慶国異聞／りょく様

　　　『麒麟さん相談室』

　慶東国堯天凌雲山は金波宮には、古くから伝えられる世他話がある。
　迷宮と言っても差し支えない、多くの呪術や冬器によって歪められた地仙や天仙が住まうこの宮殿には、不可思議な出来事が枚挙に暇がない。
　古くは無惨な最期を辿った歴代の王や王后、またその子女や麒麟たちが夜な夜な現れるだとか、主道・補道・管理道と言った主線複線が合わせて三つしか存在しない筈の道で、第四の通路＝死路が出現しているだとか、新しくは「蒼猿」が封印される前の怪《あやかし》騒ぎ――「蒼猿」封印話が新しいと言えるのが、仙人が暮らす世界と言えようか――だとかである。
　そんな噂話に毛が生えたようなものから、実際に生じていた実話まで入り乱れている『金波宮七不思議』――実際は七を大きく越えて存在している――に、比較的最近聞かれる不思議な話がある。
　仁重殿の蘭の花が咲く院子に、月の美しい夜――更に確率を上げるならば、蘭の花が咲いている頃――になると、不思議な房室が出現するのだという。
　宮殿の私室が集まる部分ではないだけに、房室と表せるほど小さな部屋の出現に、多くの者は気づかない。
　しかし、実際にはあるからして、極稀に、その房室に惹き寄せられる者たちが現れる。
　そして、その房室から出てきた者は、皆が皆、一体なにを見て聞いてきたのか、口を揃えてこう言うのだ。
「お、おおお恐ろしいものを拝見しましたっ」
　微妙な敬語が混ざっている混乱ぶりからも想像出来るが、何か位の高い人物のイタズラにでもあったのだろうかと、人々は噂する。
　だか、その噂も普通の『金波宮七不思議』と違って、体験した者のその後を伝えるのは先ほどの言葉のみ。その後彼がどうなっただとか、どうしただとかは一切こぼれてこないのである。
　経験したものは、皆、一様に口を塞ぎ、情報を洩らさない。

　と、ここまでくると、好奇心旺盛な女王陽子が「私も見たい！」と反応してくるのだが――どういうことだろうか。
　こと今回に限っては、そういった素振りが見えないのだ。
　やはりこれは、主上によるイタズラなのか――そんなことに考えを巡らせながら件の仁重殿の噂の一角に差し掛かった新人官吏の蕗廿藍《ろじゅうらん》、字は銘幸《めいこう》、しかして大学にて付けられた別字は凛漢《りんかん》――男顔負けの気っぷのいい漢らしいて凛々しい女史――は、自分の目を疑った。

「あれまぁ……本当に、あるんだぁ」

　ことこう言った噂話の細かい情報なら、金銭とお菓子と情報によっては交換してくれる宮殿きっての情報通の禾鷲も、王養子である蘭桂も大学から未だあがってきていない。
　大学に入学して最新情報など手に入らないはずの禾鷲に至っては、どうやって手に入れているのか最新の情報を常に集めているのだが、こちらから中々連絡がとれないので意味がない。
　あれで大学という場所は常に忙しい。それが初年度となったら、自らの立ち位置を決める重要な年であるし、珍しいものも沢山ある。一足早く公にも『正丁』と認められた廿藍としては、姉貴肌を見せて堪えるべきである。と、それと同時にこのムズ痒い束縛感は、金波宮の悪餓鬼ども、王養子の御学友、麒麟の査定部隊などなど数々の異名を持った子供世代ではあったが、そろそろ自分たちが「慶東国」という一組織に組み込まれてしまったことを自覚せねばならないことを、理解させた。

