延王×陽子／森屋様

　　　『宴のあと』　――玄英宮編――

　36 「夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいづこに月やどるらむ」

　玄英宮にて、五百年間閉められていた北宮を、陽子の在所とする為整えるよう勅命が下されたのは、延王が金波宮から戻って間もなくの事。

　北宮は、後宮でも最奥に位置する、王后の住まう宮だ。
　そこを陽子の在所にということは、隣国の女王である陽子を正式な后にはできないが、せめて王后に準じる扱いを、という尚隆の想いの現れである。かつて、わずか十七で決然と戦場に赴き、女王が忌み嫌われるかの国で細腕を以って見事民と官の信を得、荒れ果てた国を建て直した女王として尊敬を集めた少女は、いま、五百年もの間遊び続けた王を虜にした存在として、この方こそ后として仰ぐに相応しい御方と、大層好意的に迎えられた。

　披露の宴では、大国雁の君主たる主君と並んでも遜色ない華と存在感を持つ若き女王の輝くような美しさに、居並ぶ雁国の官吏達は改めて魅了され、日頃殺風景な玄英宮で久しぶりに催された華やかな宴は、大いに盛り上がった。

　そして、この上ない慶事に王宮が沸いた翌朝。

　執務室では、高官達が机を取り囲んで頭を抱えていた――。

　机の上には、一巻の報告書が広げられている。
　困り果てた様子の朱衡と帷湍、成笙を見かねて、机の上に座り込んでいた六太が言った。
「いつも通り、お前達で処理すれば？　文句あれば何か言うって」
　だが、朱衡と帷湍は難しい顔で首を横に振る。
「いえ、そういう訳には」
「この件は、ちょっとなあ・・・」
　雁では殆どの事を官吏が処理するが、国の指針となる事柄や大規模な改革、新しく取り組む事項については王が決裁する。朱衡も帷湍も王から多大な権限を与えられているが、自分達の中で引いた一線を侵す真似は決してしない。分を超えれば官吏の専横になり、それは朝の崩壊に繋がる。大国・雁が五百年もの繁栄を誇ることが出来るのは、その見極めがしっかりしていてこそ、なのである。
　――そしてこれは、分類するなら、『緊急』に『王の裁決が必要な事項』であった。

「やはりこれは、我らが勝手に決めて良いことではありません。どうあっても、主上にお出ましいただかねば」
　朱衡が言えば、帷湍も頷いて肯定を示す。
「でもさ、尚隆のやつ、昨夜、『起きるまで邪魔するな』って言ってたよな・・・」
　酔って景王の肩を抱きながら、確かに王はそう言った。
「誰が呼びに行く・・・？」

　堂室に重い沈黙が満ちた。

「やはりここは朱衡だろう」
「いえ、台輔でしょう。陽子様ともお親しいし」
「女の子の場合、そういう朝の起き抜けに男友達に会うって、嫌なんじゃないか？」
「・・・それはそうかもしれんな・・・」
　主君はともかく、景女王は繊細な少女だ。彼女に羞ずかしい思いはさせたくない。
「だからさ、帷湍が『いつまで寝てるんだー！』って怒鳴り込むってのは？」
「どこから『だから』が出てくるんだ！　俺は絶対！　嫌だぞ！！　第一、王后の部屋に入ってよいなどという権は与えられておらん」
　喧喧諤諤の議論が交わされ、この場の最高位たる六太が厳かに告げた。

「悧角」

「はい」
　使令の声が常より小さいのは、気のせいではあるまい。
「悪い、ちょっと・・・いってみて」
「・・・承知致しました」
　一瞬の間の後、努めて平静に返事をすると悧角は気配を消した。

　そして、それから暫く後。
六太は馴染み深い気配が戻って来たのを感じ取った。
「悧角？　悪かったな。ありがとー」
　笑顔で礼を言った六太に、悧角は困ったように答える。
「いえ、それが・・・主上は、『済んだら呼ぶから、それまでは入ってくるな』と申されて・・・」
「・・・済んだらって・・・」
「それは、また・・・」
　昨夜、酔った尚隆が皆の前で陽子に絡みつき始めたので、朱衡が気を利かせて二人の王を早々に宴を辞去させたのだ。あれから甘い蜜月を過ごしていたことは疑い無い。流石に誰も口に出さないが、心の中では『まだやってるのか！』と揃って叫んだことだろう。

