リクエスト「延王×陽子」 塔子様へ。
『覚悟（かくご）』
会いたいとか。
そういう言葉を口にすることはできなくて。
ただ気持ちだけが膨らんでいく。
なぜこんなにも彼に会いたいのだろうと思う。
大きな存在。
隣国の王。
でも、陽子がいま会いたいのは 「王」 ではなく、たった一人の 「男」 だった。
「延王……」
つぶやきは雨の音に消されてしまう。
ずっと口にすることのない名。
それは戒め。
「延王……」
会いたい、と陽子は思う。
会わないと決めてからまだ三か月だ――。
たったの三か月だ。
どうして？
どうして彼なのだろう。
どうして、彼だけなのだろう。
こんなに悲しいのは。
こんなに愛しいのは。
こんなに辛いのは。
「延王……っ」
噛み締める唇。
流れる涙が頬を伝って、広げた書物をぬらした――そのとき。
――雨が止んだ。
つかの間の静寂。
陽子が顔をあげると、そこには雨でずぶ濡れになった男がいた。
ザアアアアアア……
雨は変わらない。
止んだと思ったのは、空気が変わったから――。
「延……王……」
信じられないものを見るような顔つきで、陽子は男を呼んだ。
「延……」
返ってきたのは延王独特の笑み。
陽子は椅子から立ち上がった。 ガタン、と椅子が倒れる。だが、そんな音さえも陽子の耳には入らなかった。震える声でもう一度男の名をつぶやき、陽子は後ずさる。
「あ――」
「――！」
倒れた椅子の脚に引っかかって、陽子の身体が倒れた。男が駆け寄り、陽子の腕を取る。
「大丈夫か」
体重を感じさせないような動きで、男は陽子の身体を引き上げた。
「陽子？」
勢いで男の腕の中におさまった陽子は、まだうまく反応できずに、ただ男の胸を押した。まるで逃げるように。
「陽子」
濡れた男の外套が水を飛ばす。男の髪から滴る水が、陽子の顔に降りかかった。
「陽子、逃げるな」
男は陽子の腕を引く。
「逃げるな」
祈るような――。
「逃げるな」
「逃げてなんか……」
陽子は首を横に振った。あいかわらず、男を見上げることはできない。目線を男の胸元に当てたまま――逃げていない、と陽子はつぶやいた。
「俺の名を呼んだ」
「呼んでない」
「延王、と」
「言ってない」
「会いたいと」
「言ってない！！」
陽子は涙を溢れさせて叫んだ。
「そんなこと、言ってない！ 言わなかった！ 言えなかった！ だって！！」
だって、言ってはいけないことだから――。
思っていても、決して口にしてはいけないことだったから。
「会えないって！ 会ったらだめだから！ 会ったら――！」
会ったら、貴方以外のことは考えられなくなるから――。
そう思ったから――。
会わないと決めたのに――。
「陽子」
男が噛み締めるように陽子の名をつぶやき、 肩を抱きしめるようにして引き寄せた。大きな腕は、小さな身体を簡単に捕らえる。
「陽子」
男の声は、抱きしめた陽子の頭上に降りかかる。男の唇が、赤い髪に触れ、吐息がかかる。
「陽子――」
陽子、と何度も男はその名を囁いた。そこには愛しさ以外の感情は込められていない。
「延、王……」
陽子は涙が止まらなくて、ただ男の名を口にすることしかできない。
「会いたかったの」
広い背中に腕を伸ばした。ギュッと抱きしめ、男の鼓動を聞く。雨に濡れて冷たいはずの身体は、なぜ、と思うほどに熱かった。
「会いたかったの――会いたかったの」
「ああ――俺もだ」
「私が――」
陽子は顔をあげる。
三か月ぶりに見る、男の顔。
「私が会わないって言ったのに――」
「ああ」
「会ったらだめだって思ったのに――」
「……ああ」
「会ったら――」
おかしくなると、そう思ったのに。
実際は、会えないほうが、男が気になって仕方がなくなってしまったのだ。
最初の一か月。そして、二か月。今までは、六か月、一年と会うことがなくてもぜんぜん平気だったのに。
気にすることなどなかったのに。
会わないと決めてからは、毎日のように男を思うようになった。
その姿、その声、その存在、その表情。すべてを思うたびに胸が引き裂かれるように苦しくなった。
だから、ますます会ってはだめだと思ったのだ。
会えば、きっと男のことしか考えられなくなる――。
私は、慶国の王なのに――。
だから陽子は「会わない」と彼に告げたのだ。そんなことに延王が納得するはずがないことは分かっていた。
それでも。
これ以上、会い続けていれば、いつか国を傾けてしまう。
慶を――。
雁国を――。
自分たちが治める国は大きく、互いに行き来するのには遠すぎる。
むしろ、隣国であっても、王族同士が会うことはないのが当たり前の世界だ。外交は秋官長が主に行い、王はその報告を受け、指示を出すだけでいいのだ。
だから、このまま会うのはよそう、と言った。
会いたくない、と男に言ったのだ。
でも――。
「陽子」
男が自分の名を口にする。その声を聞いただけで身体が喜びに震えた。
背中がきしむほど強く抱きしめられたが、痛いとは思わなかった。むしろ、その強さが心地いい。
「ああ……っ」
開いた唇から漏れる声は、まるで自分の声とは思えないほど甘美に満ちていた。男の腕が緩み、陽子を解放する。
