氾王×ちび陽子
『幼姫（おさなひめ）１』
範国の王宮に主が戻ったのは、夏――。当然、そのそばには金の髪の宰輔がいると思われた。だが、氾王が連れていたのは麒麟である氾麟ではなかった。
鮮やかな紅の髪、緑の瞳――。
「まあ……主上」
範国王、氾。麗美な容貌は男性であることを忘れさせるほど鮮やかな容貌の王の腕には、３歳くらいの少女が座っていたのだった。
氾王とその連れを見て、軽く目を見開いたのは秋葉（しゅうは） と呼ばれる冢宰だった。秋葉――と、その字を下したのは王。だが、秋葉にしてみれば、彼の三百年という治世の中で幾度となく賜った字のひとつにすぎない。
秋葉は 「こんにちは」 と、その子供に丁寧に挨拶をし、主を見上げる。
「どこでお産みになったのです」
くすり、と彼女は笑う。夕日のような紅の髪と瞳の持ち主だった。優美な容貌だけでなく、仕草やその雰囲気も穏やかで優しい。年は二十代前半――もしかするともっと若いのかもしれない。
彼女を一目で範国冢宰と見抜く者はいないだろう。
着る服は女御と変わることなく、女御のように氾王の世話も当たり前のようにする。
長椅子に腰を落ち着けた氾王は、少女を自分の膝の上におろした。
少女は先ほどから一言も話すことなく、秋葉の行動をずっと目で追っている。
「楽しいかえ？」
氾王がくすりと笑うと、少女は彼の服をつかんだまま小さくうなずいた。
氾王はもう一度笑う。
「楽しそうですわね。どこで拾われたんですの？」
「東の地だよ」
「……慶国ですか」
範国と親交のある雁国より先に南にある慶国を思い浮かべたのは、数年前の夏に主従が慶国へと向かったことがあるからだろう。求めは雁国からであったのに、迷わずに台輔を連れて慶国へと向かった氾王――呉藍滌。
戴国の内乱の際、藍滌が泰王の行方を気にしていたのは秋葉も知っている。泰麒捜索の要請に一
・二もなく応えた。帰って来た主従が、慶国において何をしていたのかも、当然の如く秋葉は知っていた。
戴国の騒乱に誰もが動くことの出来なかった中、ただ一人動くことの出来た景女王――。
他国の王に、麒麟に呼びかけ、助力を求め、延王を動かし、他国を動かした。
範に戻ってきた主従の、景女王に対する評価は高かった。
会ってみたい、と秋葉は思う。
気に入らないことは気に入らないと、それが他国の王であっても隠すことのない気性――その藍滌が長きに渡って居続けた王宮。その主の人柄。
おそらく、藍滌のわがままも氾麟の行動も止めることなく、自由にさせた――。それが可能な空気が景女王にはあるということだ。
いやな顔など一度も見せなかったに違いない。
その、心。
範国の主従はそれほど扱いに難しいのだ。
かの女王も秋葉のような髪だったと氾麟などは言うが、今、ここにいる少女のようにもっと鮮やかで明るい炎のような色の髪なのだろう。
にこ、と秋葉は氾王の連れに笑いかけた。
にこ、と返ってきた愛らしい笑みに、秋葉はとろけそうになる。そのふくよかな頬に手を伸ばそうとした――が、それを止めたのは氾王の扇だった。
「ああ、ならぬ。私以外の者が触れると、消えてしまうゆえ」
「まあ」
普通ならば、冗談を、と思うところだろう。だが、秋葉は真面目な顔で手を引いた。
「今度は何をお作りになったのです」
「人聞きの悪い。ただ、少し、陽子に薬を飲ませただけよ」
「陽子？」
首をかしげた美しい冢宰は、次の瞬間、唖然として王の腕の中にいる子供を見つめた。
「それでは……これは――この方は、景王君ですか！」
主従そろって茶目っ気のあることは理解しているが、やっていいこといけないことの区別がつかないのというのは危険だ。
彼女は内心でうめいた。
王の治世に何らかの節目があることは、今までの歴史が証明している。
そして、範国の現王朝はもっとも不安定で危険と背中あわせである三百年――。
氾王が他国の王に薬を飲ませ、子供にしたうえで攫ってきた――その事実は、決して無視できることではない。
「梨雪さま――台輔は、なんと！」
「騒ぐでないよ、秋葉」
