　　　『節目２』

　　　　　≪２≫

　浩瀚と陽子は連れ立って園林(ていえん)に面した回廊を歩いていた。庭の木々たちは水に濡れて、その緑の葉をより深い、味わいのある色に変えていた。しかし、少し前から差し始めた日差しにより、園林全体の雰囲気は明るいものであった。
　その水玉と陽射しにより、キラキラと光る美しい庭を目にして、陽子は「わぁっ」と歓声を上げた。
「こういういつもと違う庭もきれいだと思わないか？」
　陽子は一歩後ろを歩いていた浩瀚を振り返り、声をかけた。
「そうですね。この風景は人の手だけでは作れない。雨が降るのも悪くないですね」
　浩瀚は眩しそうに目を細めて庭を見ている。陽子は首をかしげて浩瀚に問うた。
「ひょっとして、浩瀚は雨が嫌いなのか？」
　予想していなかった問いかけに、浩瀚は主に視線を向け、問い返した。
「どうして、そう思われるのです？」
「雨が降るのも悪くないって。あまり良く思っていないのかなと思っただけ。やっぱり嫌いなのか？」
　真っ直ぐ見上げてくる陽子に、浩瀚は軽く微笑み答えた。真っ直ぐに見上げて、自分を正面から捉える、この瞳が浩瀚は好きだった。
「好きか嫌いかを考えたことはありません。ただ、突然降られて濡れるのは好ましく思いませんが」
「私は雨に濡れるのも嫌いではないかな。びしょびしょになるのはイヤだけど」
　陽子は、びしょびしょになるまで濡れた経験があるのか、本当に嫌そうに顔をしかめた。
「それでは、主上は私よりは雨が好きということですね」
　浩瀚がそんな切り返し方をするとは思っていなかった陽子は驚き、返答に一瞬間が空いた。
「そうだな。浩瀚よりは好きだろうな」
　そう答え、陽子はくすくすと笑った。そうして、どちらからとも無く、また園林に目を戻した。

「浩瀚、あそこまで行かないか？」
　そう言い、陽子が指差したのは、池に張り出した四阿であった。今二人がいるところからは、濡れた園林を横切らなければたどり着けないところに位置している。
「着物が汚れますよ」
　浩瀚は暗に行かないと答えた。
「だめか？」
　食い下がる陽子に、浩瀚は、今度は軽く脅しを入れる。
「女官たちに叱られてしまいますよ」
　そう言われ、陽子は先程指差した場所と、自らの衣装とを見比べた。そして、最後に園林の向こうを見やった。その顔には、向こうに行きたいとありありと書かれていた。浩瀚はその様子に苦笑した。
「主上、向こうに行かれますか？」
「うーん、でも怒られるのはイヤだから･･･。行きたいけど･･･」
　素直にそうつぶやかれ、浩瀚は仕方ないという風な表情をした。陽子のこういう子どもじみたところは、これから先も変わらないだろう。こんなときは、自分が折れるしかない。
「主上、行きましょう」
「いいのか？」
　行っても良いと言われるとは思わなかったので、陽子は思わず問い返した。
「行きたいのでしょう？」
「うん」
　陽子は満面の笑みで答えた。その様子に浩瀚は軽く微笑んだ。
「では、着物が泥で汚れないように裾をちゃんと持ち上げてくださいね」
「うん。これで大丈夫かな？」
　陽子は早速裾を持ち上げて見せた。
「まだ後ろが床についていますよ。あと、できるだけぬかるみは避けるようにして歩いてください」
　はしゃぐ陽子に、浩瀚は微かに苦笑し注意を続けた。
「これぐらいあげたら大丈夫？」
　浩瀚の注意に従って、陽子はもう少し裾を持ち上げて見せた。
「ええ。でも本当に気をつけて歩いてくださいよ」
　繰り返される注意に、分かっていると明るく答え、陽子は庭に足を踏み出した。浩瀚もそれに続いて庭に降りた。

