リクエスト「浩瀚×陽子」 くわくわさんへ。
『戸惑（とまどい）』
「風が――」
内殿の回廊を歩いていると、隣にいた浩瀚が小さく呟いて立ち止まった。
二歩遅れて、私も立ち止まる。
浩瀚の視線の先を追うと、中庭で紅葉した落ち葉が宙を舞っていた。
「わ――」
ちょうど、紅葉や銀杏といった、秋に華やぐ木々が植えられた一角。
宙を舞う落ち葉は、まるで小さな妖精が踊っているようで。
「すごいな」
目を奪われた。
万年常春のような雲海の上にも、一応季節らしきものはある。
慶国が蓬莱の気候と良く似ているのは、同じく東の地にあることと関係しているのだろうか。地球のように丸くない平面世界のはずなのに、気候は同じというのがとても面白い。
以前いた世界と比べれば比べるほど、この世界は不思議に満ちている。というよりも、向こうの常識はいっさい通用しない世界。宇宙というのは存在しないはずなのに、太陽もあれば月もあり、満ち欠けもする。もちろん、小さな星々も見える。空には雲海があって、その上にある王宮では普通に呼吸が出来る。それが仙籍にあるためかと思っていたら、王宮に通う奚は仙籍を持たないというから、空気は地上と変わらないのだ。時差は――あるのかどうかわからないが、普遍妥当性は存在していた。
『理』のなかで人々は生き、疑問にも思わず、大きな『呪』の中に存在している世界。この世界で生まれた人には当たり前のことが、私にとっては当たり前ではない――その感覚の差。
慣れれば違和感などないのだけれど、ときおり覚えるのは、恐さなのか、寂しさなのかわからず、不安になってしまう。
だから、紅葉する木々、散る花々――どちらの世界でも変わることのない、そんな些細なことが嬉しい。
紅葉に惹き付けられるように、中庭へ足を踏み入れた私を風が包み込んだ。
この世界の風も、蓬莱のものと変わらない――。
大きく息を吸って振り返る。
「気持ちいい」
浩瀚に向かって笑った。
浩瀚が笑んで、綺麗な手を伸ばしてくる。
「主上、御髪が――」
優しい声だった。
風で乱れた髪をなおしてくれる――ただ、それだけなのに。
「……っ」
浩瀚の指が耳に触れた瞬間、背筋がぞくりとして、思わず飛び退るようにして身を引いてしまったのだった。
「主上……？」
きょとんと、驚いた浩瀚の顔。いや、驚いたのはむしろ私のほうだった。
「あ――ご、ごめん」
慌てて謝る。
「えっと……その」
かああ、と顔に血がのぼるのがわかった。
ひどく動揺してしまう。
今までだって、こんなことはよくあったのに。
「主上？」
怪訝そうに顔を覗かれた。浩瀚の端整な顔が目に入ると、私はその目から避けるよう、とっさに視線をそらした。
浩瀚をまともに見ることができない。顔が熱くて、きっと耳まで赤くなっている。
うわ〜どうしよう。
内殿に下がったいま、周囲に官吏の姿はなく、落ち葉がカサカサと鳴る音と、私たちの間には沈黙だけが走って、気まずい空気が流れた。
浩瀚が苦笑をもらした。
「何か隠し事でも？」
今日一日、無意識のうちに浩瀚を避けていた――そのことを言っているのだとわかった。
私はただ首を横に振る。
なんでこんなことになってしまったのか――その理由は明らかだった。
――ねえ陽子、浩瀚様のそばにいて感じない？
昨夜、祥瓊や鈴が変なことを言ったからだ。
は？ と返したそれに、祥瓊と鈴はくすくすと笑うばかりで。
なにをだ、と真面目に返せば、ますます笑うばかり。
「声とか」
「指とか」
「視線とか」
「仕草とか」
「口調とかぁ」
祥瓊と鈴が交互に言葉をつむぐ。
「なんのことだ？」
私には、まったく意味がわからない。