「全く、情報に疎くなっちゃってなぁ」

　カリカリと頭をかく姿はすらりと高く、六尺弱――175cmは余裕で下らないだろう。ゆらゆらと頭頂で一つに結ばれて揺れる髪は、見事な漆黒。豊かな髪色があふれる常世に於いて地味ともとれるその色合いは、しかし濡れた様な艶やかさをして美しかった。
　なによりも、その髪色は、彼女の瞳を引き立たせる。
　闇夜で発する瞳は、金茶色。黄金と見紛うばかりの煌めきは、猫の様に怪しく光り、男女ともに惑わすのだ。
　本人は解っていてその瞳で『人たらし』をするので、よく天然もの蘭桂と共に禾鷲や仲間たちから『最強人誘惑装置』などと言われたものである。『漢前対決』といったら、悲しいかな。ここ金波宮では男子どもの出番はない。『昇る太陽』こと東の女王陽子と、『抱く闇夜』こと西の天官凛漢と呼ばれるのも近い話だろう。閑話休題。

　よく言えば大らか。悪く言えば――あまり深く考えない彼女は「ままよっ」と、勢いで目の前にある不思議な小部屋に踏み込んだ。

◇◆◇

　目前の小さな房室は、小さな卓と一脚の背付き椅子。卓の上の一輪差しには、今宵一番見事な蘭が艶やかに薫りながら咲き誇っていた。その蘭の花の薫りを打ち消さない程度にまた別種のお香も焚かれている様であり、実に怪しい雰囲気だ。
　天井には天窓があるのか満月が室内灯よろしく房室を照らし、月光がもたらすこの房室の怪しさと、蘭の花にこぼれる光の優しさとの不安定《アンバランス》さが絶妙と言えた。
　――ほう……さすが、七不思議とか言われる訳だ。
　ざっと室内を見渡して、廿藍はくすりと笑う。
　先ほどは気づかなかったが、房室の四隅には、それぞれ小さな置物――四神相応の見事な彫り物が置かれており、そしてその真ん中である小卓の前で座っているのは、やはりというべきか。黄道の主たる麒麟なのだろう。
　――髪を纏めていらっしゃる様だが……残念ながら、今夜は満月。まさに貴方様の支配する時と空間で、目一杯輝いておられますよ。
　ふぅっと一息ついた廿藍は、目の前に座る人――景麒に向かってそっと尋ねた。
「こちらに座っても？」
　うん、とも、はい、とも言わぬその人は、そっと自分の前にある椅子を指し示し、その場にいる許可をだす。
　よいっしょっ、という少々婆臭い言葉と共に着席した廿藍は、改めて目前の人を見て、はっと瞳を見開いた。
　髪を纏めたものの上から更に被りものをした彼は、だがその視線を隠すことなく、まっすぐに相手を見つめる。
　まるで人間を、仙を釈伏せんと言わんばかりの真剣な、獲物を見るような視線は、ちょっとばかり鬼気迫っている。
　――え、ええ？な、何で視線を隠さないんですか！これじゃ、最初解らなかった奴でも、目を見たら一発でばれるじゃないですか！
　廿藍の心中の独白など何のその、景麒は何処から現れたか解らない、いつの間にか手元にあるお茶を啜っている。
　いや、よくよく小卓を見ると、なんと彼女の分まで現れているのだ。
　――だ、誰かこの部屋見ているの！？
　気弱になり始めた廿藍は、自分の思考が「人たらし補正《モード》」から、通常の「蕗家の姫様」に戻っていることに気づいていない。
　ドクドクと胸打つ心拍数の上昇もはっきり理解出来るほどで、彼女は混乱の極みに達していた。
　――ちょぉぉぉぉっ！ネタにされるのは勘弁よぉぉぉぉ！
　半ば泣きそうな顔で景麒を見つめると、ようやく神獣たる彼は、初めて口を開いた。