「しかし、主上！」
「梨雪はせっかく増殖させた陽子に触れられず、お冠だえ」
「ぞ！ …………ぞう？」
顔色をコロコロと変える秋葉に、氾王は笑う。
「そう。増殖させたのよ。嬌娘は自分が触れると霞のように消えてしまったことに愕然としていたよ」
「主上……」
「どうやら、私しか触れること適わぬらしい」
「で……ですが、景女王はご存知なのですか？」
「知らぬ」
しらっと口にして、幼児の頬を指でぷにぷにと押している。
「しゅ…………主上……」
「うそじゃ。存じておる。驚いてはいたが……嬌娘が消してしまったゆえ、この子供もすぐに消えると思うておるようじゃな」
「景王君の身に害はないのですか？」
「ないであろ。台輔にも会わせてみたが王気も感じられぬ様子」
秋葉はなんとも言いがたい表情で、じゃれあう親子を見つめた。
「どうなさるのですか」
「むろん私が育てるに決まっておろう」
「で、ですが……」
「文句があるのかえ」
「……」
いえ、と首を横に振った秋葉だが。
氾王以外の者が触れると消えてしまう幻のような少女。人形のようにこのまま食事もとらずに服もかえることなく済むというのなら問題はないだろう。
だが。
現に目の前で氾王自らの手で小さく千切られた菓子が子供の口に運ばれている。こぼれた抹茶の粉が、白で整えられたかわいらしい服についてしまっていた。
「……」
服は藍滌が喜んで用意するだろう。
――だが、誰が着せるのだ？
食事も女官や女御が喜んで用意するだろう。
――だが、口の周りについた汚れを誰が拭くのだ？
誰が、この少女を風呂に入れるのか。排便は――。
「執務に……戻ります」
秋葉は思ったよりも厄介なことになったと内心で溜め息をついた。
いざとなったらお叱りを覚悟の上で少女に触れて消してしまえばいい――そう思ったが、そのときに王がこの少女に心奪われていた場合、最悪の事態も考えられる。
「あら秋葉、難しい顔をしているのね」
「台輔！」
回廊を反対側から渡ってくる美少女に、秋葉は救いを求めるように無言で問いかけた。
氾麟は心得たように目を細めた。
「陽子ね？ 残念だわ。せっかく二体作れたのに」
「は？」
「聞かなかった？ 私が欲しいって最初に言ったんだけど、主上しか触れることが出来なくて、消えちゃったのよ」
「……は、はあ……」
「せっかく遊べると思ったのに！！」
「で、ですが、執務がおろそかになったりはいたしませんでしょうか。主上しか触れられぬということは、主上しか幼姫の世話をすることが出来ないということです」
「そうなのよね。でも、それがかえって主上のお気に召したみたい。もともと世話好きなところがおありですもの。それに、あの子、成長が早いのよ」
「え……？」
秋葉は瞬いた。
「慶国を発つときはまだ赤子だったんですもの」
「は！？」
「今、何歳に見えた？」
「三歳くらいかと……」
「きっと、あっという間におばあちゃんになっちゃうわよ」
「そ……そうですね」
もう、何があっても驚かない、という表情で秋葉は相槌をうった。
所詮、まやかしにすぎないということか――。
「そうですね、これだけ人の多い王宮ですもの。偶然誰かに触れて消えてしまうことだってありえますわね」
ちょっと安心。
氾麟はそんな秋葉の様子に笑いをもらした。にっこりと笑って別れを告げると、梨雪は軽い腕まくりをした。
「さーて！ 陽子と遊ぶわよーーーー！！」
たとえ触れることが適わなくても、愛らしい者を見ているのはそれだけで至福だし、小さな子供を連れまわすのはきっと楽しい、と思う。
「陽子、遊びましょう」
「はんりん」
覚えたばかりの言葉を口にして大きく笑う子供に、氾麟は心から溜め息をつく。
「ああ……本当に可愛いわ……。惜しむらくは触れることができないということね」
氾王が笑った。
「いつかまた、作ってやろうほどに」
「期待していますわ。――さ、オセロをしましょう。知っているでしょう？ 蓬莱の遊びよ」
三歳の子供は、きょとんと首をかしげた。
了
2001.12.15