リクエスト「浩瀚×陽子」 ナオさんへ
『褒美（ほうび）』
「……主上？」
浩瀚は軽く首をかしげた。右手に持った昼餉の盆を寝台の横にある卓に置く。
熱発し、倒れる寸前の女王を無理矢理休ませたのは昨日のこと。今朝にはもう熱も引き、意識もハッキリしているという報告を受けていたのだが。
「主上……？」
その主の姿が見当たらない。
左手に持っていた書類の束も同様に置いて、軽く耳を澄ます。もともと書類を陽子の元へ届けるはずだったのだが、途中で昼餉を運ぶ鈴と出会い、ついでに運ぶと申し出たのだ。
陽子を見ても驚かないでくださいね――と、くすくすと笑いをもらしていた鈴が気になるけれど、まさかこの彼女がいない状況に驚け、という意味ではないだろう。
金波宮はいま他国の賓客――それも二カ国も迎えて、猫の手どころかネズミの手も借りたい状態となっているのだ。本来、陽子直属である鈴までが外殿へ借り出されるほど忙しい。
ちなみに祥瓊は範国専属のようなものになってしまっていた。その分、範国側に人を割かずにすむので助かってはいるが……。
浩瀚は軽く眉をひそめた。
そう――。問題は、その範国の主従だ。
雁国主従の来訪は最初から予定にあったのだが、範国主従は突然の来訪だった。もちろん先触れはあった――来訪の一時間ほど前に。もともと雁国に寄っていたらしく、そこの主従に同伴してきたのだ。……延帝の言い方をすれば「引っ付いてきた」のだった。
範国と縁がないとはいわないが、どうして十二国の対にある国の主従が、こうも頻繁にこの国に訪れるのだろう――と金波宮の誰もが思う。もちろん、その理由は痛いほどよくわかっているのだが。
遊びにきた、と堂々と言うのだ。どこの国の主従もそろって「遊びにきた」と当たり前のように……もちろん慶国側も、彼等の来訪を、普段、働きすぎの女王を休ませる絶好の機会と捉えているが、ひとつどころに国王や台輔が複数集まるというのことが、今までの常識からかなり外れた事態であることは確かだった。
部屋に入る前に声をかけたが応えはなく、まだ寝ているのか、と部屋に入ったのだが――。
「主上……？」
寝台に横になっているはずの主の姿はなく。
憚りだろうか、と思うと下手に探すのも気が引ける。
だが――。
「……ここ」
寝台の奥から――つまり、床から声がしたのだった。
「主上！？」
慌てて寝台を回り込めば、なんと赤髪を乱した少女が、布団に丸まったまま寝台から転げ落ちている――そうとしか思えない状況だった。
「――主上……。なにを……」
「落ちた」
「それは見ればわかります」
「落ちて……気持ちがいいから寝てた……」
「……」
布団に丸まって、顔だけ出し、手も足も動かせない状況になっている。――こんな姿を臣下が見たらどう思うだろうか……。
じっと見つめていると、深い緑の瞳が「起こして」と訴えてくる。
浩瀚は溜め息をついて、腰をおろす。陽子の額にそっと手を当てた後、陽子の身体を布団ごと抱き上げた。
「よっ」
持ち上げた後、そのまま寝台に下ろせばいいものを、浩瀚は陽子を抱きなおす。その姿はお子様だっこ。
「重いか？」
陽子が首を傾げた。その声色に羞恥心を嗅ぎ取って浩瀚は笑う。
「ええ――とても」
――彼女以上に自分の中で重い者などいない。
「とても重いですね」
「あ――あのな」
冗談だとわかってはいるが、さすがに陽子も返す言葉がない。
「浩瀚には極刑を申し付ける」
「そのご意見には承服しかねます」
「極刑極刑！ そういうときにはうそでも『軽い』って言うものなの！」
「肝に銘じておきます」
さらりと答える浩瀚が憎らしくて、陽子は顎を浩瀚の頭の上に乗せた。そのまま顎をもごもごと動かして浩瀚を笑わせる。ひとしきり笑わせると、陽子は顔を横にして、浩瀚の頭に頬をつけた。
「なんだか、おなかがすいているんだが」
「丸一日食べていないのですから当たり前です」
