浩瀚×陽子／RUNA様
『節目６』
浩瀚は桓タイが自分の官邸を訪れた翌日から冢宰府にこもって仕事をすることが多くなった。桓タイに主上とは距離を置くと宣言したため、陽子のところに書類を取りに行ってもすぐに退出するように心がけていた。そんな浩瀚の様子に陽子の側近くにいる者たちは、桓タイの苦言が功を奏したとひとまず胸を撫で下ろしていた。
しかし何も知らない陽子はそうではなかった。以前よりも素っ気なくなった浩瀚に陽子は物足りなさと寂しさを感じていた。だが、自分が自由に出歩くせいで仕事が忙しいのだと思い至り浩瀚の行動に対して何か言葉にすることはなかった。
そのようなことが数度続いたある日、外出してもよい日ではあったが、陽子は金波宮に残っていた。自分が一日いただけでみんなの負担が減ることはないだろうが、真面目に政務を行おうと思ってのことだった。
いつものように朝議は休んだが、朝から自室で溜まっていた書き物を片付けていた。昼までかかりそれを終えると、できた書類は自分が取りに行くと言っていた浩瀚の言葉を無視し自ら冢宰府へと足を運んでいた。陽子にしてみれば、忙しいであろう浩瀚の手を煩わすのは申し訳なかったのである。
浩瀚は冢宰府にある自室で仕事を行っていた。仕事に集中したいときはいつも自室に篭るようにしていた。そうしなければ、次から次へと来客が後を絶たないからだ。その客のほとんどが現状に不満のある官吏であった。彼らは己の不遇を浩瀚に直談判に来るのだ。浩瀚はそれらの申し出をいつも無視していた。
そして、今日もそのうちの一人が懲りずに来ていた。朝議が終わる前から待ち伏せていたのを何とかやり過ごし自室に入ったものの、その男は昼を過ぎた今もまだいるらしく、浩瀚は出るに出られなくなっていた。いちいち対応するのは面倒な上、きりがない。それは浩瀚の部下たちも同じで、何とかしてくれと再三言われていた。自分の仕事も行わず長い間冢宰府に居続け、自身の待遇への不平不満ばかりを口にするような輩は早く官吏を辞めさせたいが、それだけでは辞めさすだけの理由にはなり得ず、この不毛な状況が長いこと続いていた。
「浩瀚さま、大変です！ 私どもだけでは対処できません」
昔から使っている官吏が、珍しく慌てた声を出して、浩瀚の執務室に駆け込んできた。
「ん？ どうした、何があった。落ち着いて話せ」
「主上が！ 主上がまたお一人でおいでになられて・・・」
「主上が？ まったく。あの方はなぜ駄目だと言うことをなさるのだ。今行く」
浩瀚は持っていた筆を乱暴に置くと、椅子から立ち上がった。それにしても、この部下がこれしきのことでこんなに慌てるのは珍しいことだ。そう思い、そのまま廊下に出ようとした浩瀚を部下の声が追いかけてきた。
「浩瀚様、それだけではないのです！ お一人でおいでになられた主上に、例の悪官が恐れ多くも直に声をかけ、いつもの論説を始めてしまいまして」
浩瀚は鬼のような表情で一度部下を振り返り、部屋に置いてある護身用の剣を手に、駆け出した。
「それで、主上はご無事なのか！？」
「はい。話を聞けと言うだけで、主上に手を触れたりはしておりませんでしたので」
「そうか。何かあってからでは遅い、急げ！」
浩瀚は、悪官が陽子にまで持論を否定されたら、例え主上相手であろうと刃を向けかねないと思い、気が気ではなかった。
浩瀚が部下とともにその場に駆けつけたときには、かなり大きな人垣ができていた。皆陽子に何かあれば自らが飛び出そうとしているようだった。そんな自分の部下たちを見て、浩瀚は少しうれしくなった。少なくとも冢宰府の人間は、陽子という女性の主上を好いていてくれるという確信を初めて持てた。
「すまないが、道を空けてくれないか！」
「あっ、浩瀚様！！」
「浩瀚様がこられたぞ！」
浩瀚が人垣に身体をねじ込ませて輪の中心に進んでいると、浩瀚が来たことに気づいた部下たちが浩瀚のために道を空けた。
「主上！！」
浩瀚が陽子の姿をその視界に入れたとき、陽子は困惑した表情で立ち、陽子の足元には膝を折り一心に自身の思いの丈を語る男がいた。浩瀚はその男など視界に入らないかのようにまっすぐ陽子の元へ近づき、その細い腕を引いた。
「？！！」
「ご無礼を、主上」
「浩瀚！」
