リクエスト「浩瀚×陽子」 すいま様へ。
『爪（つめ）』
カァン――。
金波宮の中庭に剣戟の音が響く。
政務の最中、普通、休憩といえばお茶を飲んだり腕を休ませたりするものだが、慶国の王は通りかかった禁軍左将軍を相手に剣を振るうのだった。ストレス解消、肩の凝りが良くほぐれる、と打ち合ったあとの陽子の表情は明るく、いまやそれを止める者はいなかった。
使うのは、鉄を仕込んで通常の剣と重さを同じくした木刀。受ける面によって鉄の音がしたり木の音がしたりする。いつもなら何合か続く打ち合いが、今日は三合といかないうちにすぐに止み、浩瀚は顔をあげた。
「主上――？」
桓タイの上段からの振り下ろしを受けた陽子が、短い悲鳴をあげて剣を手放したのだ。
「主上！？」
桓タイの慌てた声に、浩瀚は立ち上がった。
「どうした――」
浩瀚が慌てて外へ出れば、陽子が手を押さえてうずくまっている。通常ならば小手を受けたのだろう、と思うところだが。
桓タイが浩瀚と陽子との間で視線を動かす。彼にも何が起こったのかよくわからずに動揺している。
浩瀚はかすかな血の匂いに眉をひそめた。
「怪我を――」
「え！」
驚いたのは桓タイ。もちろん、相手は大事な王とはいえ真剣勝負、ときには主さえも地に転がすこともあるが――。
「違う違う」
否定したのは陽子だった。笑みを浮かべようとするが、その目が苦痛に歪んでいる。
「ちょっと爪を割ったんだ。ごめんね、桓タイ。驚かせてしまった」
「いえ、俺は、別に」
「主上、手当てをしましょう。こちらへ」
浩瀚が陽子の二の腕を取る。だが、陽子は首を横に振った。
「いい、桓タイにやってもらう。――桓タイ」
「は、はい」
桓タイは浩瀚を気にしつつも、陽子の求めに応じて身体を助け起こす。
陽子は、一度も浩瀚を見ようとはしなかった。
「どうしたんです、喧嘩でもしましたか」
隣を歩く陽子は明らかに沈んでいて、桓タイは苦笑をもらす。浩瀚さまにあんな表情をさせるなんてこの人だけだろうな、と楽しく思いながら。
「主上？」
「……爪が……」
「爪が痛いのですか？」
「……違う。そうじゃなくて……」
言いかけるが、陽子は再びだんまりを決め込んでしまう。桓タイは微苦笑をもらした。そして、あることに気づく。
「爪を伸ばしているのですか？」
「えっ」
「いつもより長いですね」
「……」
陽子は立ち止まった。
「桓タイ」
「はい」
「……桓タイは爪が綺麗な女の人は好きか？」
「はあ？」
突然なにを、と桓タイは目を丸くする。
「そりゃあ、汚いより清潔なほうがいいと思いますが」
「じゃなくて、だから、爪を伸ばして、色をつけて……」
「ああ、主上も伸ばして綺麗にしたいのですね」
「違うっ」
「は？」
「違うんだけど……でも、その……」
「俺は別にどちらでもいいと思いますが……剣を持つには危険だから止めたほうがいいと思いますよ」
「……うん」
陽子は素直に頷いた。実際に柄を強く握れないし、柄を持ちかえるときに爪を引っ掛けてしまう。それに剣を持つ右手よりも、地に手をついたりする左手のほうが危なかった。今の怪我も、桓タイの剣を受けた重さに柄が持ち上がって爪を弾いてしまったわけで。
「何か思うところでも？」
「……浩瀚に聞いたんだ。爪の長い人をどう思うって」
「……それで？」
「私も伸ばしたいのかって聞くから……」
「……聞くから？」
「ただ、聞いてみただけって言ったんだけど」
「はあ」