「この子はもう……」
祥瓊が呆れたような溜め息をついて言った。
――触れられたりしたときに、感じない？
「主上、いったいどうなさいました」
私の態度がよほどおかしいのか、軽い笑みを含んだ浩瀚の声に、ますます真っ赤になった。
私は浩瀚の胸を押した。
「近すぎ」
「は？」
「いいから、もっと離れて」
「……」
浩瀚は素直に一歩下がった。
「……主上？」
「…………」
うう、と唸る。沈黙に耐えられず、ここから逃げ出したかった。
私は浩瀚から離れようと、一歩下がった。これで二人の距離はさらに広がった――はずなのに、浩瀚が一歩前に出てきた。
私は慌てて一歩下がった。すると浩瀚も一歩前に進む。
「浩瀚っ」
「なにか？」
「なんで来るんだ」
「主上が下がるからです」
「私はいいんだ！ お前は来るなっ」
「なぜ」
「とにかくだめ。こっちに来るな――！ く！ 来るなって言ってるそばから来るなっ！！」
私は真っ赤になって、浩瀚の胸を両手で押した。まともに浩瀚の顔が見れず、私は両腕の間に顔をうずめた。
どうしたらいいのかわからない。
「主上……」
浩瀚が私の二の腕をつかんだ。
「私がおそばにいるのは不快ですか？」
耳元で囁かれた。
浩瀚の囁きに、腰が砕けそうになる。けれど、浩瀚の手がしっかりと私の腕を押さえていて。
「違うっ！ 違う――、そうじゃなくて――と、とにかく、耳元で囁くなっ！」
「なぜ」
ぞくり、とするほどの美声。
「な、な、なんでもだっ！」
私は今まで、どういうふうに浩瀚と話をしていた？
何で今までごく普通に浩瀚と会話を交わせていたんだろう――。
すべて祥瓊と鈴のせいだ。
泣きそうになる。
思いっきり意識しちゃうじゃないか――っ。
私の混乱と焦りなど知らんぷりで、浩瀚がくすりと笑った。
「困りましたね」
困っているのは私だ！ と叫びたい。私は顔を上げて浩瀚を睨んだ。
私の腕をつかむ浩瀚の指が目に入って――その体温を感じて。
どどどど、どうしたらいいんだ！？
わたわたする私を見、ぷ、と浩瀚が笑った。
「なにがおかしい！」
「失礼。いえ――本当に……」
小さく笑いながら、浩瀚が楽しそうに私を見た。
「可愛らしい」
私は顔に血がのぼるのがわかった。
「からかうな！」
「とんでもない」
心外といった面持ちで、浩瀚は手を離して「降参」の格好をする。
「先におかしくなったのは主上のほうです」
私が半泣きになって睨み続けていると、浩瀚は苦笑し、右手を私の顔に近づけてきた。
身じろぐ私を浩瀚が叱る。
「だめです、じっとして」
綺麗な指が私の頬に触れると、親指を涙管に当てた。私が目をつむると、瞼の上を親指が走り、涙を拭ってくれる。
「まったく……」
目が合うと、浩瀚は私の左頬を軽くつまんだ。
「顔を紅潮させて、困った表情で瞳を潤ませるのはおやめなさい」
め、と子供に叱るような、どこか厳しい声で。
「男の前でそのような顔をすると、悪い狼に食べられてしまいますよ？」
「……狼？」
「狼です」
断言する。私は首をかしげた。真っ先に浮かんだのはひとりの男。
「延王か？ あの人もすぐに私をからかうんだ」
「延王だけでなく」
どういう意味だろう。
問うように浩瀚を見上げると、ひどく真剣な顔で私を見つめてくる。ビクッと身を引くと、浩瀚は瞬きひとつ、苦笑に変えた。どこか考えるように視線を走らせてから、問うように私を見た。
「他の者にからかわれても、免疫がついていれば戸惑うことはないと思いませんか？」
「……浩瀚？ どういうこと……」
浩瀚の言っていることがよくわからず、瞬いた。
「つまり――」