「さぁ、貴女の悩みをお聞かせください」
「……へぁっ？」

　間の抜けた返事をした廿藍に、景麒は形のよい眉をぴくりと跳ね上げるだけの反応を示す。
　衝撃から我に返った廿藍は、慌てて景麒に尋ねた。
「お、恐れながらお尋ね申し上げます！これは何事なんででしょうか？」
　彼女の質問に、今度は景麒が驚いた様な顔を見せる。
　――え、私、何か悪いこと聞いた？
　顔を見合わせる形になった二人は、こほんと咳払いをした景麒のしきり直しで姿勢を正す。
「表にある看板をご覧にならなかったのですね。……それと……ここでは、私のことは只の相談者――”老師”と呼んでください」
　にっこりと満面の笑みを向けられた廿藍は、今度こそ凍り付いた。
　――ひぃぃっ！た、たた台輔の満面の笑みなんて、私はこのまま死んでしまうのぉ！？
　凝り固まった彼女は、その場から逃げるように表にでると、入り口頭上をもう一度確かめる。
　果たしてそこには――『麒麟之人生相談』と秀麗に書かれた看板が掛けられていた。
　先ほど見たときには、一切こう言ったものはなかった筈だと、物覚えの良い自分の頭を信じている彼女は、自分がこの房室に入った後に設置したか、何か呪術がかけられたあったとしか思えなかった。
　気づかぬうちに、彼女の目の前にもお茶が出現していたことを考えると、何者かの監視化におかれていると考えてよいだろう。
　老師《せんせい》と呼んでほしいと嬉しそうに言った麒麟に対して、どう接しればよいか分からぬまま、廿藍はひきつった顔をそのまま取り繕うこともなく、椅子に座り直すのだった。

◇◆◇

　「何かに悩んでいるのでしょう」と尋ねられたところで、今一番の案件は貴方の目の前にいることです、とは答えられない廿藍は、ほとほと困り果てて――出されたお茶を一気飲みした。
　外面からは、本当に困っているのか見当もつかない。むしろこの事態に落ち着いているとすら、見られるだろう。
　たんっと小気味良い音を立てて湯呑みを小卓に置くと、そっと他に気をやるふりをする。
　何時、どの瞬間で湯呑みが交換されるのか見てやろうとしたのだ。
　ところが――悲しいかな。廿藍が仙と雖も人間である。彼女の目では追えない早さで、瞬きをしている間にお茶は増えていた。そう、湯呑みを交換されたのではない。お茶が淹れてあったのだ。
　何か、生き物の気配はあったような気がする。それでいて、この早業である。思い当たる節は一つしか無かった。
　――こんなことで、使令を使役しないでくださいっ！
　麒麟の代わりに暴力行為を行う、護衛であり最強の襲撃者である使令を、まさかこんな事に使うなんてと呆然とする廿藍。
　だが、そんな彼女の姿は、傍目には冷静にこの状況を観察しているようにしか見えない。
　事実、景麒にはそのようにしか見えなかった。

《台輔……恐れながら……このような事をされるのは、如何かと……》
　そっと景麒の足下から彼自身にしか聞こえない声で囁いてきた使令の驃騎は、少し困ったような声音だ。
《いいえ、大丈夫です。この者は今までの者とは、なにやら違うようですし、たしか……蘭桂の友人のはずです。少し聞いてみたいのです》
　そっと言葉を返した景麒は、廿藍に『何を聞いてみたい』のかは言わなかった。
　またもや景麒の足下から声が響いてくるが、今度は笑いを堪えているような音だ。
　《……っくっくっく……では、あまり廿藍様を困らせない様になさってくださいね》
　笑って主に言ったのは、班渠だ。明らかに驃騎より面白がっているのが分かる。
　景麒は憮然とするも、そこはぐっと堪えて二頭の使令の言い分を守ろうと思った。

「さぁ、貴女の悩みをどうぞ。この房室は、何か悩みを抱えている人にしか見えない呪いをかけているのですよ」

　丸っきりのハッタリだった。
　少しぼぉっとして回廊を歩いている者を、気づかぬうちにこの房室がある方へ迷わせ、景麒のとある目的の為に誘導させているのだ。
　しかし、既に腹をくくっている廿藍はそんなことはとうの昔に理解していただろう。今度は彼女が片眉をあげるだけで、嘘を明かしはしなかった。そして――

