柏木×祐巳
『イエローカード』
「やあ、祐巳ちゃん」
リリアン女学園の校門の外で、いつものようにさわやかな笑顔で彼女を迎えた。
薔薇様のひとり「ロサ・キネンシス」となった少女。部活や委員会に入っていないため、行事が差し迫っていないと彼女はひとりで帰ることが多い。
初めて出会ったときと髪型は変わらないけど、少しだけ身長も伸びて大人っぽい表情もするようになった。祐巳ちゃんは、ちらりと俺を見て「ごきげんよう」と云ったが、返ってきた言葉には何の感情も浮かんではいなかった。
いつもなら、何でここにいるの、とか、またいる、とか、どちらかといえば呆れを含んだ、あまり好意的ではない感情が顔に出ているのに、今の彼女は無関心な人間に対する表情をしている。
挨拶をしてくる人間に対しては他人ですら自然と笑顔を向ける彼女が、いったいどうしたのだろう。考え事をしているわけでもない。それは、わざと感情を表に出さないように意識している顔だ。
「どうしたの」
「別に」
「何かあったんだろう」
「何もありません」
祐巳ちゃんは立ち止まることなく歩いていく。それでも少し早歩きなのは、彼女が苛立っているだからだ。百面相の福沢姉弟だが、表情に出なければ感情が読み取れないとでも思っているのだろうか。
「俺が何かした？」
「……何も」
何も、と言いながら、一瞬だけためらったのは「ある」と言ったも同然だ。
バス亭を過ぎても祐巳ちゃんは足を止めない。途中で寄る場所があるのか、それとも駅まで歩いて行くつもりなのだろうか。
「祐巳ちゃん」
したくはなかったが、声をかけるだけでは立ち止まってくれそうもないので彼女の腕を掴んだ。
「なんで怒っているの」
「怒っていません」
「怒っているだろ」
「怒っていませんから！」
「ほら、怒ってる」
「それは……！」
「俺が怒らせるようなことをしたから？」
「……」
祐巳ちゃんは俺を睨むように見上げたが、すぐに視線をそらして、掴まれた腕を見つめた。
「……離して」
「いやだ」
「柏木さん！」
「いやだ」
「――」
祐巳ちゃんはグッと言葉を飲んで、一瞬泣きそうな顔で眉をゆがめた。
「祐巳ちゃん――」
どうしたんだ、と本気で驚いた。
「何かあったのか」
「……」
祐巳ちゃんは唇をかみ締めると首を横に振った。彼女が何か言ってくれるのを待っていたが、ただただ沈黙が流れた。それでも、今彼女を手放せば何も聞けないままだ。言ってくれるまで離すものかと力を入れると、祐巳ちゃんもそれを感じたのか、少しだけ怯えた様子で小さく「離して」と呟いた。
「離して」
落ち着いた声でもう一度。
俺は首をかしげた。
「逃げない？」
「……逃げない」
彼女の足は完全に立ち止まっている。俺は小さく息を吐いて彼女の腕を離した。
祐巳ちゃんはしばらく黙ったまま下を向いていたが、ぎゅ、と手に力を入れると鞄を持ち上げて開く。中を見て、ためらったのは一瞬だ。祐巳ちゃんはラッピングされた包みを二つ取り出すと、俺に向かって押し付けるように差し出してきた。
「柏木さんに」
祐巳ちゃんの目は、差し出した包みを見つめたままだ。
彼女の言葉に心臓が高鳴った。
バターの甘い匂いが漂ってくる。
「俺に？」
知らず声が弾んでいたかもしれない。
リリアン女学園の生徒が今月の調理実習でクッキーを作ることは前もって知っていた。だから、祐巳ちゃんが作ったクッキーが欲しいとおねだりしたのはひと月も前のことだ。
「嬉しいよ、ありがとう」
両手でそれを受け取ったとき、祐巳ちゃんの表情が軽く強張った。
え、と思ったのは、緊張していた顔が緩んだのでもなく、受け取ってもらってホッとしたのでもなく、泣きそうになるのを堪える顔だったから。それは、嬉しくて泣きそうになったのでもない。
もしかして、俺にクッキーをあげるのが嫌だったのだろうか。
「祐巳ちゃん」
「じゃあ、渡しましたから」
祐巳ちゃんは鞄を閉めると、俺を放置して歩き出してしまう。
「祐巳ちゃん、待って」
明らかに、いつもの祐巳ちゃんとは違っていた。
俺に対する拒絶感が明確だ。
祐巳ちゃんにクッキーが欲しいと言った時、俺のあまりのしつこさに溜め息混じりで苦笑していた彼女。その表情と、今の表情はまるで結びつかない。いつもなら、文句を言いつつ、ツンツンしながらも、どうぞと快く渡してくれたはずだ。