　着物に大きな汚れを作ることもなく二人は目的地についた。
「やっぱり！　ここからの眺めもきれいだな」
　陽子は池の方に身を乗り出して景色を楽しんだ。浩瀚は陽子の斜め後ろに立ち、景色よりも、無言で庭を眺め続ける陽子を見ていた。
「ねえ、浩瀚。言っておきたいことがあるんだけど･･･。いいかな？」
　そこにいるはずの浩瀚を振り返り、緊張した面持ちで口を開いた。
「私に、でございますか？　何でございましょうか？」
　さすがの浩瀚も、いま陽子が何を考えているかが分からなかった。浩瀚の表情からは困惑を読み取ることができた。
「そんな顔をしないでくれ、浩瀚」
「はぁ･･･」
　浩瀚はやはり困惑したままだった。この有能な冢宰が仕事中にこのような顔を見せることはなかったので、その様子に陽子は少し緊張がほぐれ、薄く微笑んだ。
「ちゃんとお礼を言っておきたかったんだ」
「･･･」
「昨夜のことだ。浩瀚にはいっぱい我が儘を言ったから。ありがとう。お陰で、今日は久しぶりにゆっくり休めたし、何だか気持ちもすっきりした。それに、一ヶ月も休暇を取らせてくれるから。お礼が言いたかったんだ。本当にありがとう」
陽子は、少し恥ずかしそうに、一息で言い切った。浩瀚もやっと普段の顔に戻り、陽子の言葉に答えた。
「お礼には及びませんよ。これからも主上にはがんばっていただかなくてはならないのですから、これくらいのことは、それほど大層なことではございませんよ。」
　そこで一旦言葉を切り、浩瀚は口の端を笑みの形に歪めた。
「ただ、一つだけお願いがございます」
　その問に陽子は首を傾けることで答えた。
「昨夜のような我が儘は、できれば私だけにしていただきたい」
「なぜ？」
　鈍い陽子は、浩瀚の言葉の裏の意味に気づかなかった。呆れつつも、浩瀚はそんな陽子をより愛しく感じた。
「わからないのなら良いのです。ですが、他の男にあのように甘えたりなさらないでもらいたい。お聞き入れくださいますか？」
　相手を愛しく感じれば、感じるほど、人間(ひと)というのは独占欲が強くなるものである。
「浩瀚？」
「はい」
「嫉妬？」
　陽子の言葉に浩瀚は思わず吹き出した。鈍いくせに、時々核心を突いてくる。この主は本当に自分の想いに気づいていないのだろうか。
「そうです、これは嫉妬ですよ。主上が私の願いをお聞き入れくださらなかったら、他の男に甘えたなどと聞いたら、私は何をしでかすか自分でも分かりかねます」
　浩瀚は思いがけず、真情を吐露してしまった。だが、陽子は自分に対する新手の脅しだと思った。景麒がいつも言うように、自重しろというのだろう。
「そんなに脅かさなくても、分かっている。誰にでも隙を見せたりはしない」
　浩瀚はあからさまに大きく息を吐いた。陽子に対して軽い憤りもあるが、この気持ちに気づかれて平静を保てる自信もないのだからこれでいいのかもしれない。
そこでせめてもの腹いせにと、陽子の首筋の傷に指を這わせてみた。今日の陽子は、首の傷が見えないようにと、衿の高い着物を着せられていた。なのに、その衿を割って、浩瀚はわざわざ直に傷に触れたのだ。陽子は驚き心臓が跳ねたように感じた。陽子にしてみれば、着物の中に手をいれられたようなものである。目の前の浩瀚は何を考えているのか分からないが、自分を射抜くような視線を向けてくる。陽子はその視線に耐え切れず、恥ずかしさに顔を伏せた。
「主上、そのような表情も、人前ではなさらないように」
　追い打ちをかけるように浩瀚はわざと陽子の耳元でささやいた。低い声音は耳にこそばゆく、身体がビクっと震えた。その感覚に耐え切れず、陽子はうつむいたまま顔を赤くした。浩瀚はそれに満足し、くつくつと笑った。
「浩瀚の意地悪！！」
　陽子は精一杯の虚勢を張り、自分で遊ぶ浩瀚を睨みつけた。だが、浩瀚はどこ吹く風で、話を変えた。
「さあ、主上。そろそろ堂室に戻りましょう。ゆっくりとお休みください。私は、主上の分も仕事をして参りますので」
　王が政務を休むということは、すなわち台輔と冢宰の仕事が増えるということである。浩瀚が嫌味で言ったのでないことが分かっているからこそ、陽子は浩瀚と景麒に申し訳ないと感じた。
「すまない、浩瀚。じゃあ、お言葉に甘えて休ませて貰うことにする」
「ええ。決してふらふらと出歩いたりはなさらないように。まだ本調子ではないのですからね」
　二人は、来た道を、来たときと同じように着物が汚れないように気をつけて戻っていった。その後陽子は、着物についた小さな泥跳ねを見つけられ、鈴に軽く怒られたのだった。

　了

2005.09.18

……ＲＵＮＡさんのコメント……

わたしのなかで、浩瀚と景麒は陽子を挟んでのライバルです。
特に浩瀚。麒麟には敵わない部分があると思ってると思ってます(笑)

ＲＵＮＡさんからいただきました！　
続編来たーーーー！！！
待ってた！　待ってたよ！！！

頂いたイラストが先行公開になってしまいましたが、女王の裾を持ち上げる浩瀚……（ニヤリ）　
飛びつかれる女王を引き離す浩瀚……プププ。
理性と全身全霊をかけて戦闘中！(そこが萌えるヨｖ)　