慶国ほのぼのコメディ
『なかよし』
秋も深まってきたある日、執務室において陽子は深い溜め息をついていた。
ふう〜。はあ〜。うう〜。
たった一枚の紙を見つめて、先ほどからそんな調子。
「もう、どうしたのよ、いったい」
朝議で難しい問題でも持ち上がったのだろうか、と私は思った。
「さっきから溜め息をついてばかりよ？」
「祥瓊……」
陽子はちらりと私を見て生返事。そしてまた机に向かって「ふう」と息を吐く。
私は筆を置いて立ち上がった。書卓を回って陽子の正面に立つと、問題の紙を手にとった。
いったい何に悩んでいるのか。
「浩瀚様からの宿題？」
まあ、執務に影響が起こるようなことをあの人がするはずはないけれど。
私は紙に書かれている文字に目を落とした。そこには流麗な文字で『なかよし主従祭への誘い』と書かれていた。
「……」
書面には簡単な説明と、最後に「玉葉」と署名。
「これって……」
思い出した。昨日、陽子のもとに蓬山から青鳥を使って手紙が届いたことを。
「な？ 困るだろ？ 新しい蓬山公が王様を選ぶのを渋っているらしいんだ。誰かが麒麟は王の下僕なんだーって伝えちゃったらしくてさ。王様不信になってしまったというか……とにかく、王を選ぶのはいやだと言って逃げ出すらしい」
「下僕……」
先月、台輔が蓬山に行ったことと関係あるのかしら……いやいや、私は一抹の不安を取り払うように頭を振った。
それで、と私は言った。
「玄君から各国の王に麒麟との関係は良好だということを蓬山公に教えてあげてくれという要請が来たわけね」
「ん……」
陽子は溜め息をついた。
「なんでそんなのがうちにも回ってくるんだか……」
「……」
「仲良し主従なんてほかにたくさんいるじゃないか。漣国とか才国とか戴国とか雁国とか範国とか。コミュニケーション抜群といえば恭国だってそうだろ？ なんでうちが〜！」
陽子は頭を抱えてしまった。
私は笑う。
「蓬山公を王宮に招いて、ありのままの姿を見せてあげたら？ 台輔と陽子、お互いに遠慮なく言い合いが出来て、十分仲良しじゃない」
「ど、こ、が！ 王様が麒麟にガミガミ怒られるところなんて見せたら幻滅させちゃうよ」
「……」
その前に国の恥になるでしょうけどね……。
陽子は急に顔をあげて私を見た。
「ねえ、祥瓊！ 景麒と手をつないでにっこり、っていうのはどうかな」
「え？」
「蓬山って険しいだろ？ 山登りをしてこう……手を差し伸べて」
「……」
先ほどからそんなことを本気で考えていたらしい。なんだかおかしくて微苦笑をもらしてしまう。
「……ええ、そうね。それもいいかも」
「でも、景麒が笑えるかなあ……」
ううう〜と陽子は唸った。
「景麒の笑いってこう……顔中が引きつってそうだろ？ 無理やり笑わせているみたいで、そんなのを見たらかえって不信が強くなりそうだし……」
陽子は知らない。「即位の際に偽王に捕らわれた麒麟を助けた王」「即位直後にも関わらず、三カ月もの長き期間不在の王を信じて支えた麒麟」「内乱の際に麒麟の背に乗ってそれを鎮めた王」として、二人はすでに有名なのだと……。
確かに話だけを聞けば慶国の主従はかなりよい関係を築いていると誰もが思うだろう。
「とにかく、このまま悩んでいてもらちがあかないでしょう、冢宰やみんなを呼んで相談しなさい」
そして執務室に集められた少数精鋭の手には、紙と筆があった。
陽子と向かい合うように三つの椅子が置かれている。各自の提案を想像しやすいように絵にするよう指示された面々。右から女御代表、鈴。真ん中に官吏代表、冢宰浩瀚。左に禁軍代表、左将軍桓タイが座っている。