急に腕を引っ張られた陽子は、その身を浩瀚に預ける形となってしまった。瞬間わけがわからず声が出なかったが、それが浩瀚だとわかると、陽子は心底安心した表情を浮かべた。浩瀚も陽子が無事であったことに安心し一瞬表情を緩めたが、すぐにまた鬼の形相へと戻った。
「主上なぜお一人来られたのです？！ あれほどお一人では出歩くなと申し上げているのに。私の言葉は理解できませぬか？」
「すまない浩瀚。こんなことになるとは思っていなかったんだ。最近、浩瀚忙しそうだから、できた書類を取りに来てもらうのは悪いと思って。ほら」
そう言って陽子は持っていた書類を掲げて見せた。
「書類などあなたが届けずともよいのです。虎嘯はどうしたのです？」
「いや、すぐだから声かけなかった」
「主上！ いい加減その考え方を改めてください」
「すまない」
殊勝に頭を下げる陽子を見て、浩瀚はため息を吐くしかなかった。
「とにかくご無事でようございました。こんなこと次はなしにしてください」
「ごめんなさい」
陽子は上目遣いで浩瀚の顔をのぞき、そう呟いた。
そんな二人の世界に浸りかけている二人を、冢宰府の浩瀚の部下たちはよかった、またか、という面持ちで見ていた。しかし、話の腰を折られた例の悪官はひとり怒りをにじませていた。
｢主上｣
その声に、陽子と浩瀚、また浩瀚の部下たちは一斉に声のほうを向いた。声の主は悪官であった。
「浩瀚、」
どうしようと、陽子は小声で助けを求めた。だが、近くにいるものにはその声はちゃんと聞こえていて、浩瀚は抱きしめるように支えていた陽子の身体を自分の背に隠すようにした。そうして浩瀚は、陽子と話しているときとは別人のような、きつい声音で悪官を問いただした。
「何の権限があって主上に直に声をかけたのだ」
「何の権限？ それは貴様のほうではないか！ なんの権限があって、主上に手を触れる！」
「お前には関係の無いことだ。自らに与えられた職務も全うせず、不平不満を述べるだけのような者に何かしらの権限を与えられるほどこの国に余裕はない」
浩瀚のその絶対零度の対応に、陽子や浩瀚の部下たちは冷や汗ものであったが、ただ一人それすらも気づかない者がいた。
「そもそもなぜ貴様のような者が主上に重用されるのだ！ どんな手を使って主上に取り入った、碌な才も無いくせにその辺だけはしっかりしているのだな」
「その口ぶりではお前のほうが私より才能があるように聞こえるのだが？」
「その通りではないか。だから貴様は私を含め自分より才のあるものをどんどん降格させているのだろう？ そして、自分の地位を守るために主上に取り入っているのではないのか」
浩瀚の周りの気温が一段と下がった気がした部下たちの中には身震いをしている者までいた。陽子も目の前にいる悪官がどのような人物であるのかは分からなかったが、浩瀚が悪く言われるのは我慢がならなかった。
「何か勘違いをしているようだが、浩瀚は私に取り入るような人物ではないぞ」
「主上！ 貴女が何かを発言する必要はございません。これは私の問題です」
「だが浩瀚、」
「主上には関係のないことにございます」
突然陽子が口を挟んできたことに浩瀚は少なからず驚いた。そして、まだ何かを言おうとする陽子に言外に黙れという圧力をかけた。
「主上のお言葉を遮るとは、冢宰とはいえ少し無礼が過ぎるのではないか？」
「！！ すまない浩瀚」
「なぜ主上がお謝りになられるのです？ 悪いのはこの冢宰とは名ばかりの男ではないですか。もしや、主上と冢宰は通じておるのではないでしょうな？ 冢宰殿は毎日のように主上の元に通っていると聞き及んでいるのですが」
陽子は、自分の発言で浩瀚の足を引っ張ったと思い、反射で浩瀚に謝罪の声をかけてしまった。小声であったにも関わらず、それに気づいた悪官が、浩瀚が口を開くよりも早く陽子に問いかけてきた。それも、浩瀚と陽子が男女の仲にあるのではないかなどと下世話なことまで口にした。
「無礼者！ 私と浩瀚は通じてなどいない。浩瀚はただの臣だ！ 浩瀚は国のために寝る間も惜しんで働いてくれている、その方が言うような悪い人間ではない。私の言葉が信じられぬか？」
「恐れ多くも主上、貴女様はこの浩瀚という男に騙されておいでなのではないですか。私には、悪い男にしか思えませぬ。そして、そのような者を重用なさる貴女様の言葉も信じられませぬな」
