浩瀚×陽子/RUNA様





   
『節目3』 





 陽子の首の傷は、それから三日もしないうちにきれいに治った。元々傷が浅かったこともあり、痕が残るようなことも無かった。
 王が一ヶ月の休暇を取ることは、この三日のうちに諸官にも伝えられていた。不満の声が上がるかとも思われたが、冢宰である浩瀚が上手いこと押さえ込んでいるのか、目だった騒ぎは起こらなかった。
 景麒は早く陽子に会いたいと言いながらも、切羽詰った状況ではないため血の臭いが残るうちは嫌だと言い、あの日以来二人は顔を会わせていない。そしてやっと今日、陽子の傷が治ったので、朝議が終わったあと景麒と浩瀚が連れ立って陽子を訪ねてくることになっていた。
 当の陽子はというと早く下界に遊びに行きたくてうずうずしていた。今にも金波宮を飛び出さんばかりである。王抜きの朝議はいつもよりも早く終わり、景麒と浩瀚は陽子が予想していた時刻よりも早く、陽子の堂室を訪ねてきた。それでも、陽子はちゃんと身支度を済ませていた。ただその服装は、政務のときに身に着ける官服や、ここ二、三日の間着ていたようなやや女性的な服でもなく、市井の少年の普段着のような格好をしていた。よくこのような服を女官たちが用意したものだ。いや、陽子が一人でいる様子からして、陽子自身が女官たちに隠れて用意したのだろう。
 その姿を目にした、景麒と浩瀚はそろって大きく息を吐いた。呆れるしかないと言った感じである。そして、景麒はキッと陽子を睨んだ。
「私はまだ使令をお貸しするとは申しておりません」
 いつもの嫌味よりもきつい調子で言われ、陽子は少したじろいだ。
「お前たち、なんでこんなに早く来るんだ!」
「朝議が終わりましたので」
 浩瀚は、冷ややかな視線を陽子に向け、冷ややかな声で陽子の言葉に答えた。
 三人の間に嫌な沈黙が落ちた。それを破ったのは、景麒の嫌味であった。
「主上、もうお出かけになられるおつもりだったのですか?」
 景麒の声音は、絶対零度という比喩が当てはまりそうなほど、冷たく寒いものであった。
「いや、そんなつもりは・・・」
 陽子はそう言い訳のようにつぶやき、冷や汗を流しながら口ごもってしまった。そんな陽子に対しても、景麒は容赦がなかった。
「なぜ言葉に詰まられる」
「・・・」
 陽子は助けを求めるべく浩瀚を見るが、浩瀚は陽子と目を合わせようとしなかった。そのため、陽子はうろうろと視線をさまよわせてしまい、景麒に一喝されてしまった。
「主上! 私に何か申すことがあるのではないですか? 冢宰に主上のほうから私の元を訪ねてくださると聞き、それは恐れ多く申し訳の無いことだと思い、私のほうからこうして参ったのですが・・・。主上は私とは会いたくなかったご様子。それとも、私のことなどお忘れだったか?」
 いつもより強い語尾の調子に、陽子は慌てて口を挟んだ。
「ちょっと待て、景麒。そうまくし立てるな! お前の事を忘れていたわけではない。ただ、突然来るから驚いたんだ」
「恐れながら、台輔と共に参ることはお伝えしておいたはずでございます」
 浩瀚までもが冷たい声で、嫌味に陽子に追い打ちをかけた。
「それはそうなんだが・・・」
 陽子は四面楚歌に陥った気分になり、力なくつぶやくことしかできなかった。
 そして、上目遣いに景麒の様子を伺い見た。景麒は、無言でパッと見感情の読み取れない表情で陽子を見ていた。しかし、景麒との付き合いが深いものにとっては、彼が怒っていることが分かった。
「主上、そのようにお元気なご様子でしたら、今日からでも御政務をなさったらいかがですか」
「悪かった! 景麒本当に悪かったと思っているから!」
 陽子は景麒のこめかみに青筋を見た気がして、反射的に謝罪の言葉を口にした。
 景麒はそれに対して、盛大な溜息を披露した。
「本当に悪かったと思っておいでですか」
「本当に思っている。すまなかった」
