延王×陽子／おおわ司様
『幸降る夜に』
クリスマスか。
ふと陽子は呟いた。
忙しすぎて、これまでそんなことは忘れていた。こちらへ来てから、そんな行事があったと思い出すのは年を越してから。大凡その時季に思い出しただけ、少しは余裕がでてきたということなのか。実際、あちらとこちらの時節は似ていても、日付は違うのだろう。
だから、多分クリスマスの頃だとぼんやり思うだけ。
もっとも今思い出しても何の意味もない。
蓬莱、しかも元々は更に外国から入ってきたものだ。ほとんどの人にとっては、ただ楽しむためだけのイベントとなっていて。
陽子もそうだった。
ケーキを食べ、幼い頃にはプレゼントを貰っていたように思う。
最後のクリスマスなど、何をしていたのか。
家族で食事に出掛けたわけでもなく、太るからとケーキも我慢した。
覚えているのは、夜の街を彩る美しいイルミネーション。
暖かそうで、自分には触れられない気がして寂しくなって。まるでマッチ売りの少女だと思ったのだ。
一人苦笑して、陽子は窓を開けた。
陽が落ちて久しい冬の空気は刺すように冷たい。それでも雲海の下より、もっと北の地より遙かにましなのだろう。もう一枚上に羽織ってから、陽子は露台に出た。
冬の海の波は荒い。
夜の空気には、何故これほどに波の音が大きく響くのだろう。
風の音が寒さを増幅させる。
端まで歩を進め、陽子は空を見上げた。
今宵の天に月はなく、その分、星がさやかに見える。
小さな星は輝いてはいても、雲海の上すら照らすことができない。
抱き締めるように身体に回していた両腕を開き、胸の前で指を組み。そして目を閉じる。
世界にメリークリスマス。
誰もが幸せになれるように。
そんな言葉を耳にしたことがある。
そのときは多分、無関心だった。
全ての人の幸せなど、考えられなかった。自分のことで精一杯で。
どうして、そんなことを信じられる？
否、言っている人たちが本当にそう思っているなどと、きっと信じていなかった。
何か聞こえたわけではない。
何を感じたのか。それすら定かではないけれど、陽子はまぶたを開けた。
そして。
目の前の宙に、影を、見た。
息を呑む。
闇を映して猶、輝く目。
美しい毛並みの、虎がいた。
最高の騎獣と呼ばれるすう虞は、風を思わせる動きで静かに露台へ下降してくる。
そして着地するより前に、その背から男が飛び降りた。
「陽子。この寒い中、何をしている」
怒りと呼び得る表情。非難するかのような口調に、陽子は困惑する。
「いったい、どうなさったのです」
「風邪をひいたらどうする」
不機嫌に言って、すう虞の主は彼女の前に立った。
「大丈夫。尚隆の方こそ」
ここよりも冷たい大気の中をやって来たのに。
ぴくりと眉を上げ、尚隆は旗袍を開く。
陽子はぎょっとして止めようとした。
「駄目ですよ、あなたが……わっ」
風邪をひくと続けようとしたのだが、強引に抱き寄せられて尚隆の胸にぶつかるように収まる。そして合わせた旗袍越しに抱き締められた。
広い胸に頬が密着する。
陽子は一瞬、震えた。その、熱さに。
「尚隆……」
「まったく。本当におまえは何をするか分かったものではない。おれが見ていないからと、無茶ばかりしているのではあるまいな」
心配を隠そうとしているのか、少々怒りの交じった口調だ。
「その言葉……あなたに返します。忙しいでしょうに……この寒い中を……」
会いに来てくれたのだろうか。
口にする自信がなくて男を見上げると、黒瞳が見つめていた。そして、尚隆は仕方がないといった体で溜め息を吐く。
「年が明ければおまえが雁へ来るのだと、皆うるさく言うが、そんなことはおれもよく分かっている。ただ……呼ばれたような気がして我慢ならなかった」
ふいと途中で目を逸らした尚隆は、陽子が瞠目したことに気付くことはなかった。
何故か涙が零れそうになり、陽子は慌てて俯いた。そのまま胸に凭れかかる。
「陽子？」
低く豊かな声音が降ってくる。胸に射し込む、深い響き。
「……陽子は何故、外にいた」
何故、と問われると困るのだが。
何をしていたかと言えば。
「祈っていたのです」
「祈って？」
余程、意外だったのだろう。虚を衝かれたように尚隆は言を継ぐ。
「天帝にか？ おまえが？」
陽子は目をしばたたかせて自問する。
何に対して祈るのか。
神というなら自分もそうらしいので、祈りを捧げられる側になってしまう。
では、天か。
―――人は自らを救うしかない―――
そんな言葉が蘇る。
言ったのは陽子自身。
今もそう思っているけれど。
「特に、天と思ったわけではなく……何にと訊かれるとよく分かりません」
明確に祈りを捧げる‘存在’など、ないように思う。
「自然かもしれない、私を抱く大きなもの。それを天と呼ぶなら、それでも良いけど」
上手く説明できなくて、ひどくもどかしい。
「くちびるを咬むな」
無意識にやろうとしていた行為。尚隆には多分、見えていないのに言い当てられてしまう。胸の動きで、尚隆が息をついたと知れた。
「祈ってどうにかなるとでも言うのか」
時を待ち、見定め、自らの力で動かしてきた男には似合いの言葉だ。
陽子とてそう思っている。ただ祈るだけで何か変わるはずもない。変えるのは自分自身だと。
「でもね、祈りを持つのは自分以外の何かを……誰かを信じることだから、悪くはないと思う」
ふと浮かんだ言葉。
蓬莱でいた頃に耳にしたのだろう。
「祈りを忘れてはいけないんです。それは自分を誰よりも一番、偉いと思うことで……」
長じて、自分のことしか考えなくなる危険がある。
「自分が一番偉いのだという顔をしろ、と言った気がするが」
憮然とした口調に、陽子はくすりと笑う。
「顔はね。でも、一人で全てを成したわけではないと、あなたは知っている」
男の、王たる自信は過信ではないはずだ。
「皆が幸せであれるようになんて祈ると、責任転嫁だと思われるかもしれませんが私は逃げませんよ」
もう一度、尚隆の胸が大きく動いた。
「景王として、なのか？ 陽子自身の祈りだろう。皆の中におれは入っていないのか」
やさしく、だがどこか拗ねたように問われて、陽子は思わず笑った。
「ああ、そうか。……ええ、もちろん入っています。……いくら王が偉くても、どうにもならないことって、たくさんあるでしょう？ たとえば、人との出会いや別れもそう……」
そうだな、と男は呟く。
狭い旗袍の中で尚隆の身体に腕を回し、陽子は目を閉じた。
「だからきっと、祈りを捧げるんだ」
願いとしての祈り。
感謝としての祈り。
誓いとしての祈り。
「出会えたことに感謝している」
「ああ」
心が繋がったと思える瞬間の幸せ。
陽子が目を上げると、少し眩しげに細められた夜空の色の瞳が見つめ返した。
陽子は笑むように、ゆっくりとまぶたを閉じた。
聖なる夜などない世界。
雲上には雪も降らず。
それでも。忙しく過ぎゆく日々の中のひとつの機会として、一年に一度でも思い出せたら。
メリー・クリスマス。
誰もが幸せを掴めるように……
了
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