リクエスト「浩瀚×陽子」 