楽俊×陽子
『禁止』
あ、――と。
それを見ていた誰もが「あ」と口を開けた。
目と、口を、見事に丸くして。
慶国金波宮の内殿。
王宮の路寝――本来、かぎられた者しか入ることの出来ないそこに、慶国の場合はさらにかぎられた者しか立ち入ることが許されていなかった。
それは、宮殿内を取り仕切る天官であっても同じ。
その特殊な場所に、無条件で出入りを許されている異国の者がいた。
禁門からの出入りすら許された青年の名が広まることはなかったが、彼が半獣である、ということだけは、噂によって王宮の誰もが知っていた。
本格的な夏が近い、蒸し暑くなってきた土曜日の正午、朝議を終えて内殿に戻った陽子は、そこに灰茶色の動物を見つけて立ち止まった。
え、と思い、瞬く。
「楽俊……？」
それはまさに確認、といった物言いで。だが、足はすでにそこへ向かって歩き始めていた。
間違いない、という確証を得ると、陽子の足は自然と速まった。
「楽俊っ！」
後姿。
だが、間違えるはずのない人物。
大切な親友を――恋人を見つけ、陽子は、迷わず彼に飛びついた。
「わ！？」
庭園を散歩していた楽俊は、自分の名を呼ばれ、振り向くが早いが、わき腹に打撃を受けて身体をくの字に曲げた。
ゴキ、という音がその場に響いた、と祥瓊などは言う。
二人の身体は軽く宙に浮き、楽俊が立っていた場所より２メートルは後ろに、もつれ合うように転がった。六太などが見ていれば親指を立てて「見事なタックルだったぜ！」と言うに違いない。だが、池の縁、一つ間違えれば池の中に飛び込んでいただろう。
「よよ！ 陽子っ！」
楽俊はわき腹の痛みに眉をひそめつつ、自分の腹部に顔をうずめている少女の頭に手を乗せた。
再会の挨拶もなにもあったものではない。
直接会うのは、一年近いが、あまりにも熱烈な歓迎。
最初に漏れたのは苦笑だった。
「あいかわらずだなあ」
楽俊は笑う。
陽子は何も言わずに、ただふさふさの毛に顔をうずめていて。
楽俊は陽子の言葉を待ったが、いつまで経っても陽子は何も言わずにそのままだった。楽俊は陽子の頭を撫でる。
「どうした？」
「楽俊楽俊楽俊！」
がば、と顔をあげた陽子は、泣きそうな顔でネズミを睨んだ。
「３ヶ月も連絡が取れないから心配した！」
「ああ……」
楽俊が笑う。
「すまねえ、大学の論文を書くのに恭国に行っていたんだ。供王が面白い治水の方法を――」
「言うことはそれだけ！？」
「へ？」
きょとんとした様子で小首をかしげた楽俊に、陽子は唇をかむ。
「私のこと、好き？」
「へ！？」
楽俊は、この場に祥瓊や護衛の虎嘯がいることに気づいて硬直した。
「よ、陽子」
陽子の声は低い。だから、聞こえない……のではないかとは思うけれど。
いや、聞こえないはずがない。
「好き？」
「おまえ、なな……」
「前に好きだって言ってくれたの……うそ？」
「う……ううう、うそじゃ、ねえ…………けど」
なんでいきなりそんな話になるんだ、と楽俊は混乱する。
「陽子……いきなりどうしたんだ」
「雁から鸞が戻ってきたかと思ったら、延王の声で楽俊は大学を休んで、ぎょ……ぎょ……」
ぎょぎょ、と言い続ける陽子に、楽俊は何事かと眉をひそめた。
「ぎょ？ 陽子、ぎょってなんだ？」
「ぎょ……。玉蘭って名前の、素直で可愛い女の子と旅に出たって言うから……」
陽子の顔に朱が登った。
「だから……」
大学で、好きな子が、出来たのかと、思った、と囁く声に、楽俊は思わず後頭部を地面につけて天を見上げた。
「はああ……」
なるほど、と納得し、大きく息を吐いた。
「玉蘭か、うん、そうだな、素直で可愛かった」
「――」
陽子の身体が緊張し、楽俊は「ぷ」と吹き出した。
「楽俊！？」
「素直で可愛い……馬だったよ」
「……」
「馬だ、陽子」
「……うま……？」
「ああ、馬だ」
「え？」
陽子はまだ理解できない。
「恭国に行くのに、最初、たまを貸してくれるって言うんだけど、さすがに遠慮したんだ。私用みたいなものだしな。他の妖獣もやめてくれってお願いしたら、延王が馬を用意してくださった」
「馬……？」
「ちょうどいい練習になるだろうって。……安心したか？」
陽子の頭に小さな手を置いて、楽俊は髪をかき混ぜるように優しく撫でた。朝議を終えたばかりだろうに、髪に簪ひとつ差していないのがなぜかうれしい。
陽子は顔を徐々に赤くし、唸りながら楽俊の腹に顔をうずめた。
楽俊はくっくと笑う。
「延王にからかわれたんだ、陽子は」
「……」
「それで延王がすぐに金波宮に行けって言ってたんだな。何事かと思ったよ」
くっく、と楽俊の笑いは止まらない。
陽子は、今までの３ヶ月を思い、安堵よりも悔しさのほうが勝って。
「うう〜！！！」
大きく息を吸うと、楽俊の腹に唇をつけて、思いっきり息を吐いた。
「わ！」
楽俊が身をよじる。
「やめっ！ 陽子――っ！！ ぎゃ！ ぎゃはははは！」
「うううううーーーー！！！！！」
