑みが返ってきたらいいのに、という思いは、早くも打ち砕かれた。
祐巳ちゃんは俺を見ていなかった。祐巳、と彼女を呼ぶ声がしたからだ。
「お姉さま！」
祐巳ちゃんは『薔薇さま』の顔から、普通の少女の顔になって俺のそばを駆け抜けていく。彼女が姉と呼ぶ、唯一の女性に向かって。
思わず唸ってしまった。
「さっちゃん……」
祐巳ちゃんの中で、彼女より勝てる人間がいるならお目にかかりたい。瞳子でさえ、さっちゃんにはかなわないだろう。
お姉さまお姉さま、と顔中の筋肉が緩んだような顔で、祐巳ちゃんはスールである小笠原祥子の腕に抱きついた。それは、まるで子犬が大好きな飼い主にじゃれ付くかのよう。
「祐巳、あなたもう三年なのよ、少しは落ち着いたらどうなの」
さっちゃんが怒ったように話すのは、嬉しい気持ちの裏返しだ。はい、と返しながらも祐巳ちゃんは嬉しそうに笑っている。
「お姉さま、お帰りなさい。絵葉書、届きました」
「そう？ 良かった。私より先に届いていて」
「もうお姉さまったら！」
ぷくりと頬を膨らませる祐巳ちゃんは本当にかわいい。それを見て、ふふ、と笑う俺の従妹は、つい先日まで旅行で外国に行っていたのだ。そこから絵葉書を出したのだろう。
「さっちゃん」
声をかければ、ちらりと目を細めて元紅薔薇さまは笑った。
「優さん」
優雅な笑みを浮かべたまま、さっちゃんは片腕にダッコちゃんのように祐巳ちゃんをひっつけて俺の方へと歩いてくる。
あ、と思ったときにはもう遅い。す――と伸ばされた細い指が、俺の胸元から入場チケットの半券を引き抜いた。
優雅な仕草でチケットの裏を見た彼女は、意味ありげに俺を見上げると、
「偶然かしら？」
と微笑んだ。
「そうだよ」
憮然とつぶやけば、さっちゃんは「ほほほ、ほほ」と声を出して笑った。
祐巳ちゃんは「お姉さまの高笑いを久しぶりに聞けて嬉しい！」という感情がそのまま顔に表れている。さっちゃんの高笑いにうっとりするなんて、この世で祐巳ちゃんくらいだ。
祐巳ちゃんは身体を離すと、持っていた籠を両手で差し出した。
「お姉さま、おひとつどうぞ」
祐巳ちゃんの無邪気な笑みに、ちくりと胸が痛んだ。
嬉しくて。
楽しくて。
慕って。
大好きだから笑う。
それはそれは可愛く笑う祐巳ちゃんの笑みが――、その心が俺に向けられることはない。
「柏木さんて、いつのまにかいなくなりますよね」
後でそんなことを言われて、ただ笑ったけれど。
ふと思った。
求めているのに決して向けられることのない笑みを見て胸が痛むからだと言ったら、彼女はどういう表情をするのだろう。
了
【君と、５題 01】
2009.04.07