陽子はなかなか言葉を進めない。相槌を打ちながら、桓タイは陽子の言葉を上手く引き出す。
「それで、浩瀚さまはなんと？」
「痛いから出来れば伸ばして欲しくないって」
陽子の頬が紅潮する。声に苛立ちが混じっていた。
桓タイは瞬いた。
「はあ」
その答えにどうして陽子が不満を抱くのかが桓タイにはわからない。
「その通りになりましたね」
「違うっ！」
「は？」
「もういい」
「……は？」
「桓タイに聞いたのがまちがいだった。じゃあね」
老師の屋敷前にくると、陽子は怒ったように歩いていく。
「あ。陽子っ、どうしたの？」
「桂桂、鈴はいるか？」
「いるよ！ すーずーーー！！ 陽子が呼んでるーーー！！」
中から聞こえるにぎやかな声を聞きながら、桓タイは軽く首をかしげ、こめかみを掻いた。
「浩瀚さまに聞いても……言わないだろうなあ」
はあ、と桓タイは溜め息をついた。どちらにしろ、戻って浩瀚に報告しなければならない。
「……」
桓タイは、もう一度溜め息をついた。
「陽子、怪我したって本当なの！？」
慌てて駆け込んできた祥瓊を迎えた陽子は、元気に笑う。
「本当。でも、そんなに真っ青になるような怪我じゃないよ」
「だって……！」
祥瓊がちょうどお茶の用意をしに行っている間に陽子が怪我をしたと言われ――。
「浩瀚さまが……」
「浩瀚が？」
「いえ……」
祥瓊は首を振る。浩瀚が深く考え込むような表情をしていたので、てっきり深い傷でも負ったのかと思ったのだ。そういえば、どういう理由で怪我をしたのかということまで聞かずに飛び出してしまった。
「それで、怪我はどうなの」
「爪がはがれただけ」
「そう、爪が……」
陽子！ と祥瓊が悲鳴のように叫ぶ。
「もっと叱ってやって、祥瓊」
陽子の指先に包帯を巻く鈴が陽子を睨んだ。
「ちょっと怪我をした、って言うから見せてって言ったら、押さえた手を離したとたんに血はダバーって垂れるし、思わずギャアよ」
「碧双珠を――」
「だめ」
言ったのは鈴だ。
「こういう痛みは覚えていなくちゃ。それでなくても、陽子はすぐに無理しちゃうんだから」
「でも……」
困った表情の祥瓊に、陽子は笑う。
「そういうこと」
「……大丈夫なの？」
「うん。心配かけてごめん」
祥瓊は首を振る。
「着替え、用意するわね」
陽子が着ている服の袖と胸元は血で汚れている。
「それにしても、爪をはがすなんて……」
「爪を伸ばしていたから……」
「爪を？」
祥瓊が瞬く。きょとん、とした表情になった。
「伸ばすの？」
幻聴？ という物言い。
鈴がくすくすと笑う。
「ほらね」
「……」
鈴にも同じことを聞かれた陽子が、気まずそうに言いよどむ。
「似合わないか？」
「いいえ！ そういうことじゃないわよ」
祥瓊が目を細めて笑んだ。
「私としてはおしゃれが出来るし、とてもうれしいわ。でも、いままで陽子は爪を短くしていたでしょう？ どういう心境の変化なのかしらって」
「……」
「桂桂、これを水につけてきてくれる？」
「うん、わかった」
渡された上着を持って走り去る桂桂を目で追って、祥瓊と鈴の視線が陽子に集まる。二人は声を揃えて言った。
「浩瀚さまに何か言われたの？」
「え！」
陽子の頬に朱が走る。
「なんで――」
「だって……」
それしかないでしょう、とは二人とも口にせず。暗黙の了解で「今は聞かずにおこう」と視線で頷いた。
「それにしても……」
祥瓊がくすくすと笑う。