「ひー！ 陽子っ！！！！ やめてくれーーーーー！！！」
楽俊は悶え苦しんだ。こしょばい、というレベルではない。陽子は楽俊の腹にしがみつき、腹部に息を吹き続けた。
ひーひーと叫んでいる楽俊を救ったのは、祥瓊ではなく、この場に現れたばかりの金髪の青年だった。
「何をさわいで……」
「た――台輔」
「！！」
景麒は立ち止まり、硬直した。
「主上！ はしたないっ！！」
まさに一喝。
ピタ、と動きを止めた陽子に、楽俊はどっと疲れながらも安堵の息を吐いた。
楽俊は、涙で濡れた顔のまま、「景台輔っ」と感謝の目を向けた。ありがとうございます、と口にしようとして、今の自分たちの格好を思い出し、言葉を失う。
庭園に。
半獣と女王が。
寝転がって。
抱きあって。
狂ったのか、というくらいに騒いでいて。
サアア……と血の気を失った。
――ああ！ 景台輔の視線が怖いっ！！
コチーン、と楽俊が石化している一方、陽子は楽俊に抱きついたまま軽く上半身を上げ、景麒を見上げた。
しかも、満面の笑みで。
「馬だったんだ！」
と叫んだ。
「…………」
怒りに打ち震えていた景麒も、思わず言葉を失った。沈黙が走り、景麒が小首をかしげた。
「……は？」
「だから！ 馬だったんだ！！」
それはそれはうれしそうに笑う主に、景麒もなんと返せばいいのかわからずに困惑する。
思わず怒りも消えてしまうほどに。
「う……馬だったのですか？」
「そう！ 馬だったんだ！」
「そ……そうですか」
景麒が何とか会話をしようと努力しようとしているのは、見ていた祥瓊にもわかったが。
「それはよろしかったですね……」
「うん！」
「……」
きっと何のことかわかっていないだろう、と祥瓊は台輔を少し哀れに思う。
ここずっと塞いでいた陽子の気持ちが、半獣の出現によって簡単に晴れたということは一目で明らかだった。それがわかるからこそ、景麒も強く言えないのだろう。
だが、それとこれとは別。
祥瓊も胸のつかえが取れてホッとしたが、祥瓊は次の言葉を選んでいる景麒の変わりに援護に出た。
「陽子、楽俊、じゃれるのはそのくらいにして！」
「じゃれてないよ」
「はいはい」
祥瓊は陽子に手を差し伸べる。
「昼餉が出来たみたいよ。ほら――。早く着替えてちょうだいな」
祥瓊の視線の先に、昼餉の準備が出来たことを伝えにきたのだろうか、回廊を進む桂桂の姿が見える。行く先が奥に向かったので、虎嘯が声をあげた。
「桂桂！ こっちだ」
虎嘯の声に振り返って、桂桂が笑む。
陽子は祥瓊の手をかりて身を起こした。
「まったく、何で楽俊が相手だと陽子は子供になっちゃうのかしら」
「子供か？」
「子供です。自覚を持ちなさい」
陽子はさすがに自分のした行為を恥ずかしいと思ったのか、頬を染める。
「楽俊、ごめん」
楽俊の石化は解け、陽子の手をかりて身を起こした。片方の手は、先ほどの急激な衝撃で痛めた腰を押さえている。
「まったく、つつしみを持てって言っているのに……」
ぶつぶつと、楽俊は乱れた毛を整えるかのように腹を擦った。
――しかも、なんて恐ろしい技を使うんだ……。
ジトリ、と楽俊は陽子を睨む。
「さっきのやつ、もうするなよ」
「はい……」
しゅん、とうつむく陽子は可愛らしく。
結局、楽俊は怒り続けることに失敗する。
楽俊は、こちらに向かって来る子供に目を向けた。
「桂桂か、急に大きくなったなあ」
「うん、１３歳だけど、もう延台輔より高いよ」
「じゃあ、延台輔が悔しがってるだろ」
「そりゃあもう」
桂桂と目が合った楽俊が片手をあげる。
桂桂の目が見開かれた。次の瞬間、瞳が輝く。
「楽俊っ！？」
桂桂は、軽く飛び上がって喜ぶと、笑顔全開でダダダ……と力強く駆けてきた。
「楽俊っ！！」
「桂桂、元気だったか？」
「楽俊！！ 生きていたんだっ！！」
え、と楽俊は思った。
「生き……？」
そして、ぎくりとする。
まさか、と思った。
桂桂の勢いがなぜか止まらない。
「ちょっと……」
思わず、後ずさりしてしまう。
「ちょっと！ ま――、まて！ 桂桂っ」
「楽俊っ！！！」
確か、前にも同じようなことがあったような気がする。だが、そのとき桂桂はまだ小さくて。
「陽子が、楽俊は旅先で死んだって言うんだもん！」
桂桂が飛んだ。
――やっぱりー！
ぐき、という音がした、と祥瓊はのちに証言した。
だが、それだけでは終わらなかった。
楽俊の背後には陽子がいて、しかも、その後ろには池があったのだ。
「――あ」
虎嘯が言った。
「あ」
祥瓊が言った。
「あ――」
景麒が。
三人はとっさに手を伸ばしたが、当然、届くはずもなく。
「ああああああーーー！！！！！」
巨大な噴水が上がり――池には三つの影がぷかりと浮かんだ。
――後に、金波宮に来た延麒六太は、「飛びつき禁止」という立て札を池の縁に見つけることとなる。
「なあ、これ、飛び込み禁止の間違いじゃねえの？」
と言ってみたが、返って来た答えはどれも「否」だったという。
了
2003.05.18