「俺が何かした？」
「なにも」
「でも、したんだろ？」
「していません」
二つ目のバス亭を通り過ぎた。祐巳ちゃんは本気で駅まで徒歩で帰るつもりなのだろうか。彼女と一緒に長い距離を歩けるのは歓迎だが、今のこれはいただけない。
「祐巳ちゃん、これは返すよ」
「――」
彼女の手を取って、クッキーが入った包みを握らせる。ラッピングのビニールがクシャリと音を立てた。
「祐巳ちゃんから欲しいとは言ったけど、そんな顔をされてまで欲しくない」
「そんな顔って」
祐巳ちゃんは明らかにムッとした表情で、俺にクッキーを押し付けてくる。
「じゃあ、笑顔で渡したら受け取ってくれるんですか」
「もちろん。でも、笑顔じゃなくてもいい」
「クッキーが欲しいなら、瞳子からもらえばいいじゃない」
「俺は祐巳ちゃんから欲しいんだよ」
「だからって、私を窓口にするの止めてください！」
激高する祐巳ちゃんに、俺は瞬いた。
「窓口？」
何かがおかしい。
「祐巳ちゃん」
問いただそうとしたとき、背後から俺を呼ぶ声がした。
「優お兄さま！」
そんな風に俺を呼ぶのは、ひとりしかいない。
俺たちを見つけて二つ目のバス亭で降りたのか、祐巳ちゃんと同じ髪型の少女が俺を睨みつけながら近づいてくる。眉毛の上で綺麗に切りそろえられた前髪、左右に結った巻き髪は跳ねるように揺れている。
「「瞳子」」
俺と、祐巳ちゃんの声が重なった。
「お姉さま」
瞳子が祐巳ちゃんを見て微笑んだ。
祐巳ちゃんを「お姉さま」と呼び、俺を「優お兄さま」と呼ぶ。瞳子と祐巳ちゃんは擬似姉妹だが、俺は本当の従兄妹だ。
「よかった、もう帰ってしまわれたのかと思いましたわ」
「瞳子、どうして」
今は部活動中であるはずの妹がなぜここに。――そう、祐巳ちゃんの表情が物言わずに語っている。
瞳子はにっこりと笑うと、俺の腕を掴んだ。
「お姉さま、ここはお任せを」
「瞳子」
「行ってください」
すぐに軽い靴音がして、祐巳ちゃんがそれに従ったのが分かる。
「祐巳ちゃん」
彼女を追いかけようとした俺の腕を瞳子が掴んだ。
「お兄さま！」
「瞳子、離してくれ」
だが、瞳子は行かせるものかと俺の腕を両手で抱きかかえるように握り締めている。それは、従兄から大切な姉を守るための行為だった。
「何もしない」
「もうすでにしているじゃないですか」
瞳子の目が、声が、俺を軽蔑していた。いったい、この姉妹にこれほど嫌悪される何をしたというんだ。
祐巳ちゃんの足音が聞こえなくなり、背中が遠くなってから、ようやく瞳子は俺の腕を離した。それでもまだ追いかけないようにと上着の裾を掴んでいる。
「瞳子」
大きな溜め息が漏れた。
「説明してくれ」
いったい、俺が何をした。
「何をした、ですって？」
瞳子の声が一段と低くなった。
「うちの生徒に、お姉さまからしか差し入れやプレゼントはもらわないとおっしゃったのは本当なの？」
「言ったよ」
その通りだったので、あっさりと言った。
今まで来るものは拒まず、もらえるものはありがたく頂戴していたが、先日、差し入れを持ってきたリリアン女学園の少女たちに、その気持ちだけありがたく受けとって、これから先は祐巳ちゃんからしかもらうつもりがないことを伝えたのだ。
「最低……！」
吐き捨てるように瞳子が言った。
「お兄さまがそんな人だとは思いませんでしたわ！」
瞳子から、全身の毛が逆立ったんじゃないかと思うくらいの苛立ちが伝わってきた。
だが、瞳子の激高に反して、俺は落ち着いてくる。
「そんな人って……」
瞳子が何を怒っているのか分からない。少女たちの気持ちを考えて、今まで通りニコニコ笑って、ありがたく頂戴しておけとでも言うのだろうか。祐巳ちゃんが本当に好きなら誠意を見せろと以前言ったのは瞳子のほうだ。
「そんなことをされてお姉さまがどんなお気持ちになるか、考えなかったんですか」
祐巳ちゃんの気持ち？
「……迷惑だったかな」
「迷惑！？ 分かっていて言ったの！？」
瞳子の剣幕に、俺は「降参」というように片手をあげた。なんで瞳子はこんなに興奮しているんだ。瞳子、落ち着け、落ち着け。
「祐巳ちゃんからしかもらわないとは言ったけど、他の娘からもらうのを断るから祐巳ちゃんにくれと脅しているわけでも催促しているわけでもない。いや、祐巳ちゃんにくれくれとは言っているけど」
