月が庭園の池に冴え冴えと映しだされていた。

蜜柑の花があるのか、かすかに柑橘系の匂いが纏わりつく。

陽子は露台に身を乗り出して、静かな夜を感じていた。

洸州で物価が上がっている報告があり、単身で金波宮を抜け出した。途中で、延王と会い、ともに行動をすごした。

そして、その旅も今日が最終日。

延王には悪いが、いろいろと回らせてもらったおかげで、状況判断が出来た。

最後の宿ということで、延王はこの部屋を取った。

甘えてはならないと思ったが、一国の、しかも大国の王を最低の宿に泊めるわけにもいかず、結局は甘える形になった。

陽子が溜息をついたと同時にドアが優しく叩かれる音がした。

「誰だ？」

少しの沈黙の後、俺だという低い声がした。

「延王」

ゆっくりとドアが開き、からっと笑った尚隆が酒を持ってが入ってきた。

「陽子、ここでは俺は王じゃないんだ。尚隆と呼んでくれ。公式の場でもないのに、堅苦しくてすかん」

尚隆の屈託のない声に陽子の口元が和む。

部屋の暗さで尚隆の顔がよく見えない。

だが、ドアが開かれた瞬間、殺気の類のものを感じ身構えたが、尚隆の声を聞き、ほっとした。

「そうですね」

陽子はそういって、露台に置かれた卓子に座る。尚隆もそれに続く。

「酒を持ってきた。今宵は飲むぞ」

「失礼ですが、私はあまり酒は・・・」

「いいから、飲め」

「はぁ」

言われるがままに酒を飲む。

二三杯飲んだ頃だろうか。

頭がぼやけてきた。

「しょ・・・りゅう・・・。すみ・・ません。もう、げんか・・いで」

そのまま、意識が飛んでしまった。

　　　――尚隆サイド――

「今日が・・・・最後か」

酒を器に注ぎながら、酒に浮かぶ月を見る。

突然、冷たく揺らぐ月が景麒を思い出させた。

その傍らには必ず陽子が立っている。鉄仮面のその下に、何かがありそうで・・・それを思うたびに、苦しくなる。

景王・・・陽子には景麒が半身なのだ。景麒なしでは陽子は生きてられない。

分かっている。

王と麒麟は一心同体という事を、身をもって知っている。

俺の半身・・・六太がいるように、陽子にも景麒がいる。

景麒は麒麟だ。聖獣なのだ。

だが、その反面一人の男として意識してしまう。

陽子の周りに俺以外の男がいるというだけで、今まで味わった事のない不快感に襲われる。

尚隆は酒を一気に飲みほぐした。

「ここは金波宮ではないのだ」

そう、ここには、邪魔なものはいない。

今日が、最後。

これを逃すと、機会はなくなる。

自然と、足は陽子がいる隣の部屋に向かっていた。

「誰だ！」

尚隆の目が細められた。

陽子の声。

この声だけで、震えが止まらない。

「俺だ」

声を出すだけで、精一杯だった。

「延王」

尚隆は自嘲する。

まだ、陽子の中で延の王なのだ。

この一週間陽子に少しは男として意識をしてもらいたくて、行動の一つ一つに気を配ったはずだが、目の前にいる少女は一つも気がついてないのだ。

自然に笑いが出てくる。

「陽子、ここでは俺は王じゃないんだ。尚隆と呼んでくれ・・・・公式の場でもないのに、堅苦しくてすかん」

男として、呼んでくれ。

言いかけた言葉を、飲み込む。

「そうですね」

月明かりに照らされたようこの顔は柔らかく笑っていた。

このまま、連れ去ってしまえばいい。

延の連れて行き、正室に閉じ込めてしまえばいい。

俺以外の誰の目にも陽子を触れさせてしまいたくない。

尚隆は手に酒を持ってきた事を思い出した。

「酒を持ってきた。今宵は飲むぞ」

そう、酔い潰して、攫っていけばいいんだ。

「失礼ですが、私はあまり酒は・・・」

「いいから、飲め」

「はぁ」

一杯一杯、陽子の顔を見ながら器に酒を注ぐ。

ほんのりと頬が赤くなるにつれ、胸の辺りが熱くなる。

三杯目ぐらい飲んだ頃だろうか、陽子は尚隆が待ち望んだ言葉を告げる。

「しょ・・・りゅう・・・。すみ・・ません。もう、げんか・・いで」

微かな寝息が聞こえた。

そっと赤い髪にふれた。

微かに触れる手で髪の一房持つ。

ずっと、触れたいと思っていた、鮮明な赤い髪。

微かに唇に触れる。

そして、そっと頬に触れる。

頬は柔らかく、暖かい。

冷たく汗ばんでいた尚隆の指先に暖かさが伝わる。

頬をゆっくりと愛撫した後、陽子の柔らかな体を抱きかかえる。

部屋の牀に陽子を乗せた。

ぎしっという軋んだ音が暗い部屋に響く。

陽子の寝顔をしばらく眺めた後、身を乗り出し、そっと己の唇を陽子のそれに近づける。

後一センチの距離で尚隆はとめた。

「・・・ん・・・今日の・・・朝議は・・・」

その呟きに尚隆は苦笑いする。

陽子の傍らに座りなおした。

「まだ・・・早いな。もう少し、もう少しだけ、待つ。俺の歯止めが利くまで・・・な？」

朝、陽子が目覚めると、傍らに尚隆がいることに、陽子が驚かないわけがなかった。





【終り】