戴国異聞
『氷炎（ひょうえん）』
北の戴国、そこは氷と雪の世界だ。
その中にあって、まったく逆の二つ名をもつ将軍がいた。
炎の中の氷。
氷の中の炎。
それを聞いた者は、その姿を見て納得する。
氷のような髪。
炎のような瞳。
だが、その名を思い知るのは、将軍とともに戦い、また敵対した者たち。
容貌ではなく。
その気性。
その真実を知る者たちの視線は、今、たったひとりの男に向かっていた。
「正頼――」
名を呼ばれ、正頼は心が震えるのを感じた。声に笑みがまじっていることを、彼は敏感に感じ取る。
暖かい笑み。
冷めた笑み。
今はどちらだ――。彼は冷静に見定める。
凍えた地上。
白い世界。
王である彼は世界を翠の大地に変えるだろう。それとも、血の赤に染めるのか――。
それが避けられぬ定めというのなら、どこまでも付き従うつもりでいる。出会ったときに、惹かれたのはその存在ゆえに、どこまでも信じ続けると正頼は心に誓っていた。
出会ったときの――心が揺さぶられたあの一瞬を、正頼が忘れることはないから。
惹かれた心が彼のそれであり続ける限り、どこまでも付き従おう――。
正頼は、主の視線を追って麒麟旗を見上げた。
「正頼――」
もう一度、名を呼ばれた。
正頼は震える手を握り、一歩前に足を進めた。
「蓬山へ」
正頼の声に、返ってきたのは笑み――。
「ああ――」
振り返った男の力強い目は、つかみに行こう、と語っていた。何を、とは言わない。
王であると、決まっているわけではない。
誰もが王にと望みながら、王になれなかった者は歴史上に数え切れない。
王になろうと臨む男も、知らず知らずのうちに震えていた。それは気負いだったのかもしれないし、武者震いだったのかもしれない。
正頼は笑う。彼は、男の中にすでに「王」を見ていた。戴国の民は、麒麟よりも早く「王」を見つけているのだ。
正頼は肩を竦めて目を細めた。
「黄海で命を落とすなんて恥ずかしい死に方だけはやめてくださいね」
周囲の者たちがギョッとしたように正頼を見た。
男も瞬く。
「それはびっくりだな」
「ええ、びっくり仰天ですよ」
「では、気をつけて行って来るとしよう」
「そうしてください」
「ははは」
男が笑う。――笑って、男から肩の力が抜けた。
それが、どんなにすごいことであるのかを、正頼は知っているのか――。男は心から笑い、すれ違い様、正頼の肩に手を置いた。
「行ってくる」
男に付き従い、他の者たちが続く。
正頼はそれを見送り、麒麟旗を見上げた。
「なぜ１０年もかかった――」
つぶやきに答える声はない。
ただあるのは不安。
漠然とした不安。
しばらくして、驍宗の出立とともに第二の歓声があがった。
戴国に王が戻るのは、まだ先のこと。だが、誰もが知っている。驍宗が王であることを。
驍宗の出立は、王の誕生を意味することを。
正頼は踵を返した。それに並び、琅燦も続く。残ったほかの官吏も。
彼らがしなければいけないことは、王を待つことではない。国府を動かすための本格的な準備をしなければいけないのだ。それには、あと一月しかない――。
「氷がとけて――やっと大地が見えるようになるな」
琅燦のつぶやきに、正頼は静かな笑みをもらした。
「炎に焼けて――大地が黒焦げになるかもしれませんよ」
少女の眉が上がる。
「正頼の予言は不吉なんだよ」
「そうですか？」
「無自覚だからタチが悪い」
「琅燦は知らないのですね。焼けた大地は温まり、よく作物が育つということを」
「聞いたことがない」
「草がよくはえるように、冬、野の枯れ草を焼くことを野焼きというんですよ」
「知らんと言うに」
「そんなことじゃ良い地官にはなれませんよ」
「地官になどならん」
「では冬官しか残っていないじゃないですか。ちなみにこれも予言です」
「言ってろ」
「あ、待ってくださいよ、琅燦！」
官吏たちの心地よい笑いが響き、戴国の空が麒麟旗の色に染まる。
未来の、雪どけを信じる笑い声が響いた日。
戴国の新しい歴史が動いた。
了
2003.01.14