『白の輝き』

「随分と黒ずんだな……」

　月渓は誰もいない房室で一人呟いた。

　慶国からの使者が帰路に旅立つのを見届けたその日の晩。

　戸棚の奥底に隠すかのようにしまわれたそれをそっと取り出した。

　最後にこれを出したのはいつの日だっただろう。

　凛とした百合が彫りこまれた木彫りの箱に、柔らかな絹で包まれたその品は、すっかりと在りし日の輝きを失っていた。

　銀で作られた真珠の髪飾り。

　ほっそりとした作りで、いつ折れてしまうか不安になるほど華奢な土台に、青白い輝きが美しい白真珠。

　これを手に入れてから毎晩のように磨いていた。

　いつの日か渡せれば良いと、その時、輝きが失せない様、柔らかい布でそっと磨いていた。

　繊細な銀が黒ずんでしまわないように。

　優しいが、冷たい感じのする輝きが曇ってしまわないように。

　大勢の官吏達が公主に差し出す飾りの数々に紛れて、自分もいつの日か差し出そう。そう決めていた。この品を目にした時から。

　いつからその歯車が違えてしまったのだろうか。

　榻に腰掛け、月渓は手に持ったまま俯いた。

　白が良く似合う人だった。

　不吉な色だと思われている色だが、それでもやはり、似合っていた。

　美しく、そして、穢れの知らない色。

　他の色を混ぜる事を許さない色。

　妥協と言うものを知らない色。

　それはそのままあの公主に重ねあっていた。

　人の闇を知らない公主。

　醜い感情も、薄汚い欲望も知らない公主。

　ただ、ただ愛される事を当然と受け止めていて、自分の父親と母親が皆に尊敬と敬愛を皆が捧げていると思い込んでいて。

　その時が来るまで知らなかっただろう。自分の母親があれほど憎まれ、恨まれていた事を。自分の父親がどれだけ憎まれ、そして、同じだけ、敬われていた事を。

　あの硯は激情にまかせて割ってしまった。

　けれど、この髪飾りは折る事も、火にかける事も、そして、捨てる事も出来なかった。

　幾度、そうしてしまおうと思ったことか。

　その度に、一度でいいから、これを髪に飾った所が見てみたいと、叶わない事を、絶対に来る事のない未来を考えてしまう。

　だから、恭国へ送られたあの日、戸棚の奥にしまいこんだのだ。

　もう二度とこれを出して見る事はしないと。

　二度とまみえる事はないのだから、と。

「未練だな……」

　呟きが闇の中へと消えていく。静まり返った暗闇の中、月渓は低く笑った。

　この想いはまさしく未練と言うのだろう。

　在り得ない未来を夢に見るのは。

　ひやり、と冷たい感触の絹に男の手の平の体温が移り、温められる。知らない間に汗ばんだ手が絹に染み込んでいく。

　月渓は手の力を込めた。いや、込めようとしたのだ。

　だが、やはり、それを、もう飾りとして使い物にならない、その髪飾りを折ってしまう事は出来なかった。

　遠い異国に行ってしまった人に渡す手段はもうない。

　こんなに黒ずみ、曇ってしまった飾りは元には戻らない。

　どんなに考えてもこの飾りを渡す事など出来ないのに、それでも、捨ててしまう事は出来ないのだ。

　溜め息を吐くと、月渓はそっと絹で包み直し、箱に納めた。

　箱の上部に積もった埃を手巾で拭うと、また戸棚の奥へとしまいこんだ。

　月渓の湧き上がる感情を心の奥底へとしまい込んだように。

　了