李斎と泰麒/けいこ様





   
『ラプンツェル』





 冬の戴は北の海から雪を運んでくる風が吹き荒れ、凍てつくように寒い。そしてそれは雲海の上でさえも例外ではなく。
「李斎!」
 大人でさえ身をすくめるような寒さの中、冷気で頬を真っ赤にした子供が府第から出てきた李斎を見つけ、声をあげる。白い息を吐きながら駆けてくると、彼女の前に立って人懐こい笑みを浮かべた。
「台補」
「もうお仕事は終わりましたか?        今日もとても寒いですね」
 李斎は膝をつく。自分よりもずっと高位の宰補        泰麒に対する礼儀であるのはもちろんだったが、それ以上に小さな彼と目線を合わせて話をしたかったからだ。李斎にとって、泰麒はとても好ましい相手だったから。
「本当にお寒うございますね。仕事は今、終わりました。台補はお散歩ですか? 正頼殿はご一緒ではないようですが」
 周囲を見回しても、泰麒の傅相の姿はない。いつも一緒なのにどうしたのだろうと思っていると、泰麒が声をひそめるようにして言った。
「正頼はいないんです。ぼく一人で探検していたんです」
 その表情が真面目なので、李斎は吹き出しそうになってしまった。
「探検ですか?」
「はい、探検なんです。正頼の見つけてくる近道より面白い道を見つけて教
えてあげようと思って」
 子供は真剣にそう言うと、でも正頼には内緒にしてくださいねと強く囁いた。李斎も表情を引き締め、約束する。
「ええ。正頼殿にはこのお話は内密にいたしましょう」
「絶対ですよ」
 念を押す泰麒の鬣は風に乱れ、好き勝手な方向に踊っている。李斎は微笑し、手で今出てきた府第を指した。
「ですが、探検は少し中断してこちらにお寄りになりませんか? こんなに寒い中にお小さい台補がずっといたら、凍えてしまいます。温まりがてら、たまには李斎とお茶でもお飲みいただけると嬉しいのですが」
 泰麒は年のわりに周囲に気を使いすぎるところがあるのを李斎は熟知している。負担にならないよう言葉を選びながらそう言うと、泰麒はふわりと白い息を吐いた。
「ええと、ぼくも李斎とお茶を飲むのはすごく嬉しいのですけど。寄っていいんですか?」
「もちろんですとも。では、参りましょうか」
 李斎は立ち上がり、泰麒に向かって手を差し出した。一瞬の後、小さな手がしっかりとつながれる。その感触は柔らかく、皮膚に染みこんでくるように暖かかった。



