浩瀚×陽子／RUNA様

　　　『節目４』　

　浩瀚の持ってきた書類を片付けた陽子は、約束どおり次の日から下界に降りるようになった。もちろん護衛をつけてではあったが。それでも、毎日溜まる書類を処理するために、三日に一度は必ず金波宮の自室において政務を執り行っていた。しかしそれも景麒と浩瀚ができる限りの仕事を陽子の分まで肩代わりしてくれたお陰で、陽子の仕事量は三日分としては少なすぎるものであった。そのうえ朝議の終わった午前中いっぱいは景麒が側で陽子の手伝いをしていたため、陽子が実際にこなさなければならない仕事は本当にわずかであった。景麒としては一日中陽子の側に居たいのだが、如何せん州候としての仕事もあるためそういうわけにはいかなかった。その代わりといってはなんだが、午後は浩瀚が陽子の側に控えていた。浩瀚はその日の午前中に新たに出来た仕事を持ってきたり、陽子が片付けた仕事の確認をしたりしていた。そのため、午後の早いうちに政務が片付くことが普通であった。
　そうして空いた午後のひと時を使い、二人は庭を散策した。陽子は、自分の見聞きしてきた市井の様子を浩瀚に聞かせ、宮中に残っている浩瀚は陽子がいない間に起こった他愛のない事柄について話したりした。
　陽子はこの日々に確かな充足感を感じていた。そして、浩瀚といられるこの穏やかな午後のひと時に安らぎを感じていた。まるで満たされていなかったものが満たされていくようなそんな感覚であった。
　二人で庭を散歩するようになって何度目のことであったであろうか、陽子は己の傍らを歩く男を見上げて、自分はどれほどに恵まれているのだろうと感じずにはいられなかった。
　その想いは最初陽子の中で点であった。
　次に点は球になった。
　球は膨れ上がり、破裂し、身体の組織に染み出していった。
　それでもそれは収まらなかった。

　この人に伝えたい！
　

　陽子は己の抱える想いをこの男に告げたくなり、無意識のうちに陽子の手は浩瀚の袖を捕っていた。袖を捕まえた手元から男へと視線を辿らせていき、自分より背の高い男の顔を見上げると、男は突然の陽子の行動に驚くことなくやさしい表情で自分を見返していた。その表情を見れたことで陽子の心はさらに満たされ、温かくなり、自然と笑みが浮かんだ。

「浩瀚。私は浩瀚がいてくれて幸せだ」

　その言葉には陽子の素直さが満ち溢れており、照れなどはなかった。ごくごく静かな、耳に心地よい音としてその場に染み込むように消えていった。

　陽子は素直な心を浩瀚にぶつけ、告白ととられてもおかしくないような言葉を向けるのに、いまだ自分の心を捉える事が出来ずにいた。
　しかし、自分の陽子に対する気持ちを分かりすぎるほど把握している浩瀚は、日ごとその想いが強くなっていくことを自覚せずにはいられなかった。
　そして浩瀚のその強すぎる想いは傍目にも分かるほどになっていた。それに気づかない鈴と祥瓊ではないし、浩瀚の麦州時代からの部下である桓?ではなかった。それに桓タイは陽子が下界に下りるときに護衛として付き添っていることもあり、浩瀚のみならず陽子の様子も気にかかっていた。陽子は桓タイと共に街に降りたときには、必ず浩瀚のことを訊ねてくるのである。それは過去現在を問わず、陽子の知らない浩瀚の姿を探し求めているようであった。陽子は、自分がまだ知らない話をすると、嬉しそうな興味津々の眼差しを向け、気に入った話があると以前もしたことのある話を、また話してくれとせがむこともある。その様子は初めて恋を知った少女のようであり、好きな人のことはできるだけいっぱい知りたいといった感じである。
　最初の内は桓タイもさして気にすることはなかったのだが、鈴や祥瓊が見聞きした内宮での浩瀚と陽子の様子を考慮に入れると二人の気持ちが手に取るように分かってしまった。
　それは鈴と祥瓊も同じであった。内宮での様子だけでは、浩瀚の気持ちが強すぎて陽子の想いはそれに隠されてしまい、陽子の気持ちまでは見えずにいた。陽子も桓タイに聞くみたいに鈴と祥瓊の前で浩瀚についての深い話をすることはなかったので。
　けれど桓タイの話を踏まえると、浩瀚の一方的な想いだけではなく、陽子もまた浩瀚に対して特別な好意を寄せていることを確信するしかなかった。陽子自身にはその自覚がないことも含めて。
　しかし、いまだ情勢の安定しきらないこの国で、陽子と浩瀚の恋愛は歓迎されるものではない。二人がただの男女であるならば問題はないのだが、陽子はこの国の王であり、浩瀚は王を補佐する冢宰である。二人の間に恋愛感情があるとなれば諸官たちは公正な政がなされていないとして、一斉に女王に反旗を翻すかもしれない。かつてこの国は女王を嫌う国であった。十年の年月をかけてやっとそのことを面と向かって口にするものは見かけなくなった。しかしそのことを影で口にするものはまだ多い。まだ陽子の足元は固まっていないのである。今ここで自ら墓穴を掘るようなマネはさせられない。
　そのために三人は、浩瀚に自重するように申し出ることにした。