翠の瞳が真っ直ぐに男を見上げた。
交わす視線。
混じる意思。お互いに何かを確認するように――。
陽子は感情の高ぶりを押えることができない。溢れる涙。
「延王……」
自分の頬に当てられた男の手にもたれた。大きく、硬い皮膚。太い指。
「延王……延王……っ」
そのすべてが好きだった。
男はゆっくりと身を落とし、陽子の開いた唇に己のそれを重ねた。
「……っぁ」
男の口付けを陽子は拒まなかった。
「延……ぉ……っ」
「陽子……会いたかった」
陽子の両頬を大きな手で包み込み、失われたものを取り戻すかのように夢中に貪る。
混ざる吐息。
漏れる喘ぎ。
絡まる舌。
雨の音にかき消されるように――だが、二人の耳には確かに響く、互いの鼓動。
「おまえが欲しい」
「……」
「陽子。おまえが欲しい」
顔を離し、涙で濡れる目元に男は口付けた。涙を舌で拭い、何度も何度も角度を変えて顔中に口付ける。先ほどの口付けとは違い、あくまでも陽子の反応を待つように優しい。触るだけの口付け。
陽子が男の背をギュッと握ったのが分かった。その手が震えていることも。戸惑いに震えていることも。
男は腕のなかの少女を優しく抱きしめ、ただひたすら陽子の応えを待った――。
「延王……」
陽子が囁く。
男は、陽子の髪に顔を埋めた。
本当は、陽子が嫌がるなら無理矢理にでも抱くつもりだった。彼女が叫ぼうが、嫌がろうが、そんなことは気にせず、自分だけの欲望を満たすつもりだった。
そのつもりでここに来た。
でも。
ここに来て、そこで初めて聞いた彼女の言葉が自分の名だったのだ。
顔を覆い、涙を流し、何度も自分の名を呼ぶ。
なぜそんなに切ない声で呼ぶのかと、延王のほうが戸惑うほどに。
延王、と名を呼ぶたびに「会いたい」と言っているように聞こえた。
会いたくない、と。陽子の理不尽な言いように従っていたが、彼女が恐れたものが彼にはわからなかったのだ。
抱いたのがいけなかったのか。
身体を重ねたのがいけなかったのか――。
互いの了解を得ての行為だったはずなのに、それからの陽子は明らかに抱く前とは様子が違っていた。
延王を避ける。
目が。
身体が。
それなのに感じる視線。
感じる意識。
そして、言われた言葉。
「もう、会うのはやめましょう」
納得ができるはずがなかった。
だが、延王が伸ばした指を、びくりと怯えたように陽子が拒否したから――。
そうか、としか男には言えなかったのだ。
嫌われたか、と。自分からそむけた顔に微苦笑を投げかけるしかなかったのだ。
それから三か月。
男は陽子を忘れた。――忘れようとしたのだ。
だが、抱く女はすべて赤髪の娘だった。もしくは、緑の瞳――。
そして、口から出る名は「陽子」――。
女たちがその激しさに悲鳴を上げたが、逃げることも許さなかった。女たちが壊れるほど強く、時に強引に抱き、許しを請えば請うほど支配した。それでも欲望はおさまらない。
彼女でなければ――。
陽子でなければ、どんなにいい身体の女を抱いても満足しなかったのだ。
女たちの悲鳴が耳に残る。
「そんなに陽子って女が抱きたければ抱けばいいじゃないか！ あたしたちをだしにするのはやめておくれ！」
「その女がどんなにいい身体をしているのかなんて、あたしたちには関係ないことさ！ その女が抱きたければ無理矢理にでも抱くんだね！」
違う、と延王はつぶやく。
決して豊満な身体じゃない。胸はあるが、引き締まった身体より、もうすこしふくよかなほうが好みだ。
情事の技術も未熟。何をするのかも、すればいいのかも分からない。ただ、男のされるがままに、ただ喘ぐだけ。
それでも。
それでも、彼女がよかったのだ。
満たされない。
彼女でなければ、満たされない。
今まで、ただの欲望の吐けとして行ってきた行為。
だが、 「女」 を欲したことはあっても、 「個人」 を欲したことは一度としてなかったのだ。
この思いに理由などいらない。
理由をつけようとは思わない。
答えはひとつしかない。それだけ分かっていれば十分だった。
「陽子……」
男は囁く。
「おまえを抱きたい」
ビク、と揺れた肩を男は抱きしめる。そして、 思いの丈を込めて囁く。
「陽子を抱きたい。おまえだけが――」
欲しい、と。
「延王……」
「俺は斃れない」
「延……」
陽子が目を見開く。
「誰を愛そうと、決して斃れん」
――ああ、と陽子は思った。
男から聞きたかった言葉はそれなのだ。
二人が愛し合っても、斃れない。
陽子が恐れていたのはそれだから。
それだけだから――。
「不満か、陽子。――不満か？」
陽子は首を横に振った。
漏れる笑み。
「私も斃れません……」
心からの笑み。
押し込めていた感情が、許しを得て解き放たれる。
「斃れません」
嬉しさに涙が溢れた。
翠の宝玉から流れる涙が止まらない。
「私も……」
陽子は男の頬に手を伸ばした。
「私も……貴方が、欲しい」
貴方だけが欲しい。
ずっと、欲しかった、と。
互いの唇が触れて囁いた。
了
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2006.01.14