「……他の子からもらうのを断る？」
「ああ」
「断った……の？」
「断ったよ」
「断った……」
瞳子が怪訝そうに眉をゆがめて瞬きながら俺の言葉を反芻した。
「プレゼントや差し入れは、お姉さまからしかもらわないと言ったのよね？」
「ああ、祐巳ちゃんからしかもらうつもりはないと言った」
言って、俺はハッとした。
「俺が祐巳ちゃんを好きだと言ったことで嫌がらせでもされたのか！」
「……」
瞳子の目や口が丸くなり、ああと唸りながら脱力した。
「お兄さま……」
「瞳子、離してくれ。祐巳ちゃんに謝らないと」
瞳子の腕を外そうとするが、瞳子は今までの勢いとは違った雰囲気で俺を制止した。
「ちょっと待って」
「瞳子」
「いいから」
はあ、と瞳子は大きな溜め息をついた。
「歩きながら話しましょう」
瞳子は手を離し、足元に置いた鞄を掴んで歩き出した。
「瞳子、祐巳ちゃんは何をされたんだ」
「……優お兄さまが心配されている意味では、なにも」
瞳子の呟きに、俺は自分の迂闊さを呪う。俺が祐巳ちゃんを好きだと表明することで、他の女生徒達がどういう行動に出るのか、考えもしなかったなんて。
「お兄さまの言い方がいけないんです」
「そうだな。直接言うべきじゃなかった」
「……」
今更後悔しても遅い。
心に決めた人がいるからそのひとからしかもらうつもりはないとか、いくらでも言いようはあったのだ。だが、それでは祐巳ちゃんにきちんと伝わらないと思った。花寺の生徒たちに俺が祐巳ちゃんを好きなことを周知させたかった狙いもある。祐巳ちゃんが俺のことを好きな少女たちから嫌がらせをされるとは想像もしないで、「ロサ・キネンシスの？」「福沢祐巳さま？」「祐巳さん？」と首をかしげる少女たちに、呑気にも俺は「そう」と笑顔で答えたのだ。
「それ、お姉さまから渡されたのでしょう」
「それ？」
「お菓子」
「ああ」
俺は、祐巳ちゃんから押し返されたままの包みを二つ持ったままだ。そのとき、初めてカードがシールで貼り付けられているのに気づいたのだった。
「……」
そこには、それが祐巳ちゃんからの物ではないと分かる女生徒の名前と文字。
瞳子の顔を見れば、呆れたように俺を見上げてくる視線とぶつかった。
「どういうことだ？」
「優お兄さまへのプレゼントの類は、すべて福沢祐巳さま経由でしか受け取ってもらえない」
「え？」
「プレゼントや差し入れは、お姉さまからしかもらわないって言ったんでしょう？」
「言った……けど」
え？
「だから、祐巳さまの手から優お兄さまに渡してもらおう」
「ちょっと待ってくれ」
「祐巳さまからなら、もらってくれるんですって」
「どうしてそうなるんだ！」
思わず叫んだ。
叫んで、祐巳ちゃんが自分を窓口にするなと言った意味が初めて分かったのだった。
愕然とする俺に、瞳子が同情した眼差しを向けてくる。
「お兄さま、去年のロサ・フェティダを覚えていて？」
「え？ ――あ、ああ、支倉令君だろ」
「令さまもかなり女生徒に人気があったの。当然、誕生日やバレンタインのプレゼントやチョコレートもたくさんもらったけど、それって、全部、妹さま経由で手渡されたんですって」
「妹さまって……島津由乃ちゃん？」
現ロサ・フェティダだ。勝気な瞳の、長い髪を三つ編みにした少女。
ということは、なんだ？
つまり、俺の発言は、プレゼントをもらいたいのは祐巳ちゃんだけ、とは受け取ってもらえずに、プレゼントを渡したいなら祐巳ちゃん経由で、と受け取られてしまったということか。
「お姉さまが怒った理由がわかって？」
「ああ……」
なんてことだ。
がっくりと地面に両手と膝を着いてうなだれたくなった。どこをどう捻ったらそんな勘違いや考えに至るのだろう。
瞳子もさすがに同情したのか、俺の腕に腕を絡めて下から顔を覗き込んできた。
「お兄さま、お姉さまからクッキーはもらいました？」
「え？」
「もらったクッキーはそれだけ？」
「ああ」
「今日、お姉さまのクラスも調理実習があったんです」
「知ってる」
「それでね」
ためらいがちに瞳子が囁いた。
「お姉さまもひとつ用意していたって、由乃さまが。それって、お兄さまに渡そうとしていたんじゃないの？」
「……」
瞳子を見れば、大きな目が猫のように細められて、にっこりと笑った。