　複雑な色の沈黙が漂う中、音として零れたのは、
「陽子も大変だな・・・」
　という六太の呟きだけだった。

　それから更に四半刻ほど後。
　尚隆が予告どおりに悧角を呼んだとかで、再び押しつけあいの押し問答を繰り広げた結果、四人揃って北宮に参上することになった。
「失礼致します」
　小声で断って臥室に入ると、振り向いた尚隆に向って、陽子を気遣って微かな声で朱衡が語りかける。
「尚隆様、陽子様は如何なさいました？」
「寝ている」
　小声で囁きながらひょいと眉を上げて帳を指差した尚隆の表情に、皆『失神しているの間違いだろう』と思ったが、誰も口にはしなかった。
尚隆がふと真面目な顔になり、
「で、一体どうしたのだ？」
　朱衡が報告書の内容を手短に説明し、最後に
「――という訳ですので、内殿にお出まし頂けませんか？」
　と締めくくる。
　尚隆も、事の重要性はよく判っている。自分が出ざるを得ないことも承知だが――
「ああ――」
　後ろをちらりと見ながら、躊躇う素振りをみせた。
　せめて陽子が目覚めるまではそばにいてやりたい。
　こういう場面で目覚めたら独り、というのは陽子が傷つかないだろうか？

　だが。

「・・・延王・・・お仕事ですか・・・？」
　一同がぎょっとして振り返ると、いつの間に気づいたのか、未だ覚めやらぬといった風情の陽子が、愛らしく帳にくるまって顔だけ出していた。皆、少女が目覚めて、他人の気配に恥ずかしい思いをしないよう、気をつけたつもりだったのだが・・・。
「あ、おはようございます」
　硬直した室内の雰囲気には露ほども気づかず、陽子はにこやかに皆に会釈し、挨拶した。
　あどけなく愛らしい仕草に、微かに上気したままの薔薇色の頬。寝乱れて散る緋色の髪、気だるげな笑顔――後朝の艶やかさを纏う美少女というのは、大いに刺激的だ。しかも、裸体に巻きつけた帳越しに、均整の取れたしなやかな肢体の線が、しっかり見て取れる。
「お、おはよ・・・」
「・・・おはようございます・・・」
　４人は固まりながらも辛うじて、会釈と強張った微笑を返した。

「よ、陽子」
　ぎょっとした尚隆が、陽子の元へ飛んでいく。
「あ、ああ。それがな、急ぎの用らしいんだ」
　大きな身体で遮るようにして、皆の視線から陽子を隠す。
「昨日の今日だというのに、済まないな」
　済まなさそうに言った尚隆を見上げ、陽子は微笑んで首を横に振った。
「そんな事。大事な用件なのでしょう？　元々、国の為に使う時間を、お裾分けしてもらってるんですから」
「そう言ってもらえると――」
　と言いつつ、陽子の身体を押し込むように褥に戻し、
「ちゃんと布団に入っていないと、風邪をひくぞ」
　言いながら衾をきっちり肩までかけて、髪を撫でてやった。
「疲れているだろう。終わったらすぐ戻ってくるから、それまでゆっくり寝ているといい」
　ぽんぽんと優しく衾の上から叩いた尚隆の手を、
「はい。――お仕事、頑張ってくださいね」
　言いながらきゅっと握ってにっこり笑い、尚隆が心置きなく仕事に向えるよう、直ぐに離す。
　愛らしい新妻そのものの陽子に、甘い余韻を邪魔されて心中不機嫌だった尚隆も顔を綻ばせた。
　先程自分が流させた汗で額に張り付いた前髪を掻きあげ、
「おやすみ。良い夢を」
　額に甘いキスを贈り、微笑んで目を閉じた陽子に笑みを漏らすと、帳をそっと下ろして静かに臥室を出て行った。

　尚隆が、稀にみる速さで複雑な案件の数々を処理し終え、
「普段から、それ位熱心に働いていただきたいものですね」
　と朱衡から厭味を言われていた時。
　北宮付きに新しく決まった女官が慌しく執務室にやって来、平伏して奏上した。
「陽子様が、熱を出されております」
　尚隆が立ち上がって、思わず厳しい声を出す。
「何だと？何故、早く言わない」
　おそらく直ぐに王に奏上しようとしたのを引き止められたのだろう。女官は、困惑した様子で報告した。
「それが――大した事はないから、言わずとも良い。どうしてもと言うなら、せめてお勤めが終わってからにしてほしい、と申されまして――」
　一同は顔を見合わせ、北宮の陽子の部屋へ急いだ。

　大事ないと言いつつも、陽子の熱は思ったより高く、慌てた尚隆により直ぐに痕医が呼ばれた。苦しげな吐息をつきながらぐったりと横たわる少女を丁寧に診察した痕医は、
「疲労ですな。ゆっくりお休みになられれば、直ぐよくなりますよ」
　と診断を下し、弱っている少女を慮って胃に優しい薬湯を処方すると、
「今日明日は安静になさってくださいと、お伝えくださいませ」
　そう頭を下げて退出していった。

