延王×陽子
『パラレル』
教室に入ると、人気のない教室に大柄の男の人がいて――。
「小松先生……？」
放課後の夕日はどうしてこんなに優しく教室を照らすのだろう。逆光になって見えなかった先生の顔がゆっくりと私の方に向いた。
先生の手が、教室に残してあった私の鞄に触れている。担任でも授業を受けているわけでもないので、先生はその鞄が誰のものかはわからない――はずだ。
その席が、私のものであることも――。
「ずいぶんと遅くまで残っているんだな」
「人を待っていて――。すみません、すぐに帰りますから」
私は先生から鞄を受け取った。
「誰と待ち合わせをしているんだ？ 大木か？ ……高里か」
父親とは違う男の人の匂いと力強さを感じて、胸がドキドキする。
そう――、彼と二人でいるときはいつもそうだ――。
でも、ここ久しく彼と二人きりになることはなかった。私が……意識して避けていたから――。
「……す、鈴です……」
どうしてここに高里君の名前が出るのだろう。
そうか、と先生は笑って、私の頭に手を伸ばした。頭をぐりぐりと撫でられて、そのまま急に引き寄せられた。
「先生……？」
先生の口は笑みを浮かべていて――。その視線が、教室の外に立っていた男子学生に向けられていることを私は知らない――。
「先生？」
「早く帰れよ」
先生が私の額に口付けた。
「はい……」
「六太が会いたがっている。また遊びに来てくれ」
「――はい……」
先生の弟である六太くんと出会ったのは、交通事故現場だった。彼が事故にあったのではなく、その事故を見て具合の悪くなった彼を、私が彼の家まで送って行ったのだ。
先生とは――そのときは彼が先生であることは知らなかったのだけれど――出会った。
もう、一年も前のことだ。
偶然、犬の散歩に出たときに、何度か彼と会うようになって――。
「学校では相変わらず『先生』だな、陽子ちゃん」
最初に出会ったときの呼び名で――。
かああ、と赤くなった私を先生は笑った。
「挨拶もしてくれん」
「だって、どう挨拶すればいいのか分からなくて……」
「尚隆さん、と呼んでくれないのか」
「だって――、先生だし」
「声もかけてくれない」
「だって――。……どういう話をすればいいのか分からなくて」
「だってだって……だってばかりだな」
くくくと先生は笑う。
「あのときの返事をまだ聞いていない――」
「だって……」
「だって？」
先生だったなんて、知らなかったから――。
告白された次の日に、まさか入学式で彼と会うとは思わなかったのだ。
からかわれた――そう思った。
だって、先生は知っていたのだ。私がこの学校に入るということを。
「返事は……気長に待つからって……」
「ああ……そういえば言ったな……」
それはしまった、と先生が苦笑する。
「すぐに聞いておけばよかった」
先生は机に腰をおろし、私の腕を引いて抱き寄せた。
「先生っ」
「今、返事をする気はないか」
「……今？」
どうしよう。胸が破裂しそうなくらいにどきどきしてしまっている。先生の広い胸に頬を当て、先生の呼吸さえも分かる――。
どうしよう――。
頭が混乱して、泣きたくなってしまう。
そのとき、廊下をパタパタとかけてくる音がした。鈴だ。
先生は微苦笑を漏らし、私を解放した。それでも、手を握って離さない。
「先生――鈴が……っ」
真っ直ぐな先生の目が、射るように私を見つめてきた。
私は、その目に怯えた。それは、教師ではなく、男の人の目だったから――。
足が自然と後ずさってしまう。
「先生――っ」
「来年の担任は俺だよ」
クスリと笑い、先生は手を放した。
ガラ――と教室の扉が開き、鈴が「ごめーん！！」と叫んだ。
「陽子！ ごめん！ 遠甫がなかなか――」
鈴は、教室にいる小松先生に「キャア！」と叫んだ。
先生はおかしそうに笑って、私に「気をつけて帰れよ」と言い、鈴の頭をぐちゃぐちゃとかき回して教室を出て行く。
鈴が私に駆け寄ってくる。
「陽子、ごめんね、怒られなかった？」
「ううん……大丈夫……」
「陽子……？」
鈴が首をかしげた。
「陽子？」
私は、鈴が教室に入る寸前に彼がした行為を思い出して――。
口を押えて真っ赤になった。
了
2002.06.29