 まだ疑いの眼差しを向ける景麒に、陽子は即座に謝った。それでも、景麒はついっと横を向き、まだまだ許すまじという構えだった。
「私が心配しないと思っておいでか」
「心配したのか?」
 陽子は恐る恐る問い返した。
「はい。いたしましたとも」
 景麒はゆっくりとそう答え、最後に呆れて溜息をついた。
「ごめんなさい」
陽子は、景麒に対して申し訳ない思いに駆られ、何度目かの謝罪の言葉を口にした。今度こそは、心の底から、本心で。それが分かった景麒は、やっと表情を和らげた。
「もうよろしいですよ。ですが、今すぐ下界に降りられることはまかりなりません」
 景麒につられ、表情を和らげていた陽子だったが、言葉の意味を認識したとたん、ムスっとした表情で、景麒ではなく浩瀚に問いただした。
「けがが治ったら出かけてもいい約束だったじゃないか。なぜダメなんだ、浩瀚!」
 陽子の剣幕はどこ吹く風で、浩瀚は涼しい顔で答えた。
「はい。私は出かけられても良いと申しましたが、御政務が何一つないとは申してあげておりません。どうしても、主上の御名御璽が必要な書類だけで、もう既にこれほどの量が溜まっております。これを終えられたら、どうぞご自由になさってください」
 そう言う浩瀚の手元には、確かに親指の長さほどの厚みのある紙の束が見て取れた。
「これは今回限りか?」
 陽子は、そんな事あるはずがないと分かりながらも聞かずにはいられなかった。それに対して、浩瀚は相変わらずの無表情である。
「まさか。最低でも三日に一度は必要な書類と共に参上いたしますよ」
 陽子は恨みがましい目で浩瀚を見上げた。
「三日ごとに一日かけて書類整理していたら、遠出できないじゃないか」
「ならば、休暇はなしになさいますか」
 そう問う声音は穏やかであるが、浩瀚の顔には意地の悪い笑みが浮かんでいた。
「それは、絶対いやだ!」
 大きな声で言い返した陽子は、瞳に力を込めて浩瀚を睨みあげた。その様子に景麒はまたもや溜息をついた。
「主上、冢宰の言うことをお守りください。そうすれば、私も主上の外出に使令をお貸し致しますから」
 それを受け、浩瀚はそれまでとは違い柔らかな笑みを浮かべた。それは、勝者の笑みとでも言うべきであろうか。
「台輔もこう言っておられることですし、諦めて御政務をなさってください」
 陽子はそれにムカッとして二人を睨み付けた。
「お前たちはなからグルだったのか」
「さあ、どうでしょう」
「・・・」
浩瀚は、相変わらずの表情と調子でそう返し、景麒は無言で陽子から目をそむけた。陽子は仕方ないと軽く息を吐いた。
「これを終わらせたら、明日は出かけても構わないな」
「はい、その書類が終わりましたならば」
 浩瀚は自分の意のままになったことに満足そうに微笑、陽子の明日の外出を確約した。
「出来上がったものは、また夕刻に受け取りに参ります。では、私はこれで退室させていただきます。台輔はまだお残りになられますか」
 振られた景麒は、軽く、でも嬉しそうに微笑むと、陽子にとっては罰ゲームに近い言葉を紡いだ。曰く、
「ええ、久しぶりに主上の御政務のお手伝いをさせていただきます」
(景麒と二人きり)
案の定、陽子は聞いたとたんに顔を引きつらせた。浩瀚は目の端でその様子をとらえ、口の端を少し吊り上げた。
「主上が逃げ出したりなさらないように、目を光らせておいてくださいね」
「もちろん、そのように」
 主である陽子を無視して、男二人は不穏な会話をする。そのまま浩瀚は退出したのだが、陽子は二人の会話を聞きとがめて、景麒に噛み付いた。
「お前たち、やっぱりグルだろう!」
「主上、グルとはどういう意味のお言葉でしょうか? 私には耳に馴染みがないのですが・・・」
 浩瀚は戸の外で、景麒のわざとらしい台詞を耳にして、思わず笑みがこぼれてしまった。





 了









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