　陽子の世話に沃飛を残し、尚隆は次の間で４人の冷たい視線に囲まれることになった。
　確かに来訪前の疲れもあろうが、昨日の夕刻までは元気だったのだ。先ほどの『入室禁止令』を省みるまでもなく、直接の原因は間違いなく、彼らの主である。
「お伺いしたいのですが」
　口火を切ったのは、やはり朱衡だった。

「先ほど悧角が入るのを止められたそうですが、まさか昨夜臥室に下がられてから先ほどまで、ずっと陽子様をお抱きになられていたのではないでしょうね？」
「いくら俺でも、それは無理だ。ちゃんと寝んだぞ」
「変なところで威張らないでください。それはいつ頃のことですか？」
　敢えて事務的に訊く朱衡に、のほほんと答えを返す。
「夜明け頃――だったかな」
「そんなに長くか！　下がったのは宵の口だったろう！」
　思わず叫んだ帷湍を目で制し、朱衡は溜息をついた。
「それで、お目覚めになられて、また――という訳ですか」
「新婚なんだから、仕方なかろう」
　悪びれずに言った尚隆を、朱衡はきっと睨みつけた。

「陽子様は、しっかりしていらしても、お身体はか弱い少女なのです！　化物並みの体力の御自分を基準に考えられては困ります」
「化物って、お前な・・・」
　それが主に言うことか、とぶつぶつ呟く尚隆に、朱衡はさらに畳み掛けた。
「それに、貴方と違っていつもきちんと政務をこなされておいでです。ただでさえお疲れのところに、お休みを取る為に毎回どれ程根を詰められるか、貴方もご存知でしょう？その御方を、それ程に疲れさせて――御倒れになられて当然です」
　朱衡の流れるような物言いに、尚隆がぐっと詰まる。
「まったく、いい年をして、二十歳前の若造のような振る舞いをなさるとは」
　嘆かわしい、と言外に含めた朱衡の口調に、尚隆が眉を顰めて頭を掻いた。珍しくも素直に反省する主を、他の面々は興味深げに見遣る。

　朱衡の言はもっともで、まして、私用で国をあけるとなれば、陽子は睡眠を削ってでもその間の分の仕事をこなす。
　だから、陽子が玄英宮に滞在する際は、働きすぎの女王がゆっくり休めるよう双方の宮廷が気を利かせ、金波宮側は出来るだけ長く休暇を確保し、玄英宮側は来訪の翌日までは主従を政務に縛り付けておく、というのが常だった。でなければ、主従揃ってあちこち引っ張り回すか尚隆が押し倒すかで、来た早々陽子が疲れを倍加させるからだ。
　勿論今回も同様の措置を講じたのだが、尚隆が張り切り過ぎたあまりに、向こう1ヶ月分までの政務を陽子の来訪前に片付けてしまったのが誤算だった。
　直前まで自分も寝る間も惜しんで働いた筈なのだが――『新婚』の一語の威力恐るべし、といえよう。

　朱衡は「とにかく」と深く溜息をついた。
「起きてしまった事は仕方ありません。陽子様には快癒まで療養頂くとして、慶に事情の説明と詫び状を――」
「待て待て待て！」
　そんな事をされては――！
「判った、反省した！！」
　反射的に、半ば叫ぶように言った。
　怖いもの無しの延王だが、こと女王絡みの金波宮の怒りだけは別だ。
　つい先だっても同様の事をしでかして、金波宮の表と奥の権力者――二大巨頭に睨まれたばかり。にも関わらず、今度は過労気味であった女王を高熱を出すほど攻めたてたとばれたら、『今後一切、お泊り禁止』は必定。下手をすれば昼夜問わず常時監視つき、という事態にもなりかねない。

「あの・・・」
　女性の小さな声に驚いて振り返ると、陽子が小衫姿で、堂室の戸に凭れかかりながら佇んでいた。
「陽子！」
　入り口の近くにいた六太が慌てて支え、心配そうに声をかけた。
「まだ熱いぞ、ちゃんと寝てないと」
　大股で部屋を横切った延王が、扉に凭れかかる肢体を慌てて抱きかかえて、自分の上衣を素早く脱ぎ、陽子を包み込んでやる。
「熱があるのだから、無茶をするな」
　かけられた言葉に緩慢な動作で首を振り、心配そうに見守る主従に告げた。
「大丈夫、少し休んだから。心配させてごめんなさい」
　熱を押して健気に微笑む陽子の姿に、延王の心が痛んだ。
「ご心配をおかけしておいて、申し訳ないのですが」
　陽子は皆の方を向いて、力の入らない声で語りかける。
「ただ休んでいれば治るんですもの、そんなに気を遣わないでください」
　しかし、朱衡は譲らなかった。
「何事も最初が肝心ですし、甘やかすとつけあがります」
　言い切った朱衡に、困ったように微笑む。
「では・・・延王御一人だけを、怒らないでくださいませんか？」
「陽子様・・・」
「延王だけの所為ではなくて、私も――」
　滑らかだった言葉が、そこで突如詰まった。

