キリリク「浩瀚×陽子」 ナオさんへ。
『風の痕（あと）』
長引いた朝議が終わり、陽子と景麒、浩瀚はともに外殿を出て各自の執務に向かう。
長い回廊を歩く三人は無言だった。静かな風が心地よく、衣擦れの音と、景麒と陽子の髪をなびかせて「サラサラ」という音を作り出す。
先に頭を下げたのは景麒だった。
「失礼いたします」
州庁へと向かう金の髪に陽子は背後から問いかけた。
「景麒、昼餉はどうする？ 一緒にどうだ？」
「お心だけで。急ぎの用がありますので、向こうでいただきます」
「うん、そっか」
景麒はもう一度頭を軽く下げて退出した。
残された浩瀚に、陽子は首をかしげて見せた。
「浩瀚も忙しいか？」
冢宰が暇であるはずがないことくらい陽子も知っている。
浩瀚は静かに笑い
「いいえ」
と言った。
「ご相伴に預からせていただきます」
「うん」
陽子が嬉しそうに笑った。
「鈴がおいしい漬物をつけてくれたんだ」
「梅干……というやつですか」
「あはは」
陽子は笑う。
「違う違う。大根のだよ」
陽子は浩瀚の胸に人差し指をつけて、ニヤリと笑った。
「梅干が出ると思ったんだ？」
浩瀚は苦笑する。
「台輔もそう思われたのでは？」
「差し入れにおにぎり持って行かせようかな」
「お止めになったほうが」
「景麒の苦虫をつぶしたような顔、ちょっと見てみたい」
「主上」
「うそうそ」
陽子は風でなびく髪をおさえて、くすりと笑った。浩瀚が眩しそうに主を見つめる。
「梅干だけで食べようとするからいけないんだよ。今度お茶漬け作ってあげる」
「お茶漬け……ですか」
困惑した表情の浩瀚に、陽子は腹を抱えて笑う。
「怪しいものじゃないって！」
「分かっておりますよ。どんな食事かと思っただけです」
「お茶漬けも食べたことがないなんて、本当にいい暮らししてたんだなー。おかゆや雑炊だと思えば問題ないって」
「はあ」
陽子はにっこりと笑う。立ち止まっている浩瀚に近づくと、その胸に抱きついた。背に腕を伸ばしてギュッと抱く。
「えへへ」
浩瀚が苦笑する。浩瀚も優しく陽子を包み込んだ。
「お疲れですか？」
「ううん、こうやって二人で話せるのって久しぶりだなって思って」
「そうですね」
「カップラーメンとか、浩瀚に食べさせてあげたいな」
「器麺ですか？」
「は？」
陽子は目を丸くして、次の瞬間、思いっきり噴きだした。
「そうそう！ 器麺！ あってるあってる！！」
怪訝な顔をしている男の胸元を掴み、陽子は身をよじるようにして笑う。
浩瀚は陽子の肘を支え、苦笑をもらす。だが、楽しそうな主を見つめる瞳はあくまでも優しい。笑いをおさめて涙を拭っている陽子に笑いかけた。
「楽しみですね」
「私も楽しみだ。今度、延台輔にお願いして持ってきてもらうよ」
「お願いいたします」
浩瀚は目を細め、優しく笑った。
笑って――。
陽子を抱きしめるようにして、空いている部屋に身体を滑り込ませた。
薄暗い部屋。
内殿には使ってない宮が多くあり、さらに部屋の数はその数十倍もある。そのひとつに浩瀚は陽子を引き入れたのだった。
「浩瀚？」
陽子が問い掛ける前に、浩瀚は陽子の唇を奪っていた。
「……っん」
呼吸が出来ないほど、
深い口付け。
「こ……浩瀚っ！ 誰かが……！」
「こちらの道は誰も使っていませんよ」
浩瀚は主の両手首を頭の上で壁に押し当て、耳の下に唇を当てて囁く。陽子がその場所に弱いということをちゃんと知っているのだ。
陽子は漏れそうになる喘ぎを飲み込んだ。
「……っぁく」
浩瀚、と口にした言葉は声にならなくて。
「御飯……」
「今は……あなたをいただきたい」
低く、耳に響く美声。
すでに足に力が入らない。
「あなたも言ったでしょう。二人で話せるのは久しぶりだと」
「……だから違う道を歩いてたんだな？」
この策士め、と陽子は思う。
浩瀚は笑った。陽子の首筋に唇を当てて軽くついばむ。
「今日はいい匂いがしますね。先ほどから風が匂いを運んでくる。宝物庫に眠っていましたか」
ううん、と陽子は少し頬を染めて首を振る。
「延王が下さったんだ。いい香木が入ったからと」
「……」
「浩瀚？ ――っ！」