「では……。我が国の麒麟についてですね」
「うへぁっ」
《……っ》
《ちょっぉぉぉ》
　今度は景麒が奇妙な声を上げ、使令たちもそれぞれ驚きの反応をしてみせる。
　にっこり笑った廿藍は、恐ろしかった。
　『貴方たちが誰であるかなんて、お見通しです』そう書いてある顔は、さらに笑顔を張り付けたまま、続ける。
「自分をしっかり持ち、否定することも、受け入れることも柔軟になされる様に成長された主上に対して、あまりにもあの方は頑なです。あれでは、主上が苦笑いをしてしまうのも致し方のないことです。我々も重々お助けいたしたいのですが、最近の台輔といったら……」
　そこで言葉を切った廿藍に、景麒はずずっと詰め寄って先を促す。
「『台輔といったら』何なのですか？」
「あのお方は、少々ずれておいでですね」
「……」
　反応が無いことを良しとして、廿藍が続ける。
「延台補の様に子供っぽさを残して主上に甘えて見るでもなし、氾台補の様に無邪気甘えるでもなし、廉台補の様に優しく支えるでもなし、宗台補の様に家族のように接するでもなし。さりとて……お二方は恋人のようには見えませんし、主上を導く兄にもみえませんしね」
　なんかチグハグなんですよねー。そう続く言葉を聞くや否や、"老師"と呼ぶようにとまで言って自身を偽装していた――麒麟的に考えて、これは嘘ではなく、あくまで「ふり」なので、なんら良心にはばかる必要はないのである。という些か無理な暗示を自らにかけた――景麒は、廿藍の両手をがっちりと握りしめて、咽び泣きながら問うた。

「いいい、一体どうしたら良いのでしょうかねぇぇ、廿藍！！」

　鬣を纏めていた布も被り物も取り払って廿藍に密着した景麒は、既になりふり構ってなどいなかった。
　今までの相談者は、老師が景麒であると分かった瞬間に、逃亡、気絶、謝罪の大盤振る舞いであったのだが、さすがは蘭桂たち『不可能を可能にする子供たち《チルドレン・オブ・ジ・インポッシブル》』世代である。
　はぁっとため息をついて――ワザと作った『人たらし補正』でもなく、純粋に人を和ませる、優しくてほっこりするような笑顔を、とびっきりの顔を上司である台輔に向けて捧げた。
「素直に、今まで通りになされば良いのですよ。何があったのかは……まぁ、想像つきますが、ご無理はいけません。これまで通りでなら、蘭桂と主上の様な関係になれるでしょう」
　廿藍が言っている事は、妹と兄の関係ではなく、姉と弟の関係になれというのだ。
　この常世での長い時間を生きてきた景麒を兄とするのではなく、この常世での年月が短い主上を姉と慕えと言っていた。
「今生を精一杯、最期まで全う為されるのでしょう」
　疑問でなければ、確認でもない。断定だ。
　廿藍は自国の麒麟の密やかな決意までも見抜いていた。
「各国の麒麟がどんな形であれ、主上を慕っているのです。台輔が、頑なに何かをがんばられる必要は無いと存じます」
「……廿…藍……？」
　まっすぐに麒麟の瞳を見つめるという、通常であるなら失明するんじゃないかと畏れるほど勇気が必要なことを、廿藍はいとも簡単にしてみせた。
「隣国の台輔には苦言を申しあげるよう、天官長へと奏上いたしておきましょう？」
　それは、延台輔がまた何かやったんでしょう、と同意語であり、事実正しかったのである。
　主上を慕っておりながら、なかなか陽子に親愛の情を受け取ってもらえていないと思った景麒は様々な接触《アプローチ》を試みた。もちろんすべて延麒策である。
　そもそも、そこが問題をこんがらせているなどとは、露とも景麒は思いつかないのであった。
　様々なことをした。
　贈り物――宝石、衣服、食べ物、書物。挙げ句の果てには、自身が嫌いな冬器を贈る事までやってみた。
　最初は、「嫌がらせか？」「女物とはいい度胸だ」「……せめて、辞書をくれないか」などと困りつつも反応を返してくれたのに、仕舞には「どうしたって言うんだ！おまえがこんなものを私に寄越すなんてっ。国司だけが使える水禺刀を持つのですら嫌がるおまえがっ！……侍医は！？典医はどうしたっ」と上を下への大騒ぎ《パニック》である。
　陽子への日頃の親愛の情を、どのようにしたら気づいてもらえるかという点から始まった問題は、実に大事となってしまったのである。
　後日、誤解が解けたあと、別の問題が生じた。

