浩瀚×陽子／Ｈ.ｖ.Ｈ.様

　　　『Radiant Restraint』

感傷とはいささか違う関心をもって、男は月を眺めていた。
たしかに、月は美しかったが。
今日の昼間に聞いた興味深い話が、生来感傷よりも理知を好む男の目を月に向かわせた。
「冢宰殿は、月が大地を巡っているのをご存知か。」
ささやかに学問所を開いている蓬莱人から、ふいに投げかけられた問い。
それは知っていた。
同じく蓬莱で生まれ育った己の主から、そのように聞かされたことがあったから。
信じられぬと正直に答えると笑われた。

主観よりも客観を、誰よりも重んじるように見える浩瀚でも己の視点に執着することがあるのだと。

「では、月が常に同じ面を大地に向けているのはご存知か。」

この蓬莱人のもとに、こちらに知られていない知識を吸収しようと通うようになってからはずいぶんと時を経たが。
まだまだ彼は思いがけない事柄を教えてくれては驚かせてくれる。

「そのお話は存じませぬ。」
首を振った浩瀚に、海客の男は使い古しの紙に筆でさらさらと絵図を描いた。
「こちらが大地、こちらが太陽、そしてこれが月です。」
この世界に昼と夜があるのは、大地が独楽のように回転しているから。
一日にひとまわり、ゆっくり回転するから。
魚を火で炙る時、両面ともに火が当たるように料理人は、魚を差した棒を火の上で一回転させる。
同じように、大地はその両面が太陽の光を浴びることが出来るように回転している。
「ところが月は違うのです。」
蓬莱人は面白そうにそう言った。
「月は、大地の回りを巡っておりますが常に同じ面を向けているのです。」
月の面（おもて）に見える模様は、毎日同じだ。
季節により時間により、変わるということはない。
「面白いお話です。それにしても、何ゆえに月は自ら回ることをしないのでしょう。」
浩瀚の問いに、蓬莱人は静かに答えた。
「地球が、大地が月を繋ぎ止める引力があまりに強いためです。」
質量が三分の一もない月の力は、地球の圧倒的な引力に逆らえないのだと。
もっとも近くに在るがゆえに、その強い束縛を一身に受けて。

・・・・羨ましいことだ。

声に出さず、この国の冢宰は呟いた。
後ろを振り向くことすら許さず、日がな、あの美しい月に己のみを見つめるよう強制し続けているこの大地という存在を。
羨ましいと思った。

一方で月を哀れにも思った。
絶大な引力に引き寄せられ、地球以外の存在を見ることすら許されぬ月を。
哀れに思った。
思ったのだが。

夜になり、ふと冴え冴えとした月を見上げた時、笑われているような心持ちがした。
月は、その美しい面（おもて）を惜しげもなく晒し、嫣然と佇んでいた。

・・・・・・余計な心遣いは無用か。

この大地に繋ぎ止められている己を至福に感じているかのように。
月はただ誇らしげに、男の顔を煌々と照らしていた。

　　　※

仄かに漂った愛しい香りに、浩瀚は振り返った。
いささか険しい顔の己の主が、翠玉の瞳でじっとこちらを見ていた。
立ち上がり、露台に女王を導くと、困ったような顔を作って問いかけた。
「ご機嫌が麗しくないようですが、いかがなさいましたか。」
陽子はついと顔を背けた。
男にとってそんな仕草は可愛らしくてたまらないのだがそれでも、口元が緩みそうになるのを抑えた。
「困りましたね。私が原因ですか。どうすればご機嫌を直していただけるのでしょう。」
困ったというのは口先だけだ。
彼女がこんな風に子供っぽく拗ねて見せたりする相手は他にいない。
それがわかっている男にはむしろ、こんな行為は幸福の極みだ。
「月は、そんなに美しいか。」
小さく、女王が言った。
きわめて、不機嫌そうに。
首を傾げる男に、繰り返した。
「見蕩れるほど、美しいか。月は。」
男が涼やかな目を、ずっと天上の白い光に向けていたことが、女王には気に入らない。
その視線を、いつだって独占していたい身としては。
「おやおや、焼きもちですか。」
涼やかな笑みを崩さない浩瀚に対し、陽子の頬がぱあっと上気する。
「なにを、考えていた。」
険しい声音のまま、陽子が問うた。
「私のことか。」

そうでなければ許さぬと言いたげに、女王は臣下に大きな翠玉の瞳を向けた。
心の臓を一撃するその視線には、いつも敵わない。
彼女から漂う甘い香りに、男は搦め捕られるような錯覚を覚えた。
「さあ。」
わざと、首を傾げて見せる。
そう言えば女王がさらに口を尖らせて、可愛らしく拗ねるのを知っていたから。
じろりと睨みつけてくる少女の細い腰をそっと抱き寄せ、それに抗おうとする腕を己の長い腕の中に封じ込めながら、浩瀚は月を思った。

誇らしげに輝くあの月を思った。

おまえは、至福なのだろう。
ただ一方のみしか向くことを許されないその不自由が、心からの幸せなのだろう。
地球という存在の、強すぎる引力に抗えないがゆえの甘い束縛が、おまえの喜びなのだろう。

「貴女はご存知ないのか。」
小さく笑んで、浩瀚は囁いた。
「私が恋うるのは、月ではない。」
抱き締める腕の力を強めると、あ、と少女が小さく呻き声を上げる。
「私が恋うるのは、太陽だ。」
それは燃え立つ、灼熱の輝きを秘めた、
紅蓮の炎の舞う姿の、圧倒的な美しさで。

女王は笑った。
くすくすと、仕草だけは可愛らしく笑った。
だがその瞳には、限りない妖艶さが仕舞い込まれていて、ひょんな拍子に顔を覗かせる。
「焼け焦げるぞ。」
いささか挑発的なその瞳に。

「本望です。」
男は迷わず即答した。

　了

2003.02.21

……Ｈ．ｖ．Ｈ様のコメント……

「浩陽で月」はうちでも余所でも出尽くされた感が否めませんが、
このネタ（月と地球の束縛関係）はもともと某ボーイズラブシリーズから貰いました。（マテ）
その筋（笑）の元祖みたいな老舗シリーズなので知ってる人もいるかも。
タイトルですが、意味的にはbindingのほうが「束縛」に近そうなのですが語呂を重んじてます。

ゆったりと流れる時間が文章として書ける、そこがはーさまのすごいところだな、と。

穏やかに過ぎ行く時間と空間。そして会話。
読み終わるといつも溜め息が漏れてしまいます。

太陽と月は私も書いてみたいテーマｖ　

はーさま、ステキな小説をありがとうございましたｖ