痛い、と陽子は眉をひそめた。浩瀚の握る指に力が入って、手首を締め付ける。
「浩瀚！ 痛い……っ！」
それでも浩瀚は力を緩めようとはしなかった。
「いい匂いです……。ですが、あなたには似合いませんよ。この香りは」
ひどく冷たい声だった。
「あなたには似合わない」
「……」
耳元で囁かれる残酷な言葉に、陽子は言葉を失う。
浩瀚はそれ以上何も口にしてくれなくて。ただ、雰囲気から――声から男が怒っているのは分かった。
部屋が暗くて、陽子の側から男の顔を見ることが出来ない。
何か言わなくては、と陽子は思う。
何か――。
笑って――。
「うん……そうじゃないかと……思っていた」
涙が出た。
あれ、と陽子は思う。
大粒の涙がボロボロと溢れて止まらない。
何で泣いているのか、自分でも分からない。ただ、涙が止まらない。
浩瀚に気づいてもらえたことが嬉しかったのに。
陽子は目をつむった。涙が出ないように。
「もう……つけない。何も……」
息を飲んだのは浩瀚。ハッと顔を跳ね上げて、慌てて陽子の手首を離した。
「――主上」
口にしてしまったことの重大さに男は気づく。
「違います！」
彼らしくなく、叫ぶ。陽子が驚いたように男を見た。
浩瀚は陽子の涙に気づき、動揺する。
「似合っています……とても」
「うそだ」
嘘だ、と陽子は浩瀚を睨んだ。
「似合わないって言ったじゃないか！」
「とても似合っています！ ――悔しいくらいに」
ただの、とつぶやき、浩瀚は陽子の二の腕を掴み、肩に額を当てる。
「ただの……醜い嫉妬です。その香り……。延王君にいただいた香木がどういう種類のものかは聞かずともわかります。最高級の――」
自分では手に入れることは適わない――。
「ただの……男の嫉妬です」
「……」
陽子は浩瀚の胸に手を当てる。無性にこの男を抱きしめたいと思った。だが、浩瀚に二の腕を掴まれていてそれも出来ない。
「浩瀚」
「すみません。本当に、主上にはお似合いの香りです」
「浩瀚」
こうしている今も、引き込まれるような、心地よい匂いを放っている。
「浩瀚、
離して」
「……」
浩瀚は顔をあげ、身を離す。そのまま、一歩下がった。
陽子は男を真っ直ぐに見つめる。軽く首をかしげて浩瀚を見た。その表情は真剣だ。
「私は浩瀚以外の男の人に貰ったものをつけたらいけないのか？」
「いいえ」
あなたは王だ、と浩瀚は言う。、自嘲気味に少し笑って。
うん、と陽子も返した。それから、ちょっと考えるような仕草を見せる。視線を左右に彷徨わせ、何かに気づいたのか、少しだけ頬を紅潮させた。それが暗い室内でも浩瀚にははっきりと分かった。
「主上？」
「……あのな？」
陽子は俯き、唇を押える。
「主上」
「あのな」
陽子は浩瀚に近づき、男の胸に手を当てる。そのまま、男の肩口に頭を寄せた。
浩瀚が自然と陽子の腰を抱く。
「……主上？」
「……だから」
「は？」
「……だけだから」
「主上？」
「だから！ ――その」
「なんです？」
「……もう！ 他の男は私の身体を着飾ることが出来るけど」
陽子は男をにらみつけた。
「痕をつけることが出来るのはおまえだけだと言ってるんだっ」
かああ、と。陽子の身体が熱くなったのが、その身体を抱く浩瀚にも分かった。
「……ええと、それは」
涙目になって睨みつけてくる。
「ばか！」
「……ええ、莫迦です」
浩瀚がくっくと笑う。主を抱く腕に力がこもった。強く抱き寄せ、深紅の髪に顔を埋める。
自然と笑いがこみ上げてくる。
いつもそうだ――。
今まで抱いてきた卑屈な心が、彼女の言葉一つで綺麗に消え去ってしまう。
愛しい、と心から思った。
「――お許しを」
「うん」
「……本当に……」
「うん……、」
「お似合いです」
「……っ！」
陽子は顔をあげ、男の表情と言葉に真実を見つけて、嬉しそうに笑った。
「うん」
うん、と陽子は言う。
「浩瀚にそう言ってもらいたかったんだ」
浩瀚の静かな口付けを、陽子は受ける。
二人の口元には笑みが浮かんでいた。
了
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2002.01.15