六太×陽子／きよた家様

　　　『山葵』

　目を覚ますと、そこは暗闇だった。

　意識が朦朧とした。
　泥のように重い体を動かすと、じっとりとした汗で身体が濡れているとわかり、不快に眉が歪む。加えて身体の節々が痛かった。どうやら、今朝から熱は更に上がったようだ。
　少年は、無性に笑いたくなった。まるでただの人のようじゃないかと思うと、あまりの馬鹿馬鹿しさに笑わずにいられない。
　自分は決して人でない。
　まして神でも、獣でもない。
　…それならいったい、なんだと言うのだ？
　何かに向かって、彼は毒づいた。

　少年の本性を麒麟と言う。
　天意を聞き王を選び、王に仕え、生涯その身を捧げる生き物。
　ただ、それだけの生き物。

　六太は小さく息を吐いた。

　頭が割れそうなほどひどい耳鳴りがする。どうにか視線だけを動かして周囲を探ると、勝手知ったる臥室の広さにしばし呆然とした。

（…こんなに広かったけ……）

　ひとりで使うには大きすぎる臥室。当然のように、誰の姿も見つからない。
　静寂に支配されたそこは、眠りに付く前の喧騒が幻であったかのように思えるほど、ただ静かだった。

　宰輔が病に倒れたとあって、一時玄英宮は混乱の渦に叩き込まれた。

　ただひとり落ち着いていたのは彼の主だけ。男はよほど日ごろの行いに自信があるのか、失道を懸念する官吏をせせら笑うと「ただの風邪だ」と言いきり、ひとり悦に入って「馬鹿でも風邪をひくのだな」と言い放つといずこかに消えた。
　黄医により風邪だと診断されてから玄英宮は落ち着きを取り戻したが、六太に近親しい官吏がかわるがわる様子を見に来る中、彼の主は一度として顔を覗かせていない。

　薄情な奴め、とは帷端の言。だが、居たところで邪魔者扱いされるのが落ちだろう。
　宰輔の健康は時間と休養が解決することであって、側に居たところで誰も何もできやしないと、あの男はよく知っているのだ。
「……」
　六太は弱々しく瞬きをした。
　嫌なことを思い出す、と思った。こうして独り、動きたいのに動けずにいると。
　静かに終わりを待った、遠い昔の事を思い出す。
　それは熱のせいだと強く自分に言い聞かせた。誰かの声が聞きたかったけれど、控えた女官を呼ぶために体を動かすことも億劫で。
　瞼を閉じ、意識が闇に落ちて行くのに任せた。

　……。
　夢を、見た。

　子守唄が聞こえる。
　旋律だけのその唄が、不安を湯に溶かしていくように体のこわばりを解いていく。
　旋律を奏でる女は、大切そうに腕の中の乳呑児を抱き直した。
　六太はこのひとをよく知っていた。そう――そう、母親と呼ぶのだ。

　表情は雲がかかったように見えなかったけれど、優しい顔で微笑んでいるのだとわかった。
　今よりもずっと小さな手を彼女に向かって伸ばせば、いっそう彼女は微笑んで、早く大きくなれと唄うように口ずさむ。あやす腕の動きが途方もなく心地よくて――。
　眩暈がするほど、幸せだった。
　でも…。

　…知ってる、これはそのうち悪夢へと変わる。
　だって彼女は、成長とともに聡くなる子供を気味悪く思ったのだから。
　どんなに耳を塞いだ声も、肌が覚えている。黒い絶望。落とされた虚無の空間。
　縋りつく腕も、助けを呼ぶ相手すら見つからない。走っても叫んでも誰も居ない。

　孤独…。

　咄嗟に目を覚ますと、寝具に冷や汗が流れ落ちた。
　それと同時に、額に乗っていた何かが驚いたように離れていく。
「――ごめん。起こした？」
　聞こえたそれは、よく知った声だった。だけど彼女がここに居るはずもない。
　視界を晴らすために二、三度瞬いて、半信半疑に声をかける。
「……ようこ…？」
　彼女は、微笑んだ。暗闇の中で、それだけはしっかりとわかった。
「うん。風邪だって？　大丈夫？」
　気安く臥牀に腰掛けた赤髪の女王は、そっと手を伸ばして六太の頬を包む。
　発熱に火照った頬にそれは、涼やかな風のように心地よかった。思わず深く、息を吐く。
「きもちいー…」
　その声に、陽子が笑った。
「そう？」
　それはたくさんの苦労と、仕事をしている手。

　…あの人の手も、そうだった。
　たくさんたくさん苦労をする時代。母は職を失った父を助け、飢える兄姉と自分を養うために働いていた。子供を抱き上げる腕は力強く、鍬を握る手は肉刺だらけで。
　早く大きくなって助けたいと、そう強く強く思った。

