柏木×祐巳
『約束の指きり』
祐巳はマリア像を前に、いつものように手を合わせて目を閉じた。
――みんなはこのとき何を考えているのだろう。
マリア様への感謝？ それとも願い？
何も考えず、ただ習慣として手を合わせる者もいるだろうけど。
子羊たちは、ただ祈る。
どうかマリア様、見守っていてください、と。
目を開けると、祐巳はマリア像の顔を見つめながら手を離した。とたんに、ほうと息が漏れるのは、祈っている間どうしても息を止めてしまうから。
でも、祈り終わって息を吐いたとき、身体の中にあった不浄なものが消え去る感じがするこの瞬間が祐巳はとても好きだった。
足元に置いた鞄を掴んで、グッと背筋を伸ばした。
さて。
マリア像から視線を外すと、祐巳は溜め息をついた。
――どうしたものかな。
深刻ではないが、悩みといえば悩み。その一番の問題は、相談できる相手がいないということだろう。
いるとすればただひとり――。でも、それが祐巳を悩ませる問題と密接に関わる人物というあたりがやっかいだった。
今日で何度目になるかわからない溜め息を祐巳はついた。
足元を見ながら校門までの道を歩いていると、かすかなざわめきが聞こえてきて顔を上げる。
「あ――」
門柱に背をもたれ、数名の女生徒に囲まれて愛想良く笑いかけているのは、隣の花寺大学に通う学生だった。長身なので周囲の女生徒たちより頭ひとつ分が軽く抜き出ている。
「柏木さん……」
祐巳が呟いたからじゃないだろうが、彼はすぐに祐巳に気付いて目を細めた。
「祐巳ちゃん」
「ロサ・キネンシス！」
おそらく一年生だろう――柏木さんを囲んでいた四人の少女たちは、祐巳に「ごきげんよう」と頭を下げると、賑やかに笑いながら去っていく。彼女たちの襟やスカートの裾が翻っているが、それを注意する気にもならないのは、きゃああ、と小さな歓声のあとに「ロサ・キネンシスと待ち合わせていたのかしら」などと楽しげに囁く声が聞こえてきたから。
違う、といちいち否定するのも面倒だ。
「……もう」
なんか、どっと疲れてしまった。
祐巳は、去っていく生徒たちの背中を見つめながら、小さく息を吐いた。
なんでこんなところにいるのよー。
祐巳は口をへの字にして、柏木さんを恨んだ。それなのに、
「やあ、祐巳ちゃん」
柏木さんはいつものようにさわやかな笑顔。
「相変わらず、可愛いね」
言って、左右に結んだ髪に軽く触れてくる。
睨んでいる顔を可愛いなどといわれて、どう反応しろというのか。それとも、髪型が可愛いということなのだろうか。はっきりと分かるのは、彼が言う「可愛い」とは、ただの挨拶のひとつに過ぎないということ。そこに深い意味などないのだ。
「……どうしたんですか」
祐巳が問えば、柏木さんは真剣な顔で祐巳を見つめてきた。
「祐巳ちゃん、どうしたの」
「へ？」
もし祥子さまが聞いていたら、眉をひそめて「その間抜けな受け答えは止めなさい」と一言あっただろう。
祐巳は瞬いた。どうしたの？ とはどういう意味だろう。最初にどうしたのかと聞いたのは祐巳だったのに、なぜ逆に問われるのか。花寺の敷地に祐巳がいるのならともかく、ここはリリアン女学園で、その門で待つ人に何の用があるんですか、と問うのはおかしくないはずだ。
柏木さんは雰囲気を和らげて笑った。
「さっき、俺に会えたことを喜んだ」
「は？ 喜んでいません」
「でも、良いところに、って思っただろ？」
……それは思った。
祐巳はちょっとだけ膨れた。そうやって、すぐに顔で感情を読むのはやめてほしい。
「瞳子に用ですか？ 今日は部活で遅くなるみたいですけど、用があるなら呼んできますよ」
「祐巳ちゃん」
柏木さんは、祐巳の言葉尻に言葉を重ねてきた。
「なんでよかったと思ったの」
いつものようにニヤニヤとした笑みじゃなくて、デッサン用の石像みたいな顔で聞いてくる。
祐巳は軽く怯んだ。柏木さんの精悍な顔に祐巳は弱い。弱いといっても、苦手、の部類だけれど。
「……瞳子に用じゃないんですか」
「うん」
あっさりと口にして、柏木さんは一緒に帰ろう、と言った。もし「嫌だ」と言っても、どうせ同じバスに乗ってくるのだ。
祐巳は溜め息をついた。
由乃さんと菜々ちゃんは剣道部、瞳子は演劇部で、志摩子さんと乃梨子ちゃんは委員会があり、生徒会以外のどこにも属していない祐巳は行事が差し迫っていないと一人で帰ることが多かった。たまに帰り道で祥子さまと合流できることもあるけど、待ち合わせをしているわけではないからあくまでも偶然を期待するしかない。
