浩瀚×陽子
『陥落（かんらく）』
すでに深夜という時間帯、まだ明かりのつく私の部屋で、うろうろと動き回る少女がいた。
仕事を片付けている私にはそれが気になって仕方がない。
「……主上」
思わず漏れる溜め息。
あと少しだから、と言っても、彼女はまったく聞いていない。無言のまま、かまってよと言いたげに、背中をつけて寄りかかってきたり、首の横に腕を通して顔を頭の上に乗せてみたり。最初は寝台の上で膝を抱えて大人しくしていたのに、待ちきれなくなったのだろう、とにかくペタペタと触ってくる。
人肌が恋しいのは私も同じだ。確かにここ連続で急な仕事が立て続けに入って朝議以外には会えない日が続いていたれども。
早く仕事を終わらせて、ゆっくりと会える時間を作ろうと思えばこそ、今やり終えておきたいというのに、彼女は無言のまま私の邪魔をする。そして、私がそれを無視するものだから、どんどん機嫌が悪くなっていく。
ついには髪をまとめた団子をかじられた。きっとそのうち、髪を解きはじめるだろう。
本当に困った。
「……主上」
やめてください、と暗に含めた物言い。
「これだけは終わらせておきたいのです」
「……」
ぷう、と彼女が頬を膨らませる。仕事をやめろ、と口で言えば簡単にやめることを知っているくせに、彼女はあえて言わない。やらなければいけないことがわかっているから、それを口にできないのだ。ただ、態度で私が手を止めることを望んでいる。
「あと五分で終わりますから」
このまま仕事を続けても意味がない。彼女が甘えてくるのはそうそうあることではなく――。そして、それをうれしく思う自分がいるのも確かで。
大人しく彼女の身体が離れたので軽く安堵した――そのとき、急に筆を持つ腕を持ち上げられた。
「主上？」
腕の下をくぐられた。
彼女は書卓の上にあった紙を退かし、軽く飛び乗るようにして書卓に腰をおろした。私の目の前で、足を組む。
彼女の行為に、思わず目が点になった。これほど見事な妨害工作が今まであっただろうか。
私は――ただ呆然としていて。
思わず、苦笑した。
わかりました――と、降参しようとした私の右頬に、彼女は右手を添えたかと思うと、急にペロ、と反対の頬をなめたのだった。
「……」
何が起こったのか、一瞬わからなかった。
予想がつかない強襲に、思わず頬に朱が登った。
「……主上？」
彼女は無表情のまま――顔の角度を変えて、濡れた舌をすべるように軽く走らせる。
ぺろ。
……ペロ、と。
ぞく、と背筋を走ったそれは、全身の熱を――血をたぎらせた。
「……しゅ……上」
ああもう、この人は。
どうしてこんなに――。
顔を間近にして。
まだやるのか？ と無言で怒る。
「こうかん」
ただ、それだけを囁かれた。
胸が熱い。
愛しさに、笑いが込みあげてくる。
「まったく……」
私は笑みを浮かべたまま、彼女の唇に自分のそれを軽く重ねた。すぐに離す、触れただけの口付け。私は彼女の顔を覗き込むようにして、降参ですと言った。
返ってくるのは、うれしそうな笑み。
彼女は私の肩に腕を伸ばし、深く口づけてきた。
本当に――。
かなわない。
了
2003.05.18