浩瀚がまた私の髪に手を伸ばしてきた。
「え――」
「こういうことです」
「え――？」
つかんだ髪を軽く引かれ、そのまま左の耳に唇が寄せられた。
「お腹がすきましたね」
ゆっくりと囁かれたその声に、腰が抜けるかと思った。
身を起こし、浩瀚はにっこりと笑った。
「と、まあ、このように。毎日、耳元で囁いてさしあげます。そのうち、免疫がつくでしょう」
「こ――浩瀚……っ」
私は耳を押さえた。顔は真っ赤になっていたにちがいない。一瞬、告白されるのかと思った――とは口が裂けても言えない。
「そんなの――つくか！」
「真面目に申し上げております。明日から不意打ちで行いますから、心しておいてくださいませ」
「そんなのだめだ！ だめっ！！」
私は「だめ」を繰り返しながら浩瀚から離れた。けれど――先ほどのように浩瀚は近づいてくる。どこか楽しげに……本当に楽しげに。にこにこと笑って。
私が浩瀚を意識していることを知りつつ、この態度。
「おま――！ 楽しんでいるだろ！」
「わかりましたか」
子供のように無邪気に笑う。その表情に――また私は顔を紅潮させた。なんて顔をするんだ、この男は！
のちに、このときのことを浩瀚は嬉しかったのだと言った。
触れると赤くなる私が可愛くて仕方がなかったと。
けれど、このときの私が浩瀚のそんな気持ちなど知るはずもなく。
「浩瀚なんて嫌いだ！」
言い放ち、私は浩瀚から出来るだけ離れた。離れて――さらに離れて――。浩瀚の足音が聞こえないことに不安を覚えて立ち止まる。
「……浩瀚？」
振り返ると、浩瀚は先ほどの場所で静かに立っていた。背後で落ち葉が鮮やかに舞っている。
浩瀚が苦笑をもらした。
「冗談ですよ。貴女が嫌がることはいたしません。――ご安心を」
目は優しかったけれど、感情の無いその声に。
安心どころか、不安になった。
紅葉が浩瀚を絡めとってしまうかのように思えて、私は急いで浩瀚に近づき、とっさに彼の袖をつかんだ。
「主上――？」
つかんだが、その先の言葉を私は持たず。
浩瀚は少し驚いた顔をして、私を見ている。
私は、なんとか言葉を捜そうと視線をさまよわせた。それでも見つからなくて、とにかく視線だけで浩瀚に訴えようと試みる。
嫌わないで、と。
「さっき、嫌いって言ったのは嘘だから」
「主上……」
浩瀚が天を仰ぐように溜め息をついた。
「またそのような顔をなさる」
「え？」
「それでは本当に飢えている狼に食べられてしまいますよ？」
「……」
私は頬を膨らませた。
「私を食べても美味しくない」
浩瀚は笑う。
「狼は美味しいと思うでしょう」
「……」
私は浩瀚を見、視線を下げた。
「食べられそうになったら……倒すからいいんだ」
「それは恐い」
浩瀚は声を上げて笑った。
私はその心地よい笑い声を聞きながら、小さく溜め息をついた。安堵に心が落ち着いてくるのを感じる。
浩瀚に感じた不安も今はない。
「別に……。浩瀚に触れられたり、囁かれるのが嫌なわけじゃない……」
どちらかといえば、好きだし。
ただ――。
そう。
不意打ちがいけないのだ。
困る。
心臓が止まる。
ちらりと浩瀚を見上げれば、極上の笑みが返ってきた。
反則だ、と思う。
心臓が高鳴っている。
やっぱり、免疫をつけて、心臓を鍛えて、対抗できるようにならなければ――。
「……だから、その……」
このままでは食べられてしまう――。
「明日から、特訓よろしく……」
消え去るくらい小さな声で呟くと、浩瀚が笑う。
諾、と返ってきた声はとてもうれしそうだった。
了
【THANKS 55555hit】
2003.12.18