今日も祐巳は薔薇の館で一時間ほど雑用を済ませて、ひとりで帰るところだった。
そして、こういうときに限って柏木さんは祐巳の前に現れるのだ。
「別に、たいしたことじゃないんです」
祐巳が歩き出すと、すぐに柏木さんも隣に並んだ。
しばらく黙って歩いていたが、祐巳は息を吐いて覚悟を決める。
「柏木さん」
「何？」
「クリスマスのこと、覚えていますか」
「ん？」
首をかしげた柏木さんに、祐巳は小さく笑んだ。
「覚えてないならいいです」
覚えていないのなら関係ない。気にする必要もない。悩んでいた自分が馬鹿みたいだ。
サクサクと歩く祐巳の腕を、柏木さんが焦ったように掴んだ。
「覚えているよ、祐巳ちゃんにクリスマスプレゼントを渡すって話だろ？ なんでそんなことを聞いてくるんだろうって思っただけだよ」
「……」
柏木さんは笑った。
「どれが欲しいのか自分で選びたい？」
「違います」
――そういえば、と祐巳はぼんやりと思う。柏木さんの誕生日も今日のように帰りが一緒だった。
リリアンの生徒がいたなら話を控えたが、ちょうどバスが来たばかりだったのか、バス停には先ほど生徒たちをはじめリリアンの生徒はひとりもいない。
祐巳は柏木さんを見上げた。
「クリスマスプレゼント、私もあげたいんですけど」
「祐巳ちゃんが？ 俺に？」
「別に」
祐巳は言葉を切って、視線をそらした。
「いらないならいいんです」
「なに言ってるの。欲しいに決まっているじゃないか！ それとも何、俺を喜ばせて、実は嘘でしたーなんてびっくりじゃないだろうね」
「違います」
「じゃあ、大歓迎だ。――やった！」
そのあまりの喜びように、祐巳は慌ててしまった。
「そんな、たいしたものがあげられるわけじゃ……」
「祐巳ちゃんがくれるならなんでも嬉しい。その気持ちもね」
ニコニコと、本当に嬉しそうな顔で柏木さんは笑っている。
祐巳はむううと唇を尖らせて眉を寄せた。なんでも嬉しい、なんて一番厄介だ。それが分からないから困っているのに。
「なんでも、じゃ困ります」
柏木さんは十八歳で車の免許を取ったらすぐに自分のお金で高い車を買ってしまえるような人なのだ。祐巳のように、月々のお小遣いが決まっていて、校則でアルバイトも出来ない身では、プレゼントを渡す相手としてはハードルが高すぎる。
柏木さんは、祐巳の顔を覗き込むようにしてくすりと笑った。
「どうしたの？ いきなり」
祐巳は柏木さんの顔を両手で押し戻しながら呟いた。
「……別に」
「別にってことはないだろう？」
可笑しそうに聞いてくる柏木さんに、祐巳は溜め息をついた。
「……私だけもらって、柏木さんに何もあげないのって変だから」
「そう？ だって、誕生日プレゼントのお返しじゃないか。気にすることないのに」
「……気にします」
「そうか。祐巳ちゃんらしいね」
祐巳は柏木さんを見上げた。
――祐巳らしいって何。
庶民らしいとか、そういう意味？ まさにその通りなので、軽く受け流すことにした。
「なんでもいいじゃ困るから、欲しいのがあったら言ってください」
「欲しい物かあ……」
柏木さんは自分の腕に膝を立てると、アゴを掴んで考え込んでいる。祐巳が見つめていると、視線が合って、ニコッとしか言えないような笑みが返って来た。
「祐巳ちゃんが欲しい」
「は？」
「祐巳ちゃんが」
「ふざけないで」
「ふざけてないよ」
「ふざけてないなら、余計に性質が悪いです」
「うん、そうなんだ。知らなかった？」
さわやかに笑う柏木さんを、祐巳は睨んだ。
「知っています！」
はは、と柏木さんは声を出して笑った。
「クリスマス・イブはさっちゃんのところでパーティーをするって。もう聞いた？」
「誘ってもらいました。身内だけのパーティーだから気軽にって」
「うん、そうなんだ。そのときに俺と踊ろう」
「はぁ！？」
「だから、クリスマスプレゼント」
柏木さんはさわやかに笑っている。いつでもさわやかだから、いつもみたいに笑っている、と言ってもいいのかもしれない。だから、その言葉も、いつもみたいにふざけているんだ、と祐巳は思った。相手がふざけているなら、こっちは余裕を見せて返すまでだ。
「……いいですけど、私、踊れませんよ」
「踊れるよ」
「踊れません」
