梨耀のシリアス／明美様

　　　『薔薇の夢』

　夢を見た。
　一番忘れられない日の夢。
　一番の悪夢を。

　梨耀は目覚めると自分が泣いているのに気がついた。
　慌てて夜着の袖口で拭う。
　自分は情け知らずの女。涙を知らない女なのだ。こんな所を見せる訳にはいかない。
　久々の悪夢は梨耀の心を底無しの沼に突き落とす。久しぶりの外出だというのに、心が浮き立たない。

「如何されました？　翠微君」
　柔らかな声が物思いに耽った梨耀を呼び戻した。
「申し訳ない。…昔を思い出してしまったようじゃ」
　慶国の芥沾洞主は、梨耀の詫びに静かに首を振る。
「わたくしと会うという事は、昔の事が話題に出易いものです。気になさらないで」
「そう言って頂けると嬉しいが……」
　目を伏せ、梨耀は出された茶を飲む。この国は農産物の出来が良く、茶も口の肥えた梨耀でも、極上だと思う物を生産する。この国が波乱に満ちていた時、輸入に頼っていたようだった茶が、漸く客に出せる茶を生産出来るようになったという事であろう。
　真向かいに腰掛けた中年の女が風変わりな菓子を差し出した。
「これは、蓬莱のお菓子だそう。お口に合えば宜しいのですが…」
「蓬莱の？」
「最近、この国では蓬莱の物が流行しているのですよ。菓子だけでなく、料理や文化も随分と取り入れられているんです」
　そう言って大きな花瓶を指し示した。鮮やかな花を中心に生けられ回りに白く小さな花が囲って生けられている。こちらでは見かけない生け方だ。それを聞くと、小さく女は笑った。
「これも行事の一環なんですって。『母の日』と呼ばれる日に、花を女親に贈るのが流儀だそうけれど、景王にはこちらにお母さまがいらっしゃらないから、わたくしに下さったのです。こういう風に生けるのが蓬莱の流行だそうよ」
「……随分と景王と親しくなったようじゃ。芥沾君」
「わたくしも、どうしてなのか不思議ですわ」
　沈黙が降りる。
　二人の女は、出会った時、王の傍らで笑っていた。
　片や王の母として。
　片や王の寵姫として。
　その国の女の頂点に立っていた。
　今のように、人からも、国からも、忘れられていく存在ではなかった。
「ねえ。翠微君？　お聞きしたい事があるんですけど、宜しいかしら？」
　梨耀は首を傾け、女を促がした。
「子供を欲しいと思った事はないのかしら？」
　密やかに問われる。
　梨耀は笑ってみせようとした。だが、笑おうと努力しようとしたが無理だった。一つ溜息を吐く。どうせ、この相手に取り繕っても無駄だと解っている。とても長い付き合いだからだ。
「この男の子供を欲しいと思った時、すでに男は『人』ではなかった。……以来、思った事はない」
「そうですの……」
　そう言った女からは一切の同情が見られない。それが、梨耀には心地良い。上辺だけの同情は梨耀には必要がない。馴れ合う友人なども必要ない。必要なのは、先の見えない生に偶の一時を過ごす相手だ。
　蓬莱の菓子を頬張ると、さくりと音を立てて咽に落ちていく。風変わりな味のする菓子だ。もし、この菓子を主上に差し上げたらどう反応しただろうか。新しい物が好きで、変わった物が好きで、綺麗な物が好きだった梨耀の主上は……。