「俺……絵って苦手なんですけど……」
ぶつぶつと呟きつつも真剣に描いているのは桓タイだ。その隣で冢宰は優雅な手つきでさらさらと筆を動かしている。鈴は描きながら嬉しそうに頬を染めていた。
最後まで粘ったのは桓タイ。彼が筆を置くのを見て、私は陽子に頷いた。
陽子は背筋を伸ばす。
「それでは一斉に、――じゃん！」
三人は裏返していた紙を陽子に向かって見せた。――瞬間、う、と私は怯んだ。
鈴は絵が上手い。そこには、陽子の頬に口づけている台輔がいた。無言で説明を求めた私に、鈴は頬を染める。
「あのね。『いってらっしゃいませ、ちゅう』なの」
「……」
冢宰と将軍も身体を前かがみにしてそれを覗き込んだ。
「……」
「……すごいですね」
「ええと……」
私は確認する。
「陽子が台輔にちゅうじゃなくて、台輔が陽子にちゅうなの？」
「ちゅうなの」
「……却下」
背後から重低音。
「えー！ じゃあ『おかえりなさいませ、ちゅう』は？ 仲がよさそうでしょ？」
陽子は立ち上がった。
「却下！！ 景麒と私が逆だったら？――という意見も却下だ！！」
鈴はぷくりと頬を膨らませた。なにやらとても不満そうだ。
私は咳払い。軽く鈴を睨んで、今度はその隣に座る冢宰に視線を向けた。
「ええと……冢宰、それは？」
怜悧で優秀な慶国百官の長は、にっこりと笑った。
「見てのとおり」
「……」
冢宰の手元には、海辺を走る男女の姿が描き出されていた。走る陽子を、台輔が手をのばしつつ追いかけている。流れるような美麗な文字で「はっはっは。ここまで来い」「待ってください、陽子さま〜」という台詞まで書いてあった。
「戴国の主従を参考にしてみました」
さらり、と冢宰。
「海辺ではなく、花畑でも可です」
その笑顔を見て、ああ……と思った。冢宰はこの状況を完全に楽しんでいる。
陽子の答えは分かっていたけれど、一応聞いてみた。
「……どう？」
「次！！」
やっぱり。
「――で、桓タイそれは？」
最後のひとり、桓タイは全員の視線を受けてビシッと背筋を伸ばした。
彼の場合、ひと目見ただけでは解釈不能の画期的な絵がそこにはあった。黒い茄子に箸を刺したような絵が描いてある。見ようによっては犬のように見えなくもない。
――でも。
「……桓タイ……」
私の顔は引きつっていたと思う。
問題は、その黒い茄子がふたつ、犬の交尾のように重なっていることだった。
「……」
「……」
「……」
だれもが、その状況説明を聞けない。私の背後からは冷気が漂ってくる。
まさか……。
桓タイ……まさか、よね？
なかよし、の意味を勘違いしていないわよね？
「ええと……それは使令かしら？」
「主上と台輔だ」
ヒイ！ ――言った！ こいつ、マジで言ったわ！
私は脳裏で叫んだ。
ああもう、いや！ 恐くて振り向けないー！
「ええと……」
お願い、誰かこの男を雲海に沈めてきてー！
私たちの緊張を微塵も感じることなく、桓タイは笑って言った。
「名付けて『仲良しおんぶ作戦』です！」
「仲良し……」
「おんぶ……」
「作戦？」
「……」
「……」
冢宰、鈴、私。安堵の溜め息が重なった。
「ああ……びっくりした。おんぶか……」
呟いたのは陽子。カチャリ、という音に振り返れば、陽子は手元で抜きかけた水禺刀を鞘に収めていた。
本当に紛らわしいのよバカ！ と私は桓タイを睨みつつ、額の汗を拭った。
「どういうこと？」
「雁国主従を参考にしてみたんだが」
桓タイの視線が陽子に向かう。
「台輔が足をくじいたふりをして、主上がおぶるのです」
「ああ、なるほどね……」
