柏木×祐巳 ※恋人設定
『まだ慣れない電話』
彼女が携帯を手に入れたのは大学に入ってからだった。
「祐巳ちゃん、おはよう」
目覚まし代わりに、携帯で彼女を起こす。
「おはようございます……」
まだ眠そうな声。
俺はくすりと笑った。
「眠い？」
「眠い……」
初めて電話をしたときには緊張した声で挨拶をしていたのに、今では慣れたのか、少し寝ぼけたまま甘い声で彼女はささやく。それが、俺の耳元でどんな風に聞こえてくるのかなど、彼女は想像もしないのだ。
初めて彼女が携帯を持ったときは、扱いがまったく分からずに俺が教えたり、カスタマイズしたけれど。
こっそり、俺からの着信音を日本昔話のエンディング曲にしたときには、柏木さんの馬鹿ぁ！ とお叱りの電話を受けた。
「祐麒に、携帯が人間になりたがっているぞって言われちゃったじゃないですか！」
「ははは！」
俺は声を出して笑ってしまった。そして、歌う。
「いいな、いいな、人間っていいな♪」
「もおおお！ いつの間に入れたんですか！」
祐巳ちゃんがさっちゃんからの着信音をグノーのアヴェ・マリアにしたいというから、俺がネットでダウンロードしたものを彼女の携帯に移したのだ。そのついでに、いくつかの曲も。
「ねえこれ、どうやって変えたらいいの？ 祐麒に聞いたら、柏木さんに聞けって。あ、待って、待って、紙に書くから」
携帯のメールを10文字打つのに5分もかかる少女には、着信音を変えるという芸当はまだ難しいらしい。携帯を買ってきたときについてきた分厚い説明書に書いてあるだろうが、読んだ？ と聞いてみたら、最初の20ページまでしか読めていないという。最初から全部読むつもりなのか？ 20ページじゃ、機種説明も終わっていないだろう。
結局、俺が会ったときに直接変えてあげるよ、と言って次に設定した着信音は有名ＲＰＧのレベルアップの音だった。
だが、彼女はそれがなんであるのかを知らなかったらしい。数日後、花寺大学に通うユキチから、姉の携帯が毎朝レベルアップしているんですけど、と報告を受けてまた笑うことになる。
ユキチは呆れ顔だ。
「先輩、祐巳をからかうの止めてくださいよ」
「可愛いだろ。期間限定の楽しみだから許せ」
俺がニコニコと笑えば、ユキチは大きく溜め息をついた。
そして今――。
就寝前に、俺よりも寝るのが早い彼女が電話をかけてくる。
「今、電話大丈夫ですか」
大丈夫だよ、と笑って囁けば、ホッとしたように笑う気配が伝わってくる。
朝は俺から、夜は彼女から電話をかける。それを約束事として決めたのは俺だった。
「まだ起きているんですか？」
電話の向こうで首をかしげている様が目に浮かんで、俺はそれだけで笑ってしまう。
「うん、もう少し。祐巳ちゃん、明日は休みだったよね。何か出かける用事でもある？」
「ないです」
「じゃあ、午後にでも会おう。――ＯＫ？」
「はい」
「昼に電話するよ」
今、俺からの着信音は何になっているのだろう。彼女が携帯の扱いに慣れてからは、携帯に触れることは一切ない。
今度、一緒にいるときに電話をしてみようか――。
――いや。
ありふれた着信音になっていたら、知らなかったほうがよかったと思うに違いない。いろいろと想像しているうちが華だ。
電話が鳴るたびにワタワタしたり、メールを必死に打っている姿を見るのはとても楽しかったけれど、今はそんな姿を見ることもなく、彼女の成長を喜ぶよりも、それが少しだけ残念だった。
オヤスミ、オヤスミナサイ。囁くように挨拶を交わして電話を切った。
話したいことはたくさんあるけれど、長電話をするよりも直接話すほうがずっといい。何より、彼女からかかってきた電話で長時間話せば、通話料は彼女の負担となる。
最初は挨拶だけで切っていた電話。今は少しだけ会話が長く続くようになった。
本当は、オヤスミではなく、愛しているよ、と囁いて切りたいけれど。
言ったら彼女は真っ赤になるだろう。
それが分かっているから、あえて言わないようにしている。言葉を惜しむわけじゃない。自分の目で見るより先に、彼女がその言葉に慣れてしまったら困るから。
「祐巳ちゃん」
俺は彼女が眠っているであろう方角に囁いた。
「オヤスミ」
お釈迦様、どうか愛しい少女に良い夢を。
了
【発展途上の恋のお題 02】
2009.11.5