「また台輔がお怒りでしょうね」
「そうね」
鈴までがくすくすと笑う。
陽子は首をかしげた。
「なんで？」
「あら、想像がつかない？ きっとこうおっしゃるわよ」
「主上は私を避けるために怪我するのですか」
景麒の言葉を聞いて、陽子は目を丸くするなり「ぷぷ」と噴き出した。
「主上」
咎めるような厳しい景麒の視線に、陽子は片手をあげて「ゴメンゴメン」と謝る。
「ああ、違うんだ。祥瓊と鈴が、景麒はそう言うだろうって言葉を本当に言うから」
憮然とした表情で景麒は祥瓊を睨む。
「景麒、とりあえず、お前を避けるために怪我をするわけじゃないから安心してくれ」
「とりあえず？」
「――景麒」
「……わかりました。と、り、あ、え、ず、本日は下がらせていただきます」
嫌みったらしい景麒の言い方に陽子は苦笑する。
「すまないな」
「いいえ。御身お大事に」
「うん。ごめん」
下官を引き連れていく景麒の後姿を見送って、陽子は溜め息をついて机に突っ伏した。
「景麒は経験値を上げた、景麒はイヤミを覚えた、って感じだな……」
「経験値？」
なんのこと、と首をかしげる祥瓊の問いには答えず、陽子はそのままの姿で目を瞑る。
「あとどれくらいで終わる？」
「そうね、今日の分は終わっているけど……・今日はもう止めましょうか。まだ痛むでしょう」
「……うん」
陽子は正直に頷く。
「陽子、今日の夕餉はどうするの？ 浩瀚さまとご一緒するのでしょう」
「……」
「お断わりする？」
「……」
陽子は答えない。祥瓊は声には出さずに苦笑して、文箱を手に立ち上がった。そして――。
にっこりと笑んだ。
「それじゃあ、しっかりね、陽子」
やけに明るい声に、陽子はぶすったれる。
「しっかりってなにー」
「そこで寝ていないで、しっかり歩いていって頂戴、ってこと。わかった？」
「……はーい」
祥瓊と鈴の質問に答えなかったのは陽子自身だ。二人が助言してくれないのは当たり前のこと。
じくじくじく、と右手の薬指が痛む。
静まり返った執務室で、陽子は小さな溜め息をついた。
「浩瀚のばか」
「ばか、とは聞き捨てなりませんね」
「――！」
突然聞こえた浩瀚の声に、陽子は飛び跳ねるように身を起こした。
「浩瀚――！」
誰もいないはずの部屋。
「なんで――」
「もしかすると、そこで眠ったままではないかと思いましたので、お迎えに」
「……」
聞いていたな、と陽子は浩瀚を睨む。
「怪我はどうですか」
「……重症。すごく痛い」
浩瀚が、一瞬だけ言葉を飲む。だが、すぐにいつものように笑んだ。
「それはたいへんですね」
「ぜんぜん大変そうって声じゃない」
「早く治る良い呪いを知っていますよ」
「……なに」
浩瀚は陽子に近づくと、書卓を回り、身をかがめて陽子の右手をそっと持ち上げる。そして、ほんの少し触れるか触れないかの口づけを包帯の上に落とした。
「浩っ」
とっさに手を引いた陽子は、右手を抱える。
右手が熱い。いや、顔全体が。
「爪を伸ばすのはなぜですか」
真剣な目。ごまかすことを許さない、浩瀚の視線とその声に、陽子は喉が震えた。
「……伸ばしたいから」
「答えになってませんよ」
浩瀚の迫力に負けて後ずさりした陽子は、椅子に座り込んでしまう。浩瀚を完全に見上げる姿勢になり、しかも逃げられない。
「浩瀚……」
声が震えた。
「私は主上の爪が好きだと申し上げました。ご不満でしたか」
「……」
「それとも嘘だと？」
「……」
