慶国シリアス/りょく様





 零れ落ちる水滴を眺めつつ、だが、やがて青年は瞳を閉じてその清涼を聞き入る。
 ゆらゆらと波紋を揺らす水滴は、正確に刻《とき》を刻んでいるように、青年の思索を過去へと誘う。
 夏の茹だる様な暑さすら、彼には大切な思い出の一つ。

 瞼の裏に映る残像は、確かに彼に残された、大切な思い出《たからもの》――。





   『残像』




「ここって、雲海の上じゃなかったっけ?」
 ヘロヘロと軟体動物のような踊りをする少年は、同じように――いや、それ以上に憔悴している義姉《あね》の顔を見て、続くはずの言葉を飲み込んだ。
 何故なら、義姉は常世《ここ》の生まれではなく、夏には涼しい風を送り出す機械に、溢れんばかりの氷を利用した菓子を堪能できる世界《あちら》から来たのだから。魂が抜けてしまっている彼女に何を言っても、無駄である。
「……ああああ、クーラーに扇風機にジェラートにカチワリ氷に……あぁぁぁぁあ!」
 和洋折衷の聞きなれない言葉を吐き出す義姉をみて、少年は必死になって太陽のしたから引きずりだそうと義姉の袖を引っ張る。
――はやく!早く日陰に陽子を連れて行かなきゃ!!
 強迫観念に襲われる少年――蘭桂は、自身より遥かに高い背の少女――陽子を、王と言う、尊い人物だと言う意識を放り投げて、引きずっていった。



     ※



「――……お疲れ様です。蘭桂」
 蟀谷《こめかみ》に皺を寄せて、額には青筋を立てた陽子の半身が――景麒が、蘭桂に労いの言葉をかける。
「うっわぁ……」という感嘆の声を必死に堪えた蘭桂は、「では、失礼いたします!」と捨てるように言葉をその場に残して、堂室から飛び出した。
 そして、次の瞬間には――慈悲の麒麟の有難い雷が、女王の頭上に炸裂した。合掌。

 ふうっと息を吐き、額にある玉のような汗を拭う。
 尊敬する景麒の「無慈悲」な姿を見たくなかった彼は、義姉の陽子をイケニエに差し出してしまった事を、少しばかり――ほんの、ちょっぴり悪い事だと思っていた。
「やっぱり、“ツグナイ”はしなくちゃいけないかしら?」
 小首を傾げ、一人ごちた彼は、そのまま足を飯庁《しょくどう》へと向けた。
 
「しょーけい!すずー!」
 蘭桂は、顔見知りの陽子の親友で、自身の義姉のような存在である女性たちに声をかけた。飯庁で何かを作っていた彼女たちは、義弟のような存在である蘭桂をみて、顔を綻ばせながら「なぁに?」と声を返す。
「一体、何をつくっているの?」
 きょとん、と顔中に疑問符を浮かべる蘭桂に、二人は「ふふふ」と意味深に笑うと、蘭桂の柔らかい両頬に、何かを触れさせた。
「冷たっ!」
 ひやりとする感触に驚いて、蘭桂が小さな悲鳴をあげる。「くすりっ」と笑う彼女たちは、蘭桂を招き寄せると、「これは3人の秘密よ」と蘭桂の耳に何かを告げた。
 意図を察した蘭桂が、満面の笑みで顔を縦に振ったのは、そのすぐ後のことだった。



   ※



「……景麒……頼むから、勘弁してくれ……」
 執務机で突っ伏している女王は、天然クーラーの景麒に向かって、「そろそろその涼やかな冷気から解放されたいんですが…」と言葉にならない言葉を向けた。それを察して、景麒が天然クーラーを解除した次の瞬間――。「蘭桂を理由にして、抜け出そうとした貴女様のツケでございましょうが!」という、怒りの最高潮に達した景麒によって、すぐに天然ヒーターの地獄へと突き落とされたのだが。

 そこへ、数時間前に陽子を置いて逃げ出した蘭桂がひょっこりと顔をのぞかせた。
 普通なら、奄《げなん》扱いである彼が、王の執務室に顔をのぞかせる事など論外だが、少々特殊な事情の彼は、特別である。それに、そろそろ仙と言っても休息の必要な時間である。
 気を利かせた女王の護衛たちは、少年をするりと執務室の中へ通したのであった。