そういうと悪官はその顔にいやらしい笑みを浮かべた。それに危険な匂いを感じた、浩瀚は自分の背に隠した陽子が確かにそこにいるか腕を回して確認した。
「やはり、女の王など害にしかならぬな。その上冢宰が女王の色香に騙されるような男では、この王朝も長くは持たまい。そのような王朝早く終わったほうが良いとは思いませぬか、主上？ きっと、皆もそう思っておるはずですよ、口に出せないだけで。そのような者たちに代わって私が終わらせるのが一番良いのかもしれませぬな」
そういうと、男は懐に腕を入れた。
「主上、あなたにはここで果てていただきたい！」
言うより早く男は陽子目がけて飛び掛った。手には懐から出したのであろう短剣を握っていた。
陽子は丸腰であるが、浩瀚は護身用の刀を手に持っていたため、難なく取り押さえられると周囲の者たちは思った。
キンッ！！
刃と刃が噛み合う高い金属音が響いた。周囲の予想に反し、浩瀚はギリギリで悪官の刃を受けていた。そのことを現すように陽子が後ろに飛ばされ、尻餅をついていた。間合いがなさ過ぎたために、そのようなことになったようだ。
「やあっ！」
掛け声とともに浩瀚は相手の刃を押し返した。
カンッ！
そして悪官を仰向けに転がし、頭の横に刃を突き立てた。手に持っていた短剣は転ばされた弾みに離してしまったようで、近くに転がっていた。それを念のためにと遠くに蹴り飛ばした。
「誰か、縄を！ こやつを縛り上げろ！！ 罪状は謀反！ 主上を亡き者としようとした者だ、遠慮はいらん！」
それまで息を潜めて見守っていた浩瀚の部下たちが、一斉に悪官に飛び掛った。
「主上ご無事ですか？」
いまだ尻餅をついたままであった陽子に浩瀚は手を差し出した。
「・・・」
「主上？」
「あっ。すまない、浩瀚」
目の前で起こったことについていけず、浩瀚の呼びかけにも気づかず呆けていた陽子は、再度の呼びかけでやっと目の前に差し出された手に気づいた。その手に陽子が自分の手を乗せると、強い力で引っ張られ立ち上がらされた。その強すぎる力に陽子は眉をしかめた。
「お怪我はございませんか？」
「ああ、大丈夫だ。怪我は無い。少し驚いただけだよ」
「それはようございました。これで、お一人で歩き回られることの危険性をお分かりになられたら良いのですがね」
「ああ、まだああいう者たちがいると思っていなかった。油断した私が悪かった。すまない。これからは気をつけるよ」
「何度そのお言葉を聞いたことか。今度はいつまで覚えていてもらえるのでしょうね？」
「すまなかった。そんなに怒らないでくれ」
「怒ってなどおりません。呆れて物も言えないだけです」
（それだけ嫌味言えれば十分じゃないか）
実際陽子が、浩瀚が怒っていると思うのも納得がいくほど、浩瀚の声音はいつもよりきつかった。いつもはどんなに陽子に振り回されようとも浩瀚は陽子に対して怒ることはなく、教え諭すことがほとんどであった。
「それにしても、浩瀚は剣の腕が立つんだな。知らなかったよ」
「別に特別できるわけではありません。大学で必要だったから多少できるだけです」
「そうか」
（いつもより素っ気ない）
「さあ主上、お部屋までお送りいたしますよ」
「・・・。浩瀚がついてくるのか？」
「私ではご不満ですか」
「いや。お願いする」
久しぶりに二人並んで歩くというのに、二人は互いに押し黙ったままだった。前を歩く浩瀚の背中は、怒っていると主張しているように陽子は感じられた。
冢宰府から内殿へと向かう途中にある中庭の近くを通りかかったとき、陽子は自然と足を止めていた。内殿にある中庭とは多少趣は違うものの、浩瀚と散策したときのことが思い出され、浩瀚を怒らせてしまったことにすごく心が痛かった。庭に目を向けているようで、その実陽子は下を向いてしまっていた。だから、浩瀚が立ち止まり陽子を見つめていたことにも気づかなかった。
「主上」
呼びかけられ陽子はハッとして顔を上げた。浩瀚は静かな眼差しで陽子を見ていた。その瞳は陽子と同じような寂しさをたたえていた。
「よろしければ少し庭へ降りませんか？」
「ああ・・・」
その返事を聞くと浩瀚は淡く微笑み、廊下の欄干に手をかけひらりと庭のほうへと飛び降りた。
「こうかん！？」