　だから、初めて役に立つのだと思えば、置き去りにされることすら恨むに値しなかった。

　それにしても、大きくなりたいと願った末に子供のまま成長が止まるとは。
　なんと、皮肉なことか…。

「…どうかした？」

　無意識のうちに笑っていたらしい。六太は小さく首を振るとゆっくりと瞼を閉じて、開く。
　陽子がそれを見て首をかしげた。
「眠い？」
「…んー…」

　否定とも肯定ともつかないその答えをどう取ったか、陽子は臥牀から腰を浮かせた。
「風邪は休むのが一番だからね。ゆっくりやすみな？」
　気配が遠ざかっていくのがわかって、声をかけようとした。
　慌てて、それを飲みこむ。
　…陽子は、きっと、尚隆に会いに来てたまたま自分の発熱を知り見舞ったのだ。
　だから様子を見た以上、ここには留まらない。
　そう思って、心を埋めたのは寂しさだった。
　さっき感じた、遠い昔に感じた心細さ。

　いつまでも待っているからと、そう思うことで押し消した本音。――困らせたくなくて。
　おもわず唇をかみ締める。

　でも、本当は――。

　優しく頭を撫でられた。
　驚いて目を開けると、陽子が少し不思議そうな顔をして見下ろしている。
「ん？　ほら、ここにいるから。早く寝な？」
　椅子を側に引き寄せて座り、そう言う。

　ココニイル、と。

「六太くん？」
　慌てて寝返りをうって、六太は布団の中に顔を押し込む。
　……泣きそうになった。
　彼女にとってはなんの気負いもない、何気ない一言。

　たった一言。

　でもそれは。
　ずっとずっと欲くてたまらなかった、言葉。

「――眠ったか？」
　その声に振り返った陽子は、口元に人指し指を立てて男に注意を促した。
「静かに。…よく眠ってます」
「ふむ」
　六太を見下ろす尚隆を見て、陽子は苦笑する。
「心配ならそう言えば良いのに」
　尚隆は鼻で笑ってみせた。
「こいつも俺より、陽子が見舞うほうが喜ぶ」

　それ以上は男が応じるはずもないとわかったので、陽子は肩だけを竦めた。しかし、尚隆は陽子の手を握って眠る六太をもう一度見下ろし、眉を顰める。
「――それはいただけんな」
「はい？」
　首を傾げた陽子の空いた左手を取り、口付ける。
「ちょ…っ」
「静かに」
　そう言ってにやりと笑う。
「だろ？」
　と、もう一度唇を寄せ、溜息をついてしぶしぶ妥協した。
「まあ、今日のところは六太に渡そう」
「…何を馬鹿な…」
「だが、俺にするように薬や水は飲ますなよ？」

　陽子の顔が紅潮する。その変化を見て、くつくつと尚隆は笑った。ふと笑いをおさめ、
「で？」
「…え？」
「お前、ここに居るのか？」
　問われて陽子は何のためらいもなく頷いた。
「もちろん」
　そしてやすらかに眠る六太を見返す。
「…起きた時に一人じゃ、寂しいでしょう？」
　そうだな、と頷いた男は牀榻の脇、陽子の足元の床にどかりと腰を下ろした。
「ならしばらくここに居る」
　陽子は呆れて尚隆を見、次いでくすくすと笑った。
「……なんだ？」
「いえ、なんでも」

　まったく、この主従は素直じゃなくて。
　――だから愛しいのだとは、言ってやらないけれど。

　弱く手を握り直してきた六太を見て、陽子は微笑む。

　大丈夫、みんなそばに居るから。
　だから安心して、おやすみ。

　了

2002.05.08

……きよた家様のコメント……

山葵（わさび）：花言葉『うれし涙』
風邪引きシリーズ、休息・六太編でした～。

あの優しい空気が私にはマネできませんけど…。
本当に丈田さんの話好きですｖ
これからもいっぱい読ませて下さいね！
★☆一周年おめでとうございます☆★＼(^ｏ^)／

きゃあきゃあきゃあｖ
風邪シリーズ六太編～！！

めちゃツボです！！

あの優しい空気が真似できぬというけど、思いっきり優しいですよ！！

六太に感情移入して胸が温かくなりました！！
そして、本当に嬉しく！！

延王が！　きよた家さんの書かれる延王がまた！！

くうう～！！
イイ男じゃーー！！

陽子の足元に腰を下ろしちゃうあなたが大好きです！！

陽子の二人を思う気持ちが伝わってきて、本当に嬉しい～ｖｖ

ステキな小説、本当にありがとうございました！！