「陽子、午後のお茶の時間はまだ?」
 数時間前、陽子を景麒へと差し出した事をちょっぴり後悔しながら、はにかみながら言葉を口にした蘭桂に、陽子は腕を広げる事で「怒っていないよ」と、表した。
 飛び込んできた少年の熱い体温が、先ほどまで感じていた圧力とは違う心地よさを与える。
「苦しいよぅ」という少年の声が上がらなければ、陽子はもっと彼を抱きしめていただろう。

「そろそろ、お茶の時間なのか、桂桂?」
 人心地ついたらしい陽子が、ようやく蘭桂の来訪の目的を思い出し、質問する。と同時に、執務室の扉が大きく開き、台車を押しながらやってきた祥瓊と鈴を見て、陽子は「あれ?」っと思った。何時もなら、仕事と休憩の時間分けるために、休憩室へとお菓子を持ってくる彼女たちが、どうして此方に持ってくるのだろうかと思ったのだ。
「実は、隣に行くのすら、億劫だって言うのは、お見通しよ」
くすくすと笑う鈴の隣で、
「お疲れの王の為に、われ等三人で冷菓子を作りましたのよ」
と、祥瓊が台車の上にある緑色の物体を指差す。

 西瓜のポンチ――西瓜を半分に切って、丸い匙で実を丸くくりぬき、白葡萄酒と砂糖をふりかけて一時間置いたものと、瑛州産の乳牛から絞った生乳から作られた“あいす”を同様に丸い匙で丸くくりぬいたものを、一緒に西瓜の皮に盛り付けた――があった。先ほど、蘭桂が飯庁で声をあげたのは、くりぬいた西瓜の実を冷やすために使っていた氷が冷たかったから。
 
 目を丸くして驚く陽子をよそに、景麒は執務机の書類をいったん片付け、その冷菓子が乗せられる場所を作り出す。
「え?景麒……?」
「より良く人間を働かせるには、アメと鞭が必要なそうで」
 さらりと疑問を封じ込まされるが、陽子はまだ良く分かっていない様子だ。

「陽子、冷たいうちに、食べちゃおう!」

 蘭桂の言葉に、陽子はふんわりと、笑った――。



   ※



 茹だる様な夏の暑さに、懐かしい過去の残像が蘇える。
 優しい義姉たちは、既に青年の手が届かない場所へと旅立っており、気難しくも暖かい麒麟は、主と一緒に旅立った。
 子供の様に一緒に遊んだ時間はそれほど長くはなかったが、とても大切なものを扱うように自分と接してくれていたのは、今なら良く分かる。
 あの一時の時間が、これほど永く生きていく中で、宝物のようなものになるとは――。

 からん。

 涼やかな玻璃酒杯《グラス》の中で、氷が軽やかな音を立てる。
 その炭酸入りの甘水が入った玻璃酒杯《グラス》の隣には―――懐かしい冷菓子が。
 あの後、お酒に弱い子供の彼が、例によって酔っ払ってしまい、浩瀚様に叱られたのも、良い思い出。その様子も楽しそうに、綺麗に笑う、陽子がいた。
 未だにお酒が余り強くない彼は、炭酸入りの甘水で特別に作られたその冷菓子を食べるのが、夏の定番だった。

 瞳を閉じれば、瞼の裏に、懐かしい残像が蘇える。
 青年だけが知っている秘密の場所に、通り雨が過ぎる。
 冷えた空気は、その冷菓子がもう必要ないことを指しているのだが、名残惜しく匙を入れる。

 甘いはずの冷菓子は、しかし、思いのほか塩辛い味がした。

 頬に零れ落ちる水滴を、青年――蘭桂は知らないふりを、し続けた。



 瞼の裏にこびり付く残像は、美しく。
 

 ――きれいに笑う、あなたが離れない。





《終劇》
1:「綺麗に笑う、 そう思うのは私から覗く貴方の存在が綺麗だから
   あなたは、 きれいに、 笑う」






2005.09.18





残暑お見舞いのフリー配布をいただきましたv
りょくさんの蘭桂大好き〜!><
子桂桂はかわいいし、大人になったらかっこいいし! 

りょくさん設定だと、陽子亡き後、蘭桂が冢宰になるようなのですが、
それもまた読みたいですv
設定があるなら書いてしまわねば!! 






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