「宮に台補がこちらにいらっしゃると使いを出しましたから、どうぞゆっくりしていってくださいませ」
 自ら茶と菓子を泰麒の前に置き、李斎はそう言って微笑した。大きな長椅子に埋もれるように腰掛けた泰麒はほっと息をつく。
「はい。ありがとうございます、李斎」
 茶碗を両手で抱えるように持って茶をすする彼を李斎は愛しげに見つめた。そしてはたと何かに気づいたように立ち上がり、少々お待ちくださいと部屋を出て行く。
 次に戻ってきた時、李斎は腕に漆塗りの箱を抱えていた。
「台補、もしよろしければ御髪を整えさせてくださいませ。風で乱れてしまっているようですので」
「ええっ? でも、ご迷惑でしょう?」
 恐縮する泰麒に李斎は柔らかく微笑む。
「いいえ。あまりこういったことは得手ではありませんが、ぜひやらせてくださいませ」
 李斎はそう言うと泰麒が遠慮深げに頷くのを確認し、彼の後ろに回った。背筋をぴんと伸ばした泰麒のくしゃくしゃになった鋼の鬣をすくいあげ、椿油を含ませた櫛で丁寧に梳き始める。
「痛かったらどうぞおっしゃってくださいませね」
「はい。でも、全然痛くないです」
 泰麒は首を後ろにめぐらせ、微笑んだ。その柔らかい笑顔はいつも李斎の心を温かくする。凍てついた戴の冬ですら、溶かすように。
 鋼色の鬣はまだ子供の毛質で、その色の持つ印象を裏切るほど一本一本が細く、頼りなげだ。李斎は切れないように注意しながらもつれた毛を解き、まっすぐ梳き下ろす。撫でつけると、鬣は小さな背の半ばまでを覆った。
「御髪がずいぶん伸びましたね」
 李斎の言葉に、泰麒は何故か困ったように眉を寄せた。
「そうなんです。ぼくは麒麟だから、髪を伸ばさないといけなくて」
 この髪は鬣なんです、と泰麒は説明した。
「そうでしたか」
「そうなんです。転変して麒麟に……動物の麒麟になった時に鬣が短いとおかしいからって、蓬山の女仙達が言っていたんですけれど。でも、なんだか変な感じです」
「変ですか?」
「はい。蓬莱では、男の子はこんなに髪を伸ばさないんです。だから、ぼくはなんだか女の子になったみたいでおかしな気持ちがするんです」
「まあ、台補」
 李斎は吹き出した。蓬莱生まれのこの麒麟は時々、突拍子もないようなことを言い出す。そしてそれは大抵において周囲の人間を和ませるようなことだった。
 李斎は泰麒以外の麒麟をほとんど知らない。だから、麒麟とはこんなにも優しく愛しい印象を与える生き物なのだろうかと思ってしまう。小さな、けれども戴国の大きな大きな宝物。
「こちらでは御髪が長いからといって女の子のようだとは申しませんよ。驍宗様がそのよい例でございましょう?」
 泰麒は自らの主の風貌を思い浮かべた。今でこそ即位してきちんと結い上げているが、昇山した頃は灰白色の髪を低い位置で結んでいた。蓬莱の一般的な男性に比べれば驍宗はずいぶん髪が長いが、それでも女性的なたおやかさは一片たりとも感じられない。
「そう……ですね。うん、髪が長くても驍宗さまはきちんと男の人です」
「そうでございましょう? ですから台補が御髪を伸ばされても、女の子のようだなどとは思われませんよ」
「はい。ありがとうございます、李斎」
 泰麒は黒目がちの瞳で李斎を見つめ、はにかんだように微笑んだ。鬣を梳く手を一瞬止め、李斎も笑い返す。
 ややして、でも、と泰麒が小さなため息をついた。
「ぼくの髪は伸びるのが止まるまで伸ばすんだそうなんですけれど。どのくらい伸びるのか見当もつかなくて」
 くるりと上半身ごと李斎を振り返り、小首を傾げた。
「李斎は景台補をご存知?」
「景台補、ですか?」
 李斎も首を傾げた。
「即位式の際に遠くからお姿を拝見いたしましたが。存じ上げるというほどでは」
「あのね、景台補はものすごく鬣が長くていらっしゃるんです。このくらい」
 言って、泰麒は自分の膝に掌を当てる。
「でも、麒麟になると普通の、馬とかと同じくらいの長さになるんです。廉台補はもう少し短くてこのくらいで、延台補はもっと短くてこのくらいなんですけど」
 泰麒は廉麟と延麒の鬣の長さを手の位置で説明した。
「止まるまでって、どのくらい伸びるのかなあって。景台補みたいに長く長く伸びるのは大変だなと思ってしまうんです。できれば延台補くらいで止まるといいんですけれど。だって、こんなに伸びてしまったら走ったりするのが大変でしょう?」
 泰麒は自分の踵を手で触った。まだ小さな彼が悩む姿は、気の毒だが愛らしい。大人になった麒麟は滅多なことでは走ったりせずにもっぱら宮殿の奥深くのみで暮らすものだから、鬣がいくら長くとも日々の生活には一向に支障はないのだが。この幼子はそれすらもまだ知らないのだ。
「ご心配には及びませんよ、台補。台補は天帝が戴にお恵みくださった、天の創りし神獣なのですから。天がよいようにしてくださいます」
「そう、ですか?」
 泰麒はまた、首を傾げた。柔らかな長い鬣がサラサラと音を立て、胸へと滑り落ちる。
「そうですとも」
 李斎は大きく頷き、前へ垂れてしまった髪を首筋から持ち上げ、背中へ流した。
       台補の御髪が景台補と同じほどに伸びる頃には」
 今はまだ、背中を半分覆うくらいの長さしかないけれど。切り揃えながら美しく伸ばすには、ただ伸ばすよりもずっと時間がかかるものだけれど。
「この国は、今よりもずっと裕福になっていることでしょう。今はまだ貧しくて人々が寒さで凍えようとも、きっと。……いや、絶対に」
 十二の国にただ一つしかない、瑞兆。蓬山の女神でさえ数度しか見たことがないといわれる黒麒。貧窮し飢えと寒さに苦しむ国土に与えられた、それは鋼色の希望。
 荒れ狂う吹雪の中にともる灯のように、この麒麟の存在は戴に小さくとも絶対的な明るさを与えてくれた。気高く有能な王を選び、日々の政務に疲れた官吏達に安らぎと暖かさを与えてくれた。だから。
「台補、約束しましょう。私達は、台補に平らかで豊かな戴を差し上げると。ですから、もう少々お待ちくださいませ。台補の御髪が美しく伸び切る頃までには、必ず」
 夢を見る。柔らかな印象はそのままに成長した泰麒の背をはるかに越えてなお豊かに流れる、鋼色の川のような鬣を。豊かな国土を見て喜ぶ、その暖かな笑みを。
 それを見るためならば、どのようなことでもする。してみせる。
「ですから、台補は心配事はすべて私どもに預けて、どうぞのびのびと健や
かにお育ちくださいませ」
 それだけでいい。それだけでいいから。泰麒が幸せそうに微笑んでいる姿、それはこの国の希望の象徴だから。
 泰麒はうーんとなにやら考えているようだったが、ややしてふわりと微笑した。
「じゃあ、ぼくは一生懸命早く大きくなりますね。成獣になって鬣が伸びきる頃には、ぼくも一人前の宰補として働けるようになります。そうしたら、みんなのお手伝いができるでしょう?」
「ええ……ええ、台補」
 李斎は頷いた。幼いながらも懸命に、彼は国や自分達を思いやってくれる。その気持ちが嬉しくて、胸にきて、それ以上何も言えなくなる。
 だから代わりのように漆の箱から丸鏡を出して、目の前に座る泰麒に差し出した。
「どうぞ」
「はい。……うわあ、ちゃんときれいになってますね。李斎、ありがとうございます」
 鏡の中でぺこんと頭を下げた泰麒を、このうえなく尊く愛しいと李斎は感じた。