陽子は泣きそうになる。だが、陽子は浩瀚を睨むことで涙を堪えた。悔しくて、泣きたくなどなかった。
絶対に。
「痛いからいやだって言った……」
「ええ、言いました。痛いと思うので出来れば伸ばして欲しくないと」
陽子は浩瀚を睨んだ。
あんな質問をなんでしてしまったのだろう、と陽子は思う。
「それって、経験があるからじゃないか！」
「……」
唸るように睨んでくる陽子に、浩瀚はゆっくりと息を吐いた。
「私に女性経験がないほうがよかったですか」
「ちがう！ いや、違わないけど、でも、そういうことじゃなくて！」
「あなたが初めてだったと言われたい？」
「違う！」
陽子は言いたいことが混乱して、ただ首を振る。
「ただ！ ただ、悔しくて」
悔しくて泣きたくないのに――。
「悔しくて」
陽子は両腕で目を――顔を覆う。
「……主上」
初めて、浩瀚の声に戸惑いが混じる。握り締めた陽子の右手、包帯に包まれたその先が赤くにじんでいた。
「主上――血が」
「だから、私が血を流してやるって思ったんだもん！」
「は？」
「浩瀚をたくさん傷つけて、血を流してやるって思った！」
「……爪を伸ばして、ですか」
「浩瀚の傷の上をすべて私が傷つけてやるって」
声が震えて、涙があふれる。
「前の傷も全部消してやるって」
「……」
浩瀚は大きく息を吸って――吐きながら笑みをもらしていた。
「主上」
笑いを、止めることが出来ない。それが、心の奥から沸いてくるものであったから。
「主上」
陽子の手首を取り、顔の前からどける。
「主上、それは無理です」
「なんで笑うっ」
「無理なんですよ。だって、傷はないんです」
陽子は浩瀚を睨む。
「仙だから」
「いいえ」
浩瀚は身をかがめ、陽子のまぶたに口づけた。
「主上だけ、だからです」
陽子には意味がわからない。
「どういう……」
「抱いて、腕や背に傷をつけられるほど深く抱くのは、主上だけだと申し上げております」
「……」
よくわからない。
「え……ええと、それは……向かい合って抱くのは私だけってこと？ みんな後背位だったのか？」
浩瀚が噴き出す。
「いえ――そうではありませんが」
くっくと笑う浩瀚は、堪えきれずに跪き、陽子の膝に顔をうずめた。
「浩瀚！」
「す、すみません」
浩瀚の笑いは止まらない。陽子は浩瀚を叩いてやりたいと思うが、両手をつかまれていてそれも出来ない。ただ膝の上で顔を伏せ、肩を震わせて笑う浩瀚の後頭部を睨みつける。冠をつけていなかったら、団子をかじっているところだ。
真剣なのに！
「浩瀚っ！」
「はいはい――」
浩瀚は顔をあげる。口元を引き締めようと努力しているが、笑いたくて歪んでいた。
「何がおかしい！」
「ええと、そうですね。嬉しいから――でしょうか」
「わけがわからない！」
「ただの行為であって、相手を抱きしめるほどの思いも、強く抱き合うこともなかったということです」
「……それは優しく抱いてあげたってこと？」
「いいえ」
くっく、と浩瀚が笑う。
「あなた以上に優しく抱いたことのある人はいませんよ」
「……激しく抱いたのか？」
「あなた以上に激しく抱いた人もいません――そうではなく。……そうですね、ただの乱暴な行為でした」
そういうものだと、思っていた。
愛を知らず。
組み敷く相手は、ただの道具でしかなかった。
相手の意思も感じない。
意味のない。
むしろわずらわしいだけの――。
「軽蔑しますか」
「浩瀚……？」