　それから程なく、三人を代表して祥瓊が浩瀚に話をつけることになり、浩瀚が一人のところを見計らい人気のないところへと呼び出した。
「こんなところへ私を呼び出して何をいうつもりだ」
　浩瀚は突然呼び出されたというのに慌てることもなく、いつもの冷ややかな面持ちのままであった。ただ、呼び出した祥瓊のほうは浩瀚の台詞に引っかかりを覚えた。
（「何をいうつもりだ？」ですって。こういう場合、普通はどういうつもりだって聞かないかしら？）
「あなた様に自重していただきたく思いましたので」
　少し訝しむ様な表情になってしまったが、祥瓊も浩瀚に劣らない冷ややかなそして真剣な面持ちであった。
「自重しろとは何に対してだ」
「ご自身でお分かりでございましょう」
「いや、分からぬ」
　浩瀚が眉一つ動かすでもなくそう答えたため、祥瓊はその白々しい返答に苛ついた。
「お分かりでないのなら、僭越ながら申し上げさせていただきます。浩瀚様、あなた様の秘められていた想いが、近頃その御身よりあふれ出ておいででございますよ」
　それでも浩瀚は眉をしかめただけだった。それを見、祥瓊はさらに強い調子で続けた。
「主上もまたあなた様をお慕いしているご様子。ですが、その想い今はまだ陽子のためにはなりませぬ。隠し通せないのであれば、必要以上に陽子に近づかないでいただきとうございます」
　祥瓊は陽子のためを思って必死だった。
「話はそれだけか」
　浩瀚の声は感情を表に出さないようにしているためか、いつもより硬く冷たく怖かった。
「はい」
「お前たちには関係ないことだ」
　浩瀚はそう言い放ち、何も居ないはずの暗がりにちらりと目を向けると、さっと身を翻し堂室を出て行った。
「浩瀚様！！」
　祥瓊はさっさと出て行く浩瀚に慌てて声をかけたが、その声に浩瀚が振り返ることはなかった。