 いつまでも、こんな風に日々は進むのだと思っていた。
 あの日泰麒に約束した未来はそのまま、李斎にとっても約束されたもののように感じていた。
 それは脆弱な地に建った楼閣のように、失いやすいものだったのに。









「李斎。そこは崩れやすいですから、気をつけてくださいね」
 あの頃よりぐっと低くなった声が李斎の名を呼ぶ。岩だらけの山道を先に立って進む彼の背は、この国が彼を喪失していた間に細いながらも昔よりずっと広くなった。
「あの大岩のところまで行ったら少し休憩しましょう。片腕だけでこの山を登るのは疲れるでしょう?」
 ただ、李斎を気遣ってくれる優しさだけが、昔のままで。
「ありがとうございます、台補」
 そう呼びかけると泰麒は振り返り、淡く笑った。だがそれは蓬山で、あるいは王宮で見た花が綻ぶような笑みではない。苦痛や絶望を知った後の、憂いをどこかに秘めたような笑顔だった。
 苦労して岩を越えながら、泰麒が指した大岩までたどり着く。荒い息をしながら、李斎は岩陰に座り込んだ。以前では考えられないほどに体力が落ちている。
「水を飲みますか?」
 問いかけた泰麒に首を振ってみせた。
「いいえ、結構です。台補こそ、どうぞ水分をお取りになってください」
 差し出された水筒を残った片手で泰麒へと押しやる。固辞するのには訳があった。        飲み水が残り少ないのだ。
 どこかで湧き水か小川を探さなければならない。汚染されていない水を。まだ、この周辺にあるのならば。
「私は軍人でした。ですから水はあまり必要ではないのですよ」
 こんな嘘にもうこの麒麟がだまされてくれないのを、李斎もわかっている。それでも口にせずに入られなかった。自分に言い聞かせるためにも。
「……では、必要になったら言ってくださいね」
 泰麒は穏やかな顔でそう言いながら水筒をしまった。そして大岩に登り、周辺を見渡す。
「どこかに里が見えるとよいのですけれど」
 緩やかな風が吹いて、泰麒の鬣を揺らす。それはもう、風にもつれて李斎の手を煩わせることはない。無残なほど短くなった鋼色の鬣の下、年齢よりもずっと頼りなげな首筋が隠すところなく露になって。
「御髪、が」
 思わずぽつりと呟くと、振り返った泰麒がああと鬣に手をやった。
「蓬莱の習慣で、男は髪を短く切るんです」
「台補の御髪は、鬣なのに」
 声に含まれた悲しみを感じ取ったのか、泰麒が李斎を見つめて小さく笑った。
「いいんです。僕が鬣を伸ばしていたのは、転変した時にみっともなくならないようにする為だったんですから」
 李斎ははっと口をつぐむ。角を失った麒麟は転変することができない。いくら鬣を美しく伸ばそうとも、それはもはやまったく意味のない行為なのだ。
「申し訳、ございません」
 消え入りたい心地で深く頭を下げる。頭の上で小さく息を吐く気配がした。
「頭を上げてください。李斎」
「いいえ」
「僕はまったく気にしていないんです、だから頭を上げてください。……本当にいいんです。だって、長いままではこんな風に山を登ったりするのが大変でしたから」
 李斎はゆっくりと顔をあげた。泰麒が目の前に降りてきていた。穏やかな顔で彼女を見つめ、口を開く。
「昔、李斎は僕に鬣が伸びきる頃までには平和で豊かな国をくださると、約束してくれました。覚えていますか?」
 李斎は泣きたくなりながら頷いた。覚えている。片時も忘れたことがない優しい約束。
「……はい。それがこのようなことになってしまい、弁解のしようも……」
「あの頃の僕は、豊かさや平和は人から与えられるものだと、信じて疑っていませんでした。だけど、それは違うと気づいたのです。僕達が国にそういうものを望むならば、それは自分から取りに行かなければならない。国がこんな状態になっている時に、ただ与えられるのを待っているなんて許されるわけがないのです」
 きっぱりと言い切り、泰麒は鬣にもう一度手をやった。
「長い鬣は今のこの僕には邪魔です。僕はもう、王宮の奥深くで守られている子供ではないのですから」
 ああ、と李斎は思った。彼はもう、李斎にただ守らせてくれるだけの小さな子供ではないのだ。すべてのものからかばいたくとも、彼自身がそれを許しはしない。
 与えられる幸せを待つだけの、小さな麒麟ではなく。この国の幸福のために暖かな場所をあえて出て苦難の道を選んだ、彼はもう大人だった。
「ええ……」
 あの頃とは違うのだ、と李斎は自分に言い聞かせた。戴は王を欠き、荒廃の一途をたどっている。麒麟は神獣としての力も使令もすべて失い、彼に付き従う武人も隻腕の李斎一人だけ。
 今も夢に見るけれど。鋼色の豊かな鬣に象徴される幸福な国を、夢想するけれど。
「……行きましょうか」
 そのようなものは、この国のどこにもないから。手に入れるために、取り戻すために、二人は歩き出す。
 立ち上がった李斎の前で、短くなった希望の象徴がまた風に揺れた。





