慶国異聞
『巡り（めぐり）』
初夏の風は慶国にも新しい夏を知らせる。
新王登極からはじめての夏を迎えようとしていた。
「柳国に行かないか」
そう、耳慣れた男の声で鳥が鳴いた。いや、鳴くというのは語弊があるかもしれない。真実、その鳥は人の言葉を話すのだ。
「延王……」
陽子は驚いたようにその鳥を見つめた。
人との連絡が取れる鳥は二種類いる。文書を運ぶ青鳥、そして言葉を運ぶ鸞――。人語を記憶して語るその鳥は後者。
だが、陽子が驚いたのは、出てくる声が友達のものだとばかり思っていたからだ。
その鸞は、慶国王宮で飼われている鳥だったから。
「柳国へ行かないか」
陽子の驚いている姿が目にとって分かるかのように、少し笑いを含んだ口調で男は言った。
陽子は、その後に続く楽俊の慌てたような声と延麒六太の賑やかな――おそらく、銀の粒を三人が与えたのだろう――鳥の声を聞きながら、静かにつぶやいた。
「柳国……？」
和州の乱が終わり四ヶ月が経とうとしている。
六月の終わり。
「どうぞ、言ってらっしゃいませ」
そう言ったのは、冢宰浩瀚。
「いいのか？」
陽子が軽く目を見開くと、ちらり、と浩瀚は笑った。
「ええ、どうぞ」
「浩瀚」
軽く叱咤したのは宰輔景麒。渋い顔で眉を寄せる景麒に冢宰は笑った。
「台輔、主上に休みが必要なことは明らかだと思われますが」
「だからといって、延王と」
「延王だから安心なのでしょう」
「……」
「芳国へ桓タイを送り、祥瓊も恭国へと向かいます。主上の周囲に人がいなくなる今だからこそ、主上には安全な所へいていただいたほうがよろしい」
官吏の大きな移動があったのは四月も前のこと。だが、引継ぎやら引越しやらで、ようやく官吏が落ち着いたのがちょうど今時分なのだった。正直、冢宰も六官長も今が一番忙しい。
機動力のある軍は先にすべての移動を終えて落ち着いているが、陽子の周囲を固める護衛に関してはまだまだ指導することが多い。陽子のいないうちに徹底的に扱く必要があった。
「分かった」
陽子が笑う。
「私はいない方がいいわけだな？ いまは」
「今は」
さらりと返してきた男に、陽子は破顔する。くくく、と笑った。
「わかった。返事をしてくる」
楽しそうな足取りの陽子を見送る景麒が溜め息をついた。
「浩瀚……」
「はい？」
なんです、と浩瀚は首をかしげた。景麒の恨みを含んだ視線に動揺することなく、彼は優しく目を細める。
「主上が心配ですか」
朝議で使った大量の資料と書類を集めて抱く。
「台輔……？」
「私が言っている心配というのは……」
「存じておりますとも」
くすり、と浩瀚は笑う。
「ですが、主上は自覚のないご様子。延王とて無体なことはなさるまい。それに……」
「……それに？」
「延王君もまた、主上のことは女性として見ていらっしゃらないのでは？」
「どういうことか」
「主上の話を聞いていますと、かなり気に入られているご様子ですが、異性としてではなく、同じ王として――胎果としてであるように感じます」
「同じ……胎果として」
「はい。気に入られる、ということそれ自体は慶国にとって良いことかと」
「そうか……」
静かにうなずいた景麒は、小さな溜め息をもらした。頭の中では分かっていても、やっぱり納得はできない。
そんな気配が分かったのだろう。
「そうですね」
くすり、と少し意地の悪い笑みを浩瀚は浮かべた。
「いつ二人が互いを異性であることに気づくのか、それも楽しみですね」
びく、と目を見開いた景麒に、浩瀚は笑う。
「冗談ですよ、台輔」
にこにこにこ。
「……」
冗談になってない、と景麒は血の気を失いながら脳裏でつぶやいた。そして気づくのだ。自分が浩瀚にからかわれていることに。
「浩瀚は意地が悪い」
くすり、と浩瀚は笑う。おそらく、慶国の麒麟に向かってここまで優しく笑える者はそういないだろう。
「台輔があまりにも可愛らしいので、つい、からかいたくなってしまうようです」
「浩瀚……」
「冗談です」
にっこり。
景麒はそれ以上なにも言わずに、小さな溜め息をついた。
やっぱりからかわれている……。
了
2002.08.22