振り返ると、そこにいたのは鈴だった。

陽子は首を傾ける。鈴の後ろからくすくすという、子供独特の笑い声が聞こえるのだった。

その笑い声に陽子は微笑んだ。

「桂桂。でておいで」

「あ〜あ、ばれちゃった」

悪戯っぽく笑いながら陽子の元へ駆け寄り、抱きついた。

陽子は桂桂の髪をそっと撫でる。

「陽子。ぼくね、鈴と一緒に庭園の散歩してたんだ」

桂桂の表情が輝いていて、眩しいものを感じた。

虚無感を抱いていたようこは桂桂のその笑顔だけで救われたような思いだった。

「そうか」

「あれ？　どうしたの？　陽子の顔、寂しいよ」

幼い顔が陽子を覗き、陽子の顔をぺたぺたと触る。

「陽子？　何か・・・あった？」

「・・・・浩瀚にね、朝議を追い出されたんだ」

「どういうこと？」

「う〜ん、強いていえば集中力がないからかな？　これでは朝議にならないからお休みくださいといわれちゃったんだ」

柔らかな桂桂の髪を触りながら陽子は言った。桂桂は陽子の顔をじっと見ると、何か思いついたように袋を探った。

「陽子、柑子食べる？」

「こうじ？　これが？」

「うん、庭にね、あったからもらちゃった。あ、もしかして怒る？」

はい、と渡されたものを陽子はまじまじと見た。それは、陽子にとって、蜜柑だった。

いや、正しく言うなら、陽子が蜜柑と思っていたものだった。

あの日・・・尚隆と洸州に行ったあの最終日。

宿泊していた庭園に咲き誇っていた木々だった。

「あ、それは私も謝るわ。一つぐらいならって許しちゃったの私だから」

「いいんだ。好きなだけとればいい」

陽子は呟く。

「そうか、それが柑子というんだ」

あの男がいっていた。

「柑子の匂いに誘われた」

なぜ、というと、そっと耳元に呟かれたその言葉。

低く心臓が破裂しそうになるぐらいの重低音。

男が意外な事に牀の横で自分を覗いていた。驚いたあまり男を凝視してしまった。

どこか、寂しそうに、どこか切なげで・・・陽子の心臓が苦しめられる。

「陽子」

男はそう呟くとともに、・・・絡められた視線は男自らが外した。

しばらく沈黙が続いた後、唐突に男は言った。

「陽子・・・帰るか」

そういったきり・・・男は延へ。

私は・・・慶に。

「陽子？」

「え？」

桂桂が顔を覗き込んでいた。

「もー、陽子。聞いてる？」

「すまない。ボーとしていた」

桂桂は、紅葉のような手で陽子の引っ張る。

「あ、こら。桂桂。陽子の服が・・・」

陽子は手を出して、鈴をとめる。

「桂桂。どうした？」

桂桂の目線まで陽子は腰を下ろす。

桂桂は、あどけない動作で額に触れた。

「熱は、ないみたい」

「まあ、桂桂。そのために？　でも、陽子。浩瀚様に追い出されたなら、おとなしく部屋にいなきゃ。台輔だって心配するわ」

「ん。分かったよ」

素直に正室に向かう陽子の背中を鈴は大きな瞳を開かせて見た。

桂桂が鈴の服を引っ張り言う。

「やっぱり、陽子おかしいね」

「そうね、いつもなら素直に聞かないものね」

「主上。浩瀚から聞きました」

正室にはいってきた景麒は、いつものように抑揚のない声で話し掛けてきた。

「景麒。今はそんな事は聞きたくない。一人にしてくれないか。後で愚痴は聞くから」

陽子の言葉に景麒は眉を潜めた。

「聞こえなかったか」

「主上。青鳥が来ております」

青鳥は、景麒の元を離れ、陽子の下に飛んできた。

見届けると景麒は一礼し去っていく。

それを見ながら陽子は内心で、すまないといった。

青鳥は陽子の目の前に止まり、あの男の声で囁かれた。

「尭天にきている」

たったそれだけだった。

こいとも、迎えをよこせともいっていない。

ただ、尭天にいると・・・。

「私に・・・どうしろというんだ」

これは・・・賭けだった。

陽子が来るという確信も自信もさらさらなかった。

来るか来ないかといったら、来ない方の比率の方が高い。

なぜ、あんな事をいってしまったのか。

「柑子の匂いだと？」

その匂いに気がついたのは、陽子が起きてから。

陽子の寝顔を見て気がつかなかった。

なぜ、と問われたその言い訳を考えているときに気がついた。

「誤魔化せばよかったのに」

馬鹿なことをした。

延に帰って、青鳥を送ったその足で尭天に向かった。

「何が・・・バカな事なんです？」

「陽子」

慌てて立つ。

「探すのに苦労しました」

「陽子」

「景麒に言い訳するのも大変だったんです」

「陽子」

「それと、浩瀚にも」

「陽子」

尚隆はたまらず陽子を抱きしめる。

「延王」

「尚隆と呼んでくれ」

尚隆は強く抱きしめる。

陽子は苦しくなったが振り絞って要望に応える。

「尚隆」

「他の男の名を言うな」

「尚隆？」

尚隆は、ただ、欲望のままに陽子の唇を奪った。





【終り】