　今度はどう接しれば良いか分からなくなってしまったのだ。
　そして、景麒は『麒麟之人生相談』と銘打って、様々な業種、位の官吏、奄、奚たちを引き寄せたのである。的確な答えを与えてくれる者を求めて。

　そう、はなっから廿藍には分かりきっていた事だが、この場所は景麒「の」悩み事を相談する場所だったのである。
　台本があるのか、助太刀するものがいるのか不明だが（たぶん両方いるのだろう）、相談者の悩みを解決する振りをしつつ、最後には景麒の悩みと繋いでいき、相談に乗ってもらう話になっていたのだろう。
「で、でわ……私は、『普通』で良いと申すのか……」
　半ば呆然とした、少々気の抜けた、これまた珍しい表情を浮かべた景麒に、廿藍は自分がかなりの年下であることを重々承知で言った。
「はい。我らの主上に於かれましては、最初に出会った時の台輔であられる方が丁度宜しいのでしょう」
　また「鉄面皮」「空気読め」「うざい」など、殆ど麒麟に向けていう言葉でないことを言われるだろうが、うちの台輔は被虐《マゾ》趣味があるっぽいから大丈夫だろう――などと言う、景麒にとってはとんでもない認識を持たれていることなど、彼は知らない。

　そして、綺羅綺羅と輝く宝玉の様な涙をハラハラとこぼしながら廿藍を見つめる景麒の裏で、彼女が思う以上に深刻で重大な事が決められているのなど、彼女は知るまい。

◇◆◇

「えーとぉ。じゃぁ、今後瑛州の令尹候補として教育していくって事で良いのか、浩瀚？」
　水禺刀をビデオ録画機能のついた便利なものとしてテキトーに扱っていた陽子は、刀に映る映像を眺めつつ、切れ者冢宰に話を振った。
　振られた切れ者冢宰こと浩瀚は、頷くと、軽く額を押さえた。
「天官長から、『うちの重要な幹部候補性を持っていかないでくださいぃぃぃぃ』と本当に泣きながら、しがみついてこられましたが、致し方がありません。これほど上手く、巧みに台輔を宥める事ができるのなら、麒麟の慈悲で迷走しがちな瑛州を任せることができるでしょう」
　瑛州の令尹とは、殆ど他州の州候と同意語である。
「はぁ……天官長には謝らないとなぁ。――っと、それにしてもあの『お嬢さん』の槇凛《てんりん》がねぇ」
　ほうっとため息を付いた陽子は、懐かしそうに水禺刀に映る小さな少女を眺める。