「そんなに寝てたか？」
「そんなに寝ていらっしゃいました」
「ふむ」
「主上、おろしますよ」
「ん」
陽子を寝台に下ろすと、浩瀚は布団のはしを持って陽子を転がした。くるくると回ってごろんと現れた少女は大きく背伸びをした。着ているものは蓬莱風の寝間着だ。ぱじゃま、というのだと浩瀚は陽子に教わっている。
「んーー！！ 気持ちいい！！」
「それは良かった」
熱で朦朧としている陽子を、朝議の最中に無理矢理下がらせた浩瀚は内心でホッとする。
「ちょうどお食事が出来ていますよ。召し上がりますか」
「うん」
陽子は髪の毛を手櫛で治すと、寝台の横にある盆をとり、ヒザの上に載せた。
「鈴は？」
「出ております」
「そっか。じゃあこれは冢宰殿が自ら運んでくれたのかな？」
「僭越ながら」
「うむ。褒美を取らせよう」
陽子は気取ったように言う。
くすり、と浩瀚が笑った。
「褒美、ですか」
「ん。何でもいいよ」
「それでは、今日一日、ここにいてください」
「……？」
陽子はきょとんとする。
「キス、とかじゃなくて？」
「――」
「あ！ いや、その……」
かああ、と顔を赤くした陽子は、なんでもない、と。もごもごとつぶやく。羞恥心に身体が熱い。その頬に浩瀚は手を伸ばした。頬を包むように当てた手に、ますます真っ赤になった陽子はギュッと目をつむった。
「主上」
囁くような、浩瀚の美声。陽子はますます顔をあげられない。
「なんでもない！ 忘れてくれ。――浩瀚、いつもだったら、そう言うから――」
浩瀚は微笑む。
「残念ながら――」
浩瀚は身を落とす。
陽子の頬に手を当てた反対側に顔を寄せて、その耳にそっと囁いた。
「慶国の冢宰は頭がいいので、一度言われたことは忘れることが出来ないんですよ」
「でも忘れて――」
「忘れません」
浩瀚は陽子の耳の下に口付けた。
そっと――唇の先が触れるくらいの口付け。
柔らかい産毛が唇に触れる。――その感触を楽しむかのような浩瀚の口付けに、陽子の身体は震えて言葉が出ない。
いや――言葉は出るのだ。意味のない言葉が――。
「こ――浩瀚っ」
「口のほうがいいですか？」
「そ……そういうことじゃなくて――！ だ――だめだってば！ ――っ！」
ガチャン、と膝の上に載せた食器が鳴る。
顔を離した浩瀚が、そっと盆を持ち上げた。
「ああ――こぼれてしまいましたね」
「浩瀚……っ！」
首元を押えた陽子が、真っ赤になって浩瀚をにらみつける。
「明日になれば消えていますよ」
それはつまり、今日は人前に出るな、と。
「この――策士がっ」
「計画的犯行、とでも申しましょうか。そうそう、言い忘れていましたが、雁国と範国の両主従が見えておいでです」
さらりと言われて、陽子は瞬いた。え？ と目を丸くした次の瞬間、陽子は叫んだ。
「浩瀚！！」
「昨日の朝議でお知らせいたしましたが」
「覚えてない！！」
熱でふらふらだったのだ。覚えているはずがない。
「そうじゃないかと思っておりました」
にっこりと浩瀚が笑う。
「でも、それとこれとは別。私への褒美、忘れないでくださいませ」
「今、しただろう！」
「最初に申し上げておきますが、あれは褒美ではありません」
「なに！？」
浩瀚は笑う。それはそれは優雅に。
「据え膳ですから」
さらりと――。
「――！！」
紅潮した顔にさらに朱を走らせ、陽子は赤く色づいた首もとの花びらを押えた。
「極刑！！」
「承服いたしかねます」
浩瀚は何事もなかったかのように椅子に座る。持ってきた書類を読み始めた。
その日、慶国では他国の賓客を迎えているにも関わらず、景王は体調不良を理由に姿を見せることはなかった。
同じく、冢宰も多忙につき姿を見せなかったのだが、その本当の理由を知る者は少ない。
了
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2002.04.20