「さあ、お手をお貸しください」
差し出された手に、先ほどの冢宰府でのやり取りを思い出し、目がくらむような気がした。それでもなんとか手を載せると、引っ張られ、その弾みで傾いた体を抱かれるようにして、陽子は庭に下りた。
自分の身体が宙に浮いたことにどきどきし、抱きとめられたときに嗅いだ浩瀚の香りにくらくらした。陽子の顔はほんのりと赤く染まっていた。
「大丈夫ですか？」
「うん・・・。浩瀚もこんな行儀悪をすることがあるんだな。びっくりした」
「今日の私はどうもおかしいようですね。さあ、もう少し先に行きませんか？」
「いいのか？」
「はい。こんなところを人に見られるとまた問題になりませんからね」
そうだなと、陽子は苦笑をもらした。
二人はパッと見、人目につかない木立の間へと進んだ。浩瀚は本当に自分が陽子をたぶらかす悪い男のような気がしてきた。
浩瀚は先ほどの冢宰府での陽子の言葉が気に食わなかった。そのため、子供のように陽子に対して怒っていた。
あの夜以来、陽子との距離は近くなったと思っていた。周りの者にも気づかれるほど浩瀚は舞い上がっていたと言うのに、鈍感な陽子は何も気づいていないような物言いをする。祥瓊や桓タイの言うとおり今はまだ気づかれない方がいいのだろう。
でも、『浩瀚だけだ』と言い、甘えてくださったりもした。それを忘れることなどできるはずもない。どんなにかうれしかったことか、言い表すことなどできない。
しかし、そんな陽子に助けられているのは確かだ。確かだが、
『浩瀚はただの臣だ！』
その言葉に自分でも信じられないくらいの衝撃を受けた。こんなにもおかしくなってしまうとは思わなかった。
やはり、皆が言うとおり陽子に近づき過ぎたのだろう。だが、もう浩瀚の想いは引き返せないところまできていた。
二人が立つ木立の間には気持ちの良い風が吹き抜けていく。また黙ってしまった浩瀚にかける言葉を思いつかない陽子は、幹に背を持たせかけ地に座り込んだ。頬を撫ぜる風と、座ることで近くなった緑の香り、それでも切なく痛む胸が軽くなることはなかった。なぜだか隣に立つ男がひどく遠くに感じる。
「貴女にとって私はただの臣でしかないのでしょうか？」
その台詞を言った方も、言われた方もビクッとした。陽子は思わず浩瀚を見上げ、浩瀚は開き直り陽子を射抜くような視線で見つめた。こんなことを口にするつもりはなかったのだ。だが、もう止まりそうにない。
「私は貴女を王として見れないときがあるのです」
「王として見れない？ 私は王としてそんなに不足しているだろうか」
「いいえ。そういう意味ではありません。
私は貴女を・・・ 恐れ多くも神である主上を女性として見てしまうのです」
「それはどういう意味だ？」
浩瀚の言葉に陽子は焦った。
「それをお聞きになるのですか？ 酷なことを仰る。
私は、一人の男として、女性である主上を好いているのです」
浩瀚のこの言葉は陽子にとって衝撃でしかなかった。こんなことは初めてであった、まるで頭が働かない。
「・・・・・・」
「こんなことを言われても貴方は困るだけですね。忘れてくださってもかまいません」
浩瀚は精一杯理性の手綱を握り締める。本当は自分に振り向いて欲しいのだ。忘れて欲しくなどない。できるものなら、この想いに応えてもらいたい。
「・・・分からない」
陽子はそう答えた。私は浩瀚の言葉に困っているのだろうか？ そう言われればそうなのかもしれないが、しっくり来ないものがある。陽子は耐え切れず視線を外した。
浩瀚は空を仰ぎ、日の眩しさに耐えられず手で顔を覆った。今のこのどす黒い自分には眩しい太陽はひどく不釣合いな気がする。否、今でなくとも釣り合いなど取れないのかもしれない。
「主上。どうも私は貴女に近づき過ぎたようです。もっと距離を置く必要があるのだと思います。私が近くに居るせいで怪我をさせるわけにはいきませんから」
それ以上何かを話せるわけもなく、時が過ぎるのを黙ってやり過ごすしかなかった。
了
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| 2006.09.12 |
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