「俺と踊ったじゃないか」
「いつ！」
「二年前に」
「二年前……？」
怪訝に瞬いて、祐巳は「あ」と口をあけた。
柏木さんはくすりと笑う。
「踊っただろう？」
二年前の劇で、シンデレラ役と姉Ｂ役のどちらかをやることになった祐巳も、王子様役の柏木さんと練習で何度か踊っているのだ。
思えば、柏木さんに対する最初の印象は、決して悪くはなかったのに、どうしたらここまで天敵のような相手になるのだろう。いや、祐巳にとっての柏木さんは天敵だが、柏木さんにとっての天敵は聖さまに違いない。だとしたら、柏木さんにとって祐巳はなんなのだろう――。
「また足が痛くなりますよ」
「かまわない」
「……」
「それとも本番前に練習しようか？」
さわやかな笑顔を崩さない柏木さんに、祐巳は大きな溜め息をついた。今日は溜め息のオンパレードだ。
「クリスマスプレゼントなんでしょう？」
「うん」
「じゃあ、本番一回で十分です」
「ははは！」
「ちょっと……！？」
柏木さんがいきなり笑い出したので、祐巳はびっくりして後退ってしまった。
「何！？」
何か変なことでも言ってしまっただろうか。動揺する祐巳に、柏木さんは嬉しそうに笑いかけてくる。
「やった、と思ってさ」
柏木さんは「よし！」って感じで拳を握った。それはまるで、祐麒がプロ野球の中継を見ているとき、応援しているチームの選手がホームランを打ったときみたいで。
「祐巳ちゃん、手」
「手？」
柏木さんが右の手のひらを祐巳に向けて立てたので、ハイタッチでもするんだろうか、と祐巳も同じように右手を出したら、あっという間に小指を絡ませて、ぶんぶんと上下に揺らされてしまう。
「指きり拳万、嘘ついたら、針千本飲ーます。指切った！」
柏木さんの元気な声が響き、一方的に指を切る。
「絶対だよ」
「……」
いまどき約束に指きり拳万なんて、中学生でもしないだろう。でも、柏木さんは子供みたいにそれを楽しんでいる。されるがままに指きりしてしまった祐巳は、なんだか可笑しくなってきて、小さく声を出して笑ってしまった。
何が楽しいのか、柏木さんも笑っている。
バスに乗り込み、後方の椅子に座ると、柏木さんは当たり前のように祐巳の隣に座ってきた。こういうとき、前ほど柏木さんのことが嫌じゃなくなっている自分に気付いて、祐巳は複雑な気持ちになる。もちろん、ただ慣れてしまっただけなのかもしれないけど。
「本当に、それでいいんですか」
「ん？」
「クリスマスプレゼント」
本当に踊るだけでいいのか。
確認したくなったのは、それが彼なりに祐巳の経済状態を知っての配慮なんじゃないかと思ったから。
でも、返って来た言葉は「それでいい」だった。まっすぐに前を向く柏木さんの横顔は彫刻みたいで、祐巳の心臓は少しだけ高鳴ってしまう。それを悟られるのが嫌で、祐巳は視線を窓の外へと向けた。
お金をかけないプレゼントなら、手作りの物とか、祐巳にだって用意は出来るのに。
――ああもう。
最悪。
視線は窓の外に向かっているのに、意識だけが隣に向かってしまう。
頬に熱が集まるのは、祐巳が欲しいとか、踊りたいとか、柏木さんが変なことばかり言うからだ。からかわれているのはわかるけど、いちいちそれに振り回されてあたふたするのは、まさに相手の思うつぼ。
柏木さんがそれを楽しんでいるのは明らかで、でも、祥子さまや瞳子のようにスマートに言葉を返せるわけじゃない。
柏木さんが祐巳をかまうのは、祐巳が祥子さまや瞳子の「姉妹」であり、祐麒の姉だから。彼にしてみたら、祐巳は義理の従姉妹のようなポジションなのだ。だから気にかけてくれる。プレゼントだって、形に残るものをもらっても処分に困るのかもしれない。
祐巳だって、形に残るものより記憶に残るプレゼントの方が好きだけど。
泣きたいのか、怒りたいのか、よくわからない感情が渦を巻く。
M駅が見えてきて、バスは停車場でゆっくりと停まった。終着だから客はいっせいに立ち上がって移動し始めるが、通路側の柏木さんが立たないので祐巳は座ったままだ。
最後に出るのだろう、とおとなしく待っていたら、ずっと沈黙していた柏木さんが静かに言った。
「俺が欲しいものって言っただろう？」
「え？」
「だからね」
柏木さんは、戸惑う祐巳の顔を覗き込むようにして囁いた。
「踊っている間だけでいいから、俺のものになって」
了
【君と、５題 02】
2009.06.27