　それは――「悪夢」

「本日より貴女に翠微洞洞主を務める様、主上からの御下命に御座います」
　天官長のしかめ面に、私は思わず額に寄った皺を数えたくなった。そんな時ではないのに。
　私は榻に張られた錦の刺繍を撫でながら、天官長の次の言葉を待った。
「何か言いたい事はないのですか？　薔薇（そうび）君」
「言わなければならないの？」
　私はずっとこの日が来るのを覚悟していた。
　主上に、自分の愛した男に、ここ何日か会っていない。日中も、夜も。
　この日が永久に来なければいいのにと思っていた。少なくとも同じ宮で過ごしている。もしもの場合、自分が刺客の盾になれるかもと、思っていた。
　この日がもっと早くに来て欲しかったと思った。こんなにも愛した男と同じ宮に居ながら会えないのは切ない。もっともっと早くに追い出されていたら、こんなにも愛してなかったかもしれない。
　薔薇に飾られた房室を見渡した。主上が似合うと言って薔薇で房室を飾らせ、意匠も薔薇で揃えさせられた房室を。
「次の薔薇は誰？　私の知っている女？」
　歌うように梨耀は訊ねた。
　天官長が一気に青褪めた。きっと、知っている女なのだろう。正直な男だ。こんなにも感情が出易いとは。だから、私は心置きなく出て行けるだろう。少なくとも、この男には主上を傷つけられない。この実直な男は、きちんと務めを果たすだろう。もし、この男が害意を持っても、この解り易い表情ならば、きちんと主上は見抜けるだろう。
「何故っ、貴女が捨てられる事になるんだっ！」
　激昂した男は卓に拳を振り下ろす。私は卓に傷ついてないかどうか気になった。この卓にも薔薇の彫りが施され、私のお気に入りでもあったからだ。
「決まっているでしょ。私はもう主上に厭きられてしまった。ただそれだけよ」
「だからと言ってっ！」
「私の存在は主上のお傍には必要ないから、だから、追い出される。簡単でしょう」
「簡単じゃないっ！　…貴女はっ……」
　言い募る天官長の口を扇で押さえる。そして、そっと囁いた。
「主上をお願いします……」
　吃驚して呆けた男を残し、私は房室を出た。天官長は追ってこない。それほどに吃驚しているのか。この気の強い私がしおらしく頭を下げたことを信じられずにいるのだろうか。
　最後に主上にお会いしたかったが、きっと、無理だろう。御下命は主上の口からお聞きしたかったが、それすらも、したくないようだから。
　厩へとゆったりと歩きながら、咲き乱れた花を目に焼き付ける。この花々が主上の心の拠り所になれれば良いのだが…。そう思いながら歩いていると、前から女の集団がこちらに寄ってくる。
「まあ…！　翠微君。お一人ですの？」
　中心の女は高らかに声を上げた。周りの女はくすくすと笑っているだけだ。きっと、もう知れ渡っているのだろう。私が翠微洞に行く事が。
「ええ。一人で充分ですわ。良く知った庭ですもの」
　言外に一人で歩くとまだ迷子になるでしょう、と含ませて。それが伝わったのか、ぴくりと青筋が額に浮ぶ。厚い化粧が落ちるんじゃないかと思う。
　桔梗の房室を賜っている女が宥めるように囁く。
「薔薇君。主上がお待ちかねですわ」
「ああっ。そうでしたわ。わたくし急がなくては」
　この女が次の薔薇の房室の住人なのか。天官長が青褪めたのが良く解る。この女とは何時も競い合っていた。何もかも。
「では、失礼しますわね。翠微君」
　わざとらしく、『翠微君』に力を込めて。勝利の笑顔を浮かべて。
　私はくすりと笑った。最後に盛大に意地悪をしてやろう。
「薔薇君？　何時も思っていましたけど、その厚い化粧はお止めになられた方が宜しくてよ？　主上は脂粉の匂いがお嫌いですもの。それに、その派手な色合わせは似合いませんわ。まるで孔雀のよう。……ねえ、元『菫』君？」
　小さく可愛らしい菫。どうしてこの女が菫の房室に入られたのか解らない。瞳の色が菫色だからだろうか。それとも、最初に後宮に入った時はまだ愛らしかったのだろうか。もっとも、もう私にはどうでも良いのだけど。
　地団駄を踏む女達を残し、私は再び歩きはじめる――。

　その夜、新しい臥牀で梨耀は少しだけ泣いた。

　それは「悪夢」――。
　忘れることの出来ない――薔薇の夢。

　了　

2002.05.19

……明美様のコメント……

梨耀主役のお話です。

えっと、書き切れなかったんですが、梨耀が一番の悪夢だと思っている夢は
「主上に暇を出される事」でした。

必要とされない事って、寂しい事じゃないかなって思いまして。
これを書いている時、何だか天官長Ｘ梨耀になってきたわ。私。
メロドラマみたく、三角関係の……。

これ、最初にいただいたとき想像していたのとちょっと違ってて（いい意味で）
読み終わったとき、ぞくってしちゃいました！

梨耀、好きーーー！！！
明美さんも大好きーー！！

先々代の景王母がいい感じ出てます！！
確かにあの時、仙同士ってけっこう頻繁に会っているのかな、とか思ったけど、
梨耀にもお友達（というか、思いを共有できる）人がいるのがすごく嬉しかった覚えがあって。

私が梨耀のことキライじゃないのは、鈴にはきつかったけど、
陽子に対する印象はけっこういい感じだったからかもしれません。
（所詮、陽子至上主義だからなーｖ　笑）

采王も（この男！　怒）梨耀がいなくなってから急激に傾いたというのも分かるような気がしますよ。
もう、最後が切ない切ないーー！！
でも、こういう話、本当に好き！

主上が書かれない外伝、みたいな感じでｖｖ　（私もそんな話が書きたいの！！）

＞えっと、書き切れなかったんですが、
梨耀が一番の悪夢だと思っている夢は「主上に暇を出される事」ということでした。
必要とされない事って、寂しい事じゃないかなって思いまして。

うわーー！！
分かるーー！！
王が死んだとき、彼女ってどう思ったんだろう、とか思うとギャー！　すごく切なーー！！

最初は采王だって梨耀一筋だったんだと思うし！

彼女が王宮を出るとき、ふと周りを見たら友もなく、
自分ひとりだけだったということに気づいたときが一番辛いに違いないよー！（泣）

王さまと国のためにずっと頑張ってきたんだもん！　泣いたっていいよ！！

梨耀はねー。キライな人、多いと思うけど、
彼女がこれから少しでも救われるような形になればいいなって思う！！

＞これを書いている時、何だか天官長Ｘ梨耀になってきたわ。私。
メロドラマみたく、三角関係の……。

天官長、激昂！！（笑）
でも、梨耀がしてきたことを思えば、天官長ともいろいろと話すこともあっただろうし、
天官長にしてみたら身近にいていろんな相談にも乗ったり乗ってもらったり。
密かに思っていてもおかしくない！
でも決して手を出すことが許されない人で。
それはせつないよーー！！（泣）

でも読みたい～（笑）

明美さん、本当にありがとうございました！