「私を傷つけることが出来るのは、あなただけです」
真剣な声に、陽子の胸が高鳴った。その言葉が、嘘か冗談なのかはその目を見ればすぐにわかる。
「すべてが欲しいと思ったのは、あなただけだ」
貪るように、求める。
「あなただけが、私を傷つけられる」
身体の傷も。
心の傷も。
出会うことがなければ、すべて知ることのなかったもの。
出会ったことで、初めて得ることができたもの。
こんなに激しい思いが自分の中にあることも知らず。
浩瀚は陽子の腕を放すと、袖で陽子の涙をぬぐう。
「爪を伸ばしてください。私はきっと傷だらけになる。ですが、その痛みも私は嬉しいと感じるでしょう」
浩瀚は静かに笑んだ。
浩瀚は陽子の頬に優しく触れ、その手をゆっくりとさげていく。親指が顎をなで、首筋を追い、鎖骨をなぞった。
「あなたが私を傷つける以上に、あなたを花びらで散らしてさしあげますよ」
「浩瀚……」
浩瀚がささやく。
「松は長寿の印、これほどの喜びはない」
「……」
松？ と瞬く陽子に、浩瀚はくすりと笑んだ。
「松の葉です。あなたの爪が作ってくださるのでしょう？」
陽子はカッ、と頬に朱を走らせた。
「そんなに傷つけたりしない」
「さあ、それはどうでしょう……主上は激しいから」
「はっ！ 激しくなんかないっ！ 浩瀚のほうが激しいじゃないかっ！」
浩瀚は声を出さずに笑い、愛しそうに主を見上げる。
「きっと台輔が私に近づけなくなりますよ」
「……え？」
陽子は瞬き、その意味を理解して呟いた。
「それは……大問題だな」
「ええ、大問題です」
「その場合も私が怒られるのか？」
浩瀚が笑う。
「猫でも飼いましょうか」
「だめ……猫を慶国から追い出すぞ」
陽子は、両手で浩瀚の頬をはさんだ。ゆっくりと笑って、浩瀚の額に優しく口づけた。
「浩瀚を軽蔑したりなんかしないよ。いつでも愛してる。……それよりも、私の方が先に飽きれられるだろうな。支離滅裂だ」
自分でもコントロールできない感情に、陽子は深い溜め息を漏らす。いつまで経っても自分が子供だということを思い知らされる。
浩瀚は陽子を見つめ、ゆっくりと祈るように目を閉じながら、陽子の膝に顔を伏せた。
「……浩瀚？」
浩瀚の手が、陽子の太ももに添えられるように触れる――ただ、それだけの行為だったけれど。
小さく漏れる溜め息。
安堵するような浩瀚の気配が伝わってきたから、陽子は少しだけホッとして、浩瀚を見つめ続けた。
食事を終え、寝室に下がるには早い時間だった。いつもならそのまま政務の勉強に入るのだが――。
なぜか浩瀚に誘われるがままに寝台で向かい合って座っている。
「主上は爪が柔らかいのですから、伸ばさないほうがいいですよ」
「そうかな」
「実際、私もそのほうが気持ちがいい」
「浩瀚っ」
真っ赤になった陽子を見て、浩瀚が笑む。
「女御らは残念がると思いますが」
「……うん、そうだね。でも付け爪でも用意してもらえば」
「付け爪？」
「……この世界にはないのかな？ まあいいや」
浩瀚に爪を切ってもらいながら、陽子は空いている手で浩瀚の前髪を弄る。
髪の毛を下ろした浩瀚は、少し優しい目になる。年も若く見えた。抱くたびに髪を下ろされる、と浩瀚は不平を言うけれど。
絶対にこっちのほうがかっこいい、と陽子は思う。浩瀚の髪の毛を弄るのも好きだった。
「あまり弄っていると、また血が出ますよ」
「だいじょうぶだいじょうぶ」
右手薬指の包帯は巻きなおされていた。
