浩瀚×陽子
『甘々』
桂桂のためにケーキを作ってあげよう、と言ったのは陽子だった。
「大変そうですね」
耳元でかけられた浩瀚の声に、クリームを泡立てるのに奮闘していた陽子は、軽く飛び上がった。
「浩瀚！」
「はい。――お邪魔でしたか」
「いや、いいけど」
慌てて手を止めた陽子は、息を整えながら苦笑した。
背後から浩瀚が覗き込んでいるのに気付かないほど熱中していたらしい。
「浩瀚もやってみる？」
「ご遠慮申し上げます」
陽子はくすりと笑った。
「本当に甘いのが苦手なんだな〜」
「匂いだけですね。別に、口に入れるぶんには問題ありません」
「そう？」
「むしろ……そうですね、好きなほうだと思います」
「へえ」
陽子は疲れた手首をほぐすように振った。
祥瓊と鈴は焼きもの担当で、ここには陽子しかいない。少し離れた窯から、甘く香ばしい匂いが漂ってきていた。どうやらスポンジ作りは上手くいっているようだ。さて、あと少し……と、もう一度格闘態勢に入った陽子の頬を、伸びてきた指がかすった。
「くりーむをつけていらっしゃいますよ」
「あ、ありがと」
よく見れば、胸や手首、ボールの周囲にもクリームは飛び散っていた。祥瓊から「ちんたら混ぜていてはだめよ」と厳命が下っているのだ。
浩瀚が指についたクリームを舐めた。
「どう？」
「甘いですね」
「砂糖が足りなくないかな」
「いえ、ちょうどいいのでは？」
陽子は自分でもクリームをすくって味見する。――が、蓬莱にいたときからお菓子など作ったことのない陽子には甘さの基準がわからない。実際に食べたケーキはこんな感じだったな、と想像するしかなかった。浩瀚がいいというのだからいいか、という感覚で男を見上げた陽子は、冢宰の口元にクリームが飛んでいるのを見つけて小さく笑んだ。
「何か？」
浩瀚が問いたげに目を細めた。陽子は立ち上がり、浩瀚の顔に手を伸ばす。
「クリームがついてる」
指ですくい、今度は陽子がそのクリームを舐めた。
「いつから見てたんだ？ 恥ずかしいな」
妙に力を入れて混ぜていた陽子は、その光景を思い出し、頬を染めた。おそらく、そんな陽子を浩瀚は楽しげに見ていたに違いないのだ。
「そうですね……ふんふんふんふん！ ぐおりゃー！ というお言葉を五回くらい耳にいたしました」
「ぐ、ぐおりゃーは言ってない」
「はい。おりゃー、くらいでしょうか」
「……」
浩瀚が目を細めて笑う。陽子のあごを軽く持ち上げた。
「主上の顔にもたくさんついておりますよ」
言うが早いか、そのまま身を屈めて浩瀚の舌が陽子の頬を舐めとった。
「っ！」
硬直した陽子は、頭の中が真っ白になって言葉が出ない。二度、三度、四度と舐められ、本当にこんなについているのか！？ と叫びたくなるような状態に、陽子の顔が熱くなっていく。
「浩瀚――っ」
やっと出た言葉に、静かな声が重なる。
「お静かに」
男の声が、やけに嬉しそうに聞こえるのは気のせいか。
「主上も味見なさりますか？」
「さっきした――」
と、陽子が返答する前に、浩瀚の唇が陽子のそれと重なった。だが、当然、味などわかるはずがない。唇を舌で開かれ、合わさる吐息、絡められた舌に思考が混乱する。
陽子の砕けそうになる腰を浩瀚が支えた。真っ赤になった陽子の耳に、身を屈めて浩瀚がささやく。
「どうやら、私が一番好きな甘いものは主上のようです」
「ば……」
言葉にならない陽子。
「……ばかっ」
「はい」
浩瀚が笑う。
「ううう〜！」
陽子が睨みつけても、浩瀚は笑うばかりだ。
「陽子、できたー！？」
遠くから祥瓊の声が聞こえてくる。浩瀚の腕が離れ、軽くあごをつかまれた。
「油断大敵ですよ。お気をつけくださいませ」
さらりと。
陽子は浩瀚をにらみつけた。
「……浩瀚こそ、口紅がついてる」
「それは失礼」
慌てて口元を指でこする冢宰を見上げて、陽子はニヤリと笑った。
「油断大敵、というわけだ」
いつも口紅はつけていないのだが、今日はたまたま「新作よ」と祥瓊に口紅をつけてもらっていたのだ。祥瓊ありがとー！ と心の中で叫びつつ、陽子は目を細めた。
「浩瀚」
陽子は指ですくったクリームを浩瀚の目の前に出した。
「味見して」
「……」
浩瀚は一瞬だけためらうが、主命には違いない。身をかがめて咥えようとしたが、急に指を引かれ、鼻の頭に素早く口付けられた。やられた、という表情の浩瀚に、陽子は満面の笑みを返す。
「油断大敵」
「……そのようです」
漏れたのは心地よい苦笑。
浩瀚は、素直に「参りました」と一礼した。
了
2003.02.27