　それはそうだろう。
　陽子には『欲しがった』だの『望んだ』だのとは続けられまい。
「・・・その・・・」
　必死で言葉を探し、言い澱む。
　内容が内容だけに救いの合いの手を入れる事も出来ず、皆固唾を飲んで見守っている。
「・・・えっと・・・」

　陽子は、熱で廻らぬ頭で懸命に考え込んだまま。
　痛いほどの沈黙と緊張が部屋を支配する。

　漸く陽子の表情がぱあっと明るくなり、次の瞬間、俯いて細い声で呟いた。
「共犯・・・のようなものですから・・・」
　熱で火照った頬と耳を更に赤く染め、口にした他愛ない言葉に羞じらって消え入りたい風情で俯く華奢な姿から、少女らしい初々しさが匂いやかに立ちのぼる。
　純情可憐とは、まさにこのことだ。
　周りは齢数百歳の者ばかり、の玄英宮の古株達は、毅然とした大輪の華のような隣国の女王が秘めた純真に、感動を覚えた。
　そして当然の如く、その感動は、針のような視線に転化して王に向う。

（陽子様は、これほど初々しく可憐な御方だったのか。それを・・・）
（このように純真な少女を、熱を出すほどに――）
（鬼畜だ・・・）
（いくら絶倫といっても・・・鬼だ・・・）

　針の視線の集中砲火を浴びても、強心臓の主は何とも思わないらしい。
皆と同じく感動した延王は、陽子を抱き締めて、髪に口づけながら細い肩を優しく撫でた。
「お前は少しも悪くない。俺が気を利かせねばならなかったんだ」
「でも・・・」
　熱で潤む目で尚隆を見上げ、小さく首を横に振る。
　火照る頬を優しく撫でながら、心から申し訳なく思いつつ穏やかに告げた。
「本当に悪かった、今度から十分気をつけるから」
「先ほどの御言葉とは随分な違いですね」
　小声で呟かれた朱衡の厭味を無視して、頭を撫でながら、
「仕事はちゃんと済ませたから、一緒に部屋に戻ろう」
　優しく囁いて、陽子の顔を覗き込む。
「ん？」
　こくりと頷いたのを見て穏やかに笑むと、大切な宝物をそっと抱き上げた。
「お前、来る前にかなり無理したろう。いつもより軽いぞ」
「そう・・・ですか・・・？」
「今日明日と、ゆっくり休むといい。直ぐに元気になる。そら」
　小さな頭を胸に押しつけられ、陽子はそっと目を閉じる。抱かれた腕と胸の温もりに安心したように直ぐに深い眠りに落ちた陽子を、尚隆は慈しむように見下ろした。

　声に溢れる穏やかさ、甘やかさ。
　優しさと包容力に満ちた、誠実そのものの態度。
　いつもとはあまりに違う、王の意外な一面に驚く皆の視線に曝されながら、開き直って歩み去る延王の背に、涼やかな声がかけられた。
「要件は終わりましたので、看病に励まれてくださいませ」
「言われるまでもない。今度こそ邪魔するなよ」
「我々は執務室へ戻りますので、明朝までお邪魔致しませんよ」
　尚隆が振り返ると、朱衡は不気味なほど爽やかに微笑んでいた。

　額や首筋に浮かぶ汗を拭き、体温が上がりすぎないよう水を飲ませ、汗で重くなった夜着を着せ替え――尚隆は、愛しい若妻を実にまめまめしく看病した。

　だが。

　普段毅然としている少女が無意識の状態でしどけなく横たわる姿というのは、それだけで十分男の欲情をそそるものだ。
　薄く開いた唇から漏れる熱い吐息はまるで情事の最中のようで悩ましいし、尚隆の袖をくん、と袖をひっぱっている細い手もまた、少女らしい風情で愛らしい。
　まさにこの上ない誘惑なのだが、流石の尚隆でもこれ以上は進めない。尚隆はむくむくと育つ熱いものを渾身の自制心で押さえ込みながら、せめてもの触れあいに、『熱を測る』という口実で額や頬に口づけを続けた。