「あれは相当重症だな」
　それは何もないはずの暗がりからした。そこには、ひとりで浩瀚に対峙するのは恐いという祥瓊に頼まれて、部屋の隅に隠れていた桓タイがいた。
「桓タイ。浩瀚様は一体何をお考えなのかしら」
　祥瓊は桓タイを振り返ることなく尋ねた。
　いつも凛とし溌剌としている祥瓊が、珍しく困惑し気の弱そうな泣きそうな声を出している。タイの位置からは表情は見えないが、声と同じく泣きそうな表情をしていることだろう。まるで自分ごとのように悲しむ祥瓊の姿は、桓タイの心をざわつかせるに足るものだった。
「あの方の考える事が、俺なんかに分かるわけがないだろう」
　桓タイは困惑と呆れがないまぜになった溜息をついた。
「ただ、あの方が主上の為にならないことをなさるとは考えがたいんだがなぁ」
　麦州時代からの上司と部下であっても、桓タイには未だに浩瀚の考えることの大半は読めずにいた。これには、文官と武官との差があるのかもしれないが。しかし浩瀚の主上と国への想いは、昔から変わらず正しく国のためにあった。その時々に自分ができる精一杯のことをやってきた。
祥瓊はキッと桓タイを振り返った。その瞳には既に涙が浮かんでいた。
「でも今のままじゃ二人のためにならないわ。陽子はまだ自分の心に気づいてないみたいだけど、自覚するのも時間の問題だわ。本当に浩瀚様は何を考えているのかしら。あの方の職務は主上のお助けをなさることでしょう！なのに、ご自分だけではなく主上のお立場まで悪くするようなことをしてはいけないわ。それに、あの方はご自身のお気持ちに気づいていらっしゃるはずなのに。陽子のことを想うのなら、もっと行動に気をつけるべきだわ。今のままじゃ何時足元をすくわれるとも限らないわ。何よりも、もういいお年なのだから恋愛ぐらいしたことあるでしょうに、あの態度は何？　もっと上手くできるでしょうに！」
　祥瓊は泣きながら一気にまくし立てた。桓?はいたたまれなくなり、祥瓊を腕の中に引き寄せ、右手で頭をポンポンと叩いてやった。
「お前のいいたいことは最もだが、少し落ち着け」
　そう言われて、祥瓊はゆっくり息を吐いて興奮した心を鎮めた。それでも不安な気持ちは消えることはなく、涙が静かに落ちた。
「私はやっぱり陽子が一番大切だわ。あの娘は一番娘らしい時代を王という責務に捧げてしまったのよ。恋愛をする余裕なんかなかったわ。それが今恋をしたのなら必ず幸せになって欲しいの。決して浩瀚様が不足なわけじゃないわ」
　最後の一言は桓タイの顔色を窺ってのものだった。桓タイはそれに苦笑して、
「良かった。俺は浩瀚様が一番だから。浩瀚様が祥瓊に嫌われてなくてよかった」
「嫌う訳ないわ。陽子が想いを寄せている方ですもの。やきもちは妬くけど」
　祥瓊は少し頬を膨らませ、ぷいっと横を向いて見せた。そうして、ポツリとつぶやいた。
「ほんとうに、二人とも幸せになってほしい」
　そう言うとそのまま桓タイの胸に顔を押し付けて、すすり泣いた。
「それは俺も同じだよ」
「桓タイ？」
桓タイは祥瓊の問には答えず、浩瀚が出て行った先を睨むような目つきで見ていた。もうそこに浩瀚の姿を見て取ることはできなかったが。祥瓊はその間に桓タイから身体を離し袖口で涙を拭った。その様子を見ながら桓?は口を開いた。
「俺も同じだ。祥瓊や鈴が主上に幸せになってもらいたいと思うのと同じだ。俺は浩瀚様にも幸せになっていただきたい。もう古い話だが、あの方は罷免されてなお主上を信じておられたのだから。こんなところであの二人を倒れさすわけにはいかない。あの方の幸せは主上とこの国と共にあることだと俺は思っていたんだがな・・・。この頃のあの方の様子では共倒れになりそうで俺は怖いよ」
　桓タイは大きな溜息を吐いた。かと思うと、
「ぐぁああーーー！！」
「きゃあ！」
　祥瓊は突然目の前の男が叫び声を上げたので、ビックリして悲鳴を上げてしまった。
「突然叫ばないでよ！　一体どうしたっていうの。それじゃぁまるで虎嘯じゃない」
「ああ、すまない」
　桓タイは祥瓊に涙目で睨まれて、ばつが悪そうに頭をかいた。
「で、一体どうしたっていうの？」
「いやぁ、ここであれこれ言っていても埒が明かないと思ってな」
「それはそうだけど」
　祥瓊はまた不安そうな顔をした。
「そんな顔をするなって。俺も男だ根性みせてやろうじゃないか」
「根性を見せるって？」
「浩瀚さま本人に問いただす。今夜にでも邸に押しかけてやるよ」
　桓タイは胸の前で、手のひらに拳を打ちつけた。これから戦でもしようかというような表情であった。
「そんなことできるの？　恐ろしくないの」
　祥瓊は心配そうに桓タイに声をかけた。桓タイはそれに苦笑で答えた。
「だからこうして気合を入れてる。正直少し怖いが、やるさ。あの方との付き合いは長いから大丈夫だよ」
「そう？」
「ああ。あー、いや、今回ばかりは少し自信がないかな」
「もう、どっちなのよ」
　祥瓊は桓タイが一人で意気込んだり、悩んでいる姿を見て溜息を吐いた。
「今夜行くよ。恨み言を言ってきてやる」
「恨み言？」　
　祥瓊は桓タイの言う恨み言が何をさすか分からなかった。
「ああ」
「よく分からないわ。でも、じゃあ浩瀚さまのことお願いするわね」
「頑張ってみるよ」
　そう言って、桓タイはもう一度苦笑して見せた。
「さあ、泣き止んだなら仕事に戻ろう。いつまでもこんなところにいたら俺たちの方が怪しまれる」
「もう！」
　祥瓊はもう一度袖口で目元を拭ってから、桓タイに微笑みかけた。桓タイが直に浩瀚と話をつけてくれることになり、祥瓊の心は多少なりとも軽くなっていた。

　了

2006.02.15

ＲＵＮＡさんから頂きました！　

ああｖ　桓たいラブ……！！　かっこいいッス……！！　

いきなり吠える桓たいに笑い、
でもそのあとの祥瓊のセリフ「それじゃぁまるで虎嘯じゃない」にもっと吹いた(笑)

いや、虎嘯は否定すると思うよ(笑)

つか、浩瀚がどんどん黒く……なって……。ゾクゾク（快感）　

そして、ラストの場面から想像してみる。