 了





2003.02.23





けいこさんのサイト一周年記念の配布です。

んもーー!!>< けいこさんの小説大好き!!>< 理屈じゃないよ〜!!

けいこさんたら泰麒好きなだけはあって、その描写がもう、「タイキーー!!(興奮)」 そのもの!

私にはけいこさんみたいな泰麒は書けない〜(泣) 李斎も書けない〜(泣)
好き〜!! 原作とぜんぜん違和感ないんだもん!!><


けいこさんがつける題名もまた絶妙!! キャーー! いっつもあこがれるんだわさ!!
そのセンス、俺にも少し分けてくれええええ!!!(裾すがり)

「ラプンツェル」って題に泣きそうになってしまうのです。
この話を読んで、ラプンツェルってどういう内容の話だったけ、と本屋に行ってさらに絶叫。
(髪の毛で塔に登る……という大まかな内容はわかるんですが)

最後は荒野で何年もさまよい、互いに互いを探すという話で。

ああもう!! けいこさんっ!!!!!


泰麒の髪が伸びる頃には――。
ああ……早く幸せになって!!>< 泰麒ーー!! 李斎ーーー!!!

この小説を読むたびに胸がキュッとしてきてしまいます。


なよなよ、うじうじしている泰麒は、髪の毛と一緒に置いてきちゃったんだろうな。

柔らかい物言いで、でもしっかりと意志を固めた泰麒は、麒麟じゃなくて「男」って感じで本当に好き。
李斎をちゃんと支えてあげている。

幼いときの泰麒の幸せを目にしているからこそ、大人の泰麒が本当に辛い。
それでも彼らが選んだ道を応援するしかなくて。
それがまた歯がゆくて。

がんばれ、しか言えない自分。
本編の続編が出たとき、きっと、読みながら泣きながら「がんばれ」だけをひたすら呟いてそう。

ああもう!!>< こういう胸に来る小説を読むと深い溜め息を一つ。言葉を失うよね!

泰麒の幸せを。李斎の幸せを。戴国の幸せを心から祈りたいです。

けいこさん、本当にステキな小説、ありがとうございましたっ!!






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