　頬を赤く染めてあどけない表情で眠る陽子を溜息つきながら見つめ、せめて六太でもいれば気が紛れるかと立ち上がり、ふと空腹を覚えた。
「そういえば、飯がまだだったな」

　先に陽子に薬を飲ませるかと、熱い方の保温瓶から薬湯を椀に注ぎ、中身をかき混ぜる。食事も兼ねているのか、柔らかく煮た根菜の混じったどろりとした感触だ。
（ん？）
　保温瓶のなかの薬湯が丁度あと1回分余っているのに気づいた瞬間、不意に朱衡の言葉が蘇った。
『明朝までお邪魔致しません』
　はっとして部屋を見渡せば、部屋の隅には、よく冷えた水の張られた大きな桶と手触りの良い手布。
　――ただ、それだけ。

「おい、ちょっと待て・・・俺の分の飯は・・・？」
　――無い。

「朱衡のやつ・・・」
　文字通りの『飢えた狼』の前に、飲食厳禁の御馳走。
　この状況に、朝迄耐えてみせよ、ということか。
　それこそがまさに朱衡の躾――もとい、罰であったのだと、漸く気づいたが、時既に遅し。

　はたして、臣下に斯様な扱いをされる王が居るものであろうか？
　尚隆は、特大の溜息をついた。
　互いにああまで言い切ったからには、呼んでも誰も来ないだろう。
　文句を言っても、己の言を盾に切り返されるのがオチだ。

　どうしたものかと頭を抱える尚隆の耳に、
「う、ん・・・・・・」
　陽子の苦しげな息が聞こえた。額に手を当てると、再び熱が上がり始めている。慌てて陽子を抱き起こし、
「陽子、薬湯だ。飲めるか？苦いけど我慢しろよ」
　朦朧としたまま薄く目を開いた陽子の口に、少しずつ薬湯を運んでやる。
「・・・――よし、全部飲んだな。いい娘だ」
　唇についた薬湯を自分の唇で拭うと、緋色の髪に口づけて褥に再び寝かせつける。熱い手を握ってやりながら暫く様子を見守っているうちに、呼吸が少し安らかになった。尚隆もほっと息をつくと、極力動きを抑えるために、水桶と二つの保温瓶を寝台の脇に寄せて置く。

　玻璃の外を見れば、既に外は暗い。
「寝るか・・・」
（昨日は遅くまで起きていたしな・・・）
　こういう時は、早寝に限る。

　別室で寝ようかとも思ったが、自分のせいで熱を出した陽子を独りにするのも忍びなく、起こさないよう静かに褥に潜り込むと、熱い身体を胸に抱く。
　柔らかな身体の感触も甘い香りも熱い吐息も、今の尚隆には、必死で眠らせようとする体内神経を刺激する、拷問具にしかならない。
　このままでは自制心が焼き切れそうな気がしたので、せめて飢餓感だけでも和らげようと、空腹を水で誤魔化すことにした。

「陽子、水を一杯もらうぞ」
　律儀に陽子に断って、椀に水を注ぐ。よく冷えた水を飲み干し、ぽつりと呟いた。
「・・・水も、結構旨いもんだな・・・」
　自分の言葉に何やら無性に侘しくなり、腕の中で安らかに眠る陽子をじっと見つめる。まだ熱い額に口づけると、水で冷えた唇が気持ちいいのか、陽子が嬉しそうに顔を綻ばせてぴとりと擦り寄ってきた。
「陽子・・・」
　可愛らしくも罪作りな、愛しい少女。

　この笑顔がせめてもの救いだと心慰められつつ、滑らかな頬を撫で、華奢な身体をきつく抱き締める。騒ぎ立てる腹の虫と理性の箍を宥めすかしながら、尚隆は、半ば自棄気味に瞼を閉じた。

　了

2003.02.21

……森屋様のコメント……

『粗相をした動物の躾は、
すぐ叱り・いけないことだと体に覚えこませることが大事です』
てな説(笑)を思い出したんで、このオチに。

だって尚隆って猿王だけど、大型犬のイメエジなんですもの～。←殴打

私、我慢させるのスキー？　
寸止めスキー、野外スキーといい、ロクなの書いてませんね(遠い目)

『失神しているの間違いだろう』に爆笑。さらなる三羽烏のツッコミ最高！

純情可憐な若妻に、絶倫猿王。やってやってやっておしまい！　オーホホホホ！！

私が読みたかったのはこれよーーー！！！！（叫）

森屋さま、らぶｖｖ
ステキなクリスマス・年賀企画、本当にありがとうございましたｖ