　大きな瞳に涙を溢れさせて班渠にしがみつく彼女は、怖い怖いと叫びながらも、決して班渠の尻尾を離さなかった。
　怖いのなら、班渠の尻尾を離せば良いと言った陽子に、槇凛は終いには泣き出して言うのだ。
『だって、こんなにも美しいんですもの。きっと手を離したら、夢物語の様に泡として消えてしまうんですわっ』
　妖魔と殆ど変わらず、獣臭さもあるだろうに、彼女は班渠を『美しい子』という。それでも、それだからこそ怖いのだと。
　暴力的なまでに超自然的なその存在は、確かに畏れを抱くほど圧倒的な美を誇っていた。
　少女ながらに理解していた彼女は、代々高官を輩出する名門蕗家の長子だ。遡れば、常世一長命な王朝を築く奏の櫨王の一族とも古い昔に繋がっているほどの。慶に渡ってくる時に、王に憚り改姓したとのことだ。
　そんな彼女は、自身の出自を誇るでなく、真摯に受け止め、蘭桂と勉学を共に学んでいた。
　蘭桂や禾鷲たちと遊び、学ぶ彼女に陽子が暫くして与えた字が槇凛だった。
　槇凛こと、廿藍は、小さな仲間内で過ごすときはその字を呼ばれることを是としたが、少学にあがる頃には親が付けた「銘幸」の字を呼んでくれと言った。
　何故と問われた廿藍は、その歳で既に立派な官吏になるのだと気概を女王陽子に魅せた。
『何時か、必ずその字にふさわしい人物となって、改めて皆の前で頂きとうございます』
　少し舌っ足らずな口調で言われた台詞が、とてつもなく嬉しかった陽子、大器の可能性に心が震えた。
　いや、実際は体も細かく震えたいたのかもしれない。
　確か、『その心意気や良し』とし、『貴女が上ってくるのを楽しみにしている』と言って笑ったのを覚えている。

「さぁ、私は待ったよ――槇凛。素材の選抜は終わったのだから、先ずは仕込みから始めようか」

　常世で過ごすうちに覚えた物の中に、飲酒がある。
　嗜む程度のそれは、度を過ぎなければ確かに人を楽しませる品だ。
　つるりと喉を流れた液体は、まだまだ熟成の甘い未熟な葡萄酒だ。その年にとれた葡萄の品質を見極める為に特別に封を切る葡萄酒で、「初物」を粋だとする人たちの楽しみであった。
　陽子が蓬莱の彼方の文化だといって持ち込んだ酒と風習も、今やすっかり慶東国に根付きつつある。
　蘭桂と共に、悪戦苦闘して育てた目が、どの様な「華」を咲かせるのか、楽しみで仕方のない陽子であった。
　小さな少女に付けた字の意味は、泣き虫だった彼女が、何時か凜とした槇の樹形の様な美しさを湛えた女性になって欲しいとの願いを込めたもの。
　もうすぐ、もう一度彼女にその字を与えられるかと思うと、陽子は嬉しくて笑いがこみ上げてくるのだった。
　そんな陽子と一緒にご相伴に預かっていた浩瀚は、珍しく苦笑を一つ漏らすと、尋ねた。
「そんなに楽しみですか？」
「ああ……こんなのは初めてだからな。私がこの地に自分で蒔いた種の結果が見れるのは」
　くっと一息で杯を呷った陽子の頬はうっすらと赤く染まり、興奮していることが見て取れる。
　浩瀚も、自身が何度も体験した「弟子」の第一歩を踏み出す時の感情を思いだし、今、まさに初めて経験する主上の喜びを想像するのだった。

　新しき若い人の台頭ほど面白く、楽しい事はない。
　少々年寄り臭い感覚ではあるが、陽子は自分が年齢を重ねることを楽しいと思える事に感謝した。
　そして――、自分の大切な麒麟も少しずつ迷いながらもこんな感覚を、感情を持っていると良いと、思わずにはいられなかった。

　了

2009.12.14

りょくさんのサイト５周年記念でリクエストしました！！

景麒の悩み相談室。
景麒が相談する側でもされる側でもどちらでも、ということで
やっぱり景麒の悩みといえばやっぱりこれ！　ですよねｖ

これからは困ったことがあると「槇凛～」と泣きつく景麒の未来が見える（笑）
だって、槇凛は未来の瑛州令尹！　
二人の政務風景とか日常を想像するだけで和みます。