陽子は断続的な痛みにあまり気にしていなかったのだが、自分の頬に触れる陽子の右手が震えていることに浩瀚が気づいて、慌てて手当てし直したのだった。
「浩瀚って綺麗だよね……」
「はあ？」
「いや、整っているなって」
「主上のほうが綺麗ですよ」
「ありがと」
陽子は微笑むが、どう考えても浩瀚のほうが綺麗だ、と思う。
……腹は黒いけど。
くっくと笑う陽子を浩瀚は不思議そうに見上げた。陽子は笑みを堪えて首を横に振る。
綺麗に整った顔立ちは見ているだけで飽きない。こういう風に相手の顔をじっと見ることなどそうないな、と思いながら。
「これからは浩瀚が爪を切ってくれる？」
「主上も私の爪を切ってくださいますか？」
「え――」
そう返されるとは思わなくて。
浩瀚の爪を切るのは嬉しいけど、浩瀚にじっと見られるのはちょっとイヤかも、と陽子は思ってしまう。
「いやでしたらいいのですよ」
陽子はぷるぷると首を横に振った。頬が紅潮する。誘惑のほうが勝った。
「切りたい」
浩瀚がにっこりと笑う。
「さあ、次は足です」
「え！」
足に手を伸ばす浩瀚から逃げるように身を引いた。
「足はいい！」
「何をおっしゃいます」
立ち上がろうとした足を引かれて、陽子はひっくり返った。ぱふ、と布団に身体が埋る。
「浩瀚！」
「ほら、のびている」
「人の話を聞けっ」
「動くと危ないですよ」
「……」
しっかと右足をつかまれて、陽子は言葉を失う。右足だけを上げた格好はなんとも恥ずかしい。しかも寝巻きで下着は穿いていないのだ。足を閉じて、身体を起こすと、開いた前を慌てて隠す。
くっくと笑う浩瀚を陽子は睨みつけて吼えた。
「私も浩瀚の足の爪を切るからな！」
「ええどうぞ」
「本気だからな！」
「はいはい」
「ううう〜〜！！」
陽子は唸る。
「はじめからこのつもりだったんだろうっ」
「おや。やっとわかりましたか」
陽子の爪を切る浩瀚は、鼻歌でも聞こえてきそうなくらいに嬉々としていて。
だから椅子ではなく、こちらに座らせたのか、と陽子は左足で浩瀚を蹴った。
「足癖が悪いですよ」
「ふん！」
陽子は右足を終えて左足の爪を切り始めた浩瀚を見つめた。正直、浩瀚に爪を切ってもらうのはかなり気持ちがいいのだが。
「……浩瀚の爪は、いつもは誰が切っているんだ？」
「自分で切っていますよ」
「……」
「安心しましたか？」
またも笑う――しかもニヤリとした笑いの浩瀚を、陽子は睨みつけた。
「しらない！」
ゲシゲシ、と右足で浩瀚を蹴る。
「まったく足癖の悪い。ほら、動かないで。爪が散らばる」
「持ち上げるなー！」
浩瀚はくすりと笑い、切った爪と爪切をまとめた布を端に置いた。
「さてと、綺麗になりましたよ」
陽子の足を持ち上げたまま、浩瀚は、ちゅ、とわざと音をたてて指先に口づけた。
「もうばかっ！」
浩瀚の悪ふざけに陽子が笑った。
浩瀚は、陽子の目が自分のそれと合うまで動かず――、視線が合うと楽しそうに目を細めた。
陽子の眉が不審げにゆがめられる。
「……なに」
「今日は悪い足から」
浩瀚は囁くと、左足の中指をパクッと咥えた。しかも歯を立ててかじっている。
驚く陽子に、浩瀚は笑ってみせる。
「いただきます」
そのまま舐めた。
「〜〜！！！」
陽子の背筋を熱いものが走り。
「……っ」
陽子は言葉を失い、顔を覆うとそのまま倒れた。
「ばかっ」
真っ赤になって。
了
【THANKS 7777hit】
2003.02.23