「誤解だってわかってよかった。お兄さまのこと本気で軽蔑しそうになっちゃった」
瞳子が絡めていた腕を離して、俺の手からラッピングされたクッキーを奪い取った。
「これは没収。ちゃんとロサ・キネンシスの妹さまである私から返しておきますからご安心を」
瞳子はふふと笑って俺の背中を押した。
「――行って。お姉さまは足が遅いから、今なら間に合うと思う」
「瞳子」
俺は笑うと、瞳子の頭をクシャリと撫でて、ついでに持っていた鞄も預けて身軽になると祐巳ちゃんの後を追った。
なぜ彼女だったのだろう。
烏帽子子である祐麒の姉だったから？ 従姉妹であり婚約者であるさっちゃんの妹だったから？ だから、身内のような感覚になっていたのだろうか。
惨めで情けない姿もたくさん見せた。それなのに、祐巳ちゃんの評価は、かっこいい俺よりも情けない俺の方が高くて。
彼女といると純粋に心地がいい。
楽しくて楽しくて、彼女といるだけで笑ってしまう。
作った「柏木優」も、作らない「柏木優」も知っている女の子は祐巳ちゃんだけだ。それがどんなにすごいことなのかを彼女だけが知らない。
でも、祐巳ちゃんは知らないままでいいのだ。
本音を隠して、隠し通すつもりだった。
それなのに、祐巳ちゃんと出会って、完璧で完全な男が演じられなくなった。意地悪で、腹黒で、性悪な素の自分が出てしまう。でも、そういうときのほうが祐巳ちゃんは本気で返してくれるのだ。
さっちゃんや瞳子が祐巳ちゃんに惹かれたように、俺もまた彼女に惹かれた。祐巳ちゃんのどこに、でも、祐巳ちゃんの何に、でもない。その思いに、理由などいらない。
「どこまで行ったんだ」
息が切れる。
今なら間に合うと瞳子は言ったけれど、祐巳ちゃんの姿はまだ見えない。
瞳子と話して、何分ロスしたのだろう。
違う道を行ったのか、それとも、もう駅まで着いてしまったのか。
次のバスは通り過ぎていないから、途中のバス停で立ち止まっているならそこで捕まえることは出来る。でも、おそらく祐巳ちゃんはずっと走っているか、歩いている気がした。
心臓が高鳴っているのは、これから失うかもしれないものに対する恐れだ。
今すぐ伝えなければ。
ちゃんと伝えなければ。
祐巳ちゃんが作るものが欲しいのだと。
祐巳ちゃんがくれるものだから嬉しいのだと。
さっき喜んだのも、祐巳ちゃんがくれたのだと勘違いしたのだと。
言って、説明して、ちゃんと伝えなければ。
「祐巳ちゃん」
これが他の誰かであれば、簡単に納得させられる自信がある。大人でも子供でも、簡単に扱ってみせる。
でも、祐巳ちゃんだけは別だった。彼女にだけ、俺の笑顔が通じない。
彼女は知らず人の本質を見抜く。だから、作った俺に嫌悪感を抱くのだ。
かつて俺を嫌いだと言った少女。そのとき、無関心でいられるよりも良いと俺は笑って答えたけれど、自分以外の男に向けられる笑顔がひどく腹立たしくて、少しでも自分に向かって笑ってくれたら、と思うようになったのはいつからだろう。
結婚に夢を抱いたこともない。
結婚した相手が浮気をしようが、自分以外の男と子供を作ろうがなんとも思わない。自分でもそう口にした。結婚と恋愛は別だと思っていた。
でも、祐巳ちゃんが他の男と付き合ったり、結婚したりする可能性に気づいたとき、自分でも良く分からない苛立ちに気づいてしまったのだ。
誰にも渡したくない、と。
――いた。
細長い歩道の先に少女の姿が映った。
遠くても、後姿でも、見間違えることはない。
祐巳ちゃんは走って、立ち止まっては大きく息を吐き、手で顔を拭う。そしてすぐにまた走る。
拭ったのは汗だろうか、それとも涙？
いま後ろを振り返ったら、追いかけてくる俺の姿に気づくはずだが、それを恐れるかのようにひたすらに前を向いて走っている。
迂闊に声をかけたら絶対に逃げられてしまう。俺に気づいて慌てて逃げる様を想像するだけで胸に痛い。
祈るように思った。
お願いだから、間に合ってくれ。
彼女を捕らえるまで。
この手に掴むまで。
その後は自分で何とかする。
そこまでは神頼みしない。
――ああ、やっぱり。
祐巳ちゃんが泣いている。
あと少し。
息を殺して。
足音を消して。
腕を伸ばして。
「祐巳ちゃん」
愛しい少女の名を呼んで引き寄せた。
了
【5のお題（黄）／05】
2009.10.17