陽子が頷く。
「って、ちょっと待て！ 私が景麒を背負うのか！？」
桓タイはきょとんとした顔で瞬いた。
「台輔が主上を背負ったら、ますます麒麟は王の下僕と知らせるようなものじゃないですか」
「ああ、そうか……」
私は首をかしげた。
「でも、台輔には使令がいるじゃない」
「使令には何か用を言いつけて出払ってもらう。もしくは勅命で出てくるのを禁じるとか」
「大丈夫でしょう」
冢宰が言った。
「確か、蓬山では使令を出すことは出来なかったはずです」
この時点で、誰も陽子の背中に台輔が負ぶさっている姿を想像しようとはしなかったのは、桓タイの強烈な絵が強く心に残っていたからか。
「なら問題ないわね」
よく考えたら問題大ありだった。
私は振り返った。
「どう？ 陽子」
「うん、そうだな……それが妥当かな」
陽子はいまいち納得がいかないのか、唸りつつ、ふと何かに気づいたのか顔をあげた。
「祥瓊は何かいい案がないのか？」
「え、私？」
「何でもいいから、言ってみてよ」
「え……ええと、そうね」
鈴や冢宰、桓タイまでが私の言葉を待っている。
「……ええと、ええと」
私は唸った。こういうのを考えるのは苦手なのに……。ぶつぶつとつぶやきつつ、適当に思いついたことを口にしてみた。
「そう……ね、『はい、あーん作戦』とかどうかしら」
「「はい、あーん作戦？」」
みんなの声が見事に重なった。私は焦る。
「ええと、つまり、台輔が風邪を引いて、陽子が食事を食べさせてあげるのはどうかしら……と」
あああん！ これじゃあ鈴を笑えないわ〜。べたべた〜！！
「それ、いいんじゃない！？」
叫んで立ち上がったのは鈴だった。
「え」
「それで行きましょうよ！ それで、台輔の頬についたご飯粒を『お弁当がついているぞ』って陽子が自分の口に運ぶのね！」
「え？」
そこまでは言ってない……。
陽子も顔をゆがめた。
「それはいやだよ」
「なに言っているの！ これ以上ない仲良し大作戦じゃないの！」
陽子は苦笑をもらした。
「仲良しっていうか、それじゃあバカップルじゃないか。玄君からの注意事項に、必要以上のラブラブはいけないって書いてあるからその案は却下！」
「えー！」
鈴はまた頬を膨らませた。
私も苦笑した。
「やっぱり桓タイのおんぶ作戦でいいんじゃない？」
「しょうがないか……」
陽子は立ち上がった。
「じゃあ、仲良し主従祭りは、私が景麒を女仙や蓬山公の前でおんぶ、ということで参加決定！」
わー、パチパチパチ……私たちは拍手した。
その十分後、台輔の猛烈却下にあってその案は破棄。
台輔によれば、蓬山の要請でも無理に出る必要はないのだとか。
「そういうことは早く言え！」
陽子に睨まれた台輔の手が、書卓から落ちた一枚の紙を拾い上げた。
「あ」
「あ」
「あっ！」
陽子が慌てて手を伸ばすが、それよりも台輔がそれに目を通すほうが早かった。
「……」
台輔が、重なった茄子の絵を見つめたまま石化した。
「……これは？」
「な、なんでもない。返せって」
陽子がそれを取り上げようとするも、避けるように台輔の右手が上がる。
「主上」
「なんでもないって。こら、返せって」
「それは主上と台輔です！」
桓タイの呑気な声が響いた。
「…………」
「…………」
「ち、ちが……これはおんぶだ、おんぶ！」
「……」
台輔の無言の圧力。
「おんぶだってばーー！」
陽子の叫びが金波宮に響いた。
翌朝になったら、桓タイは雲海に浮かんでいるかもしれない。
蓬山の麒麟が良い王に出会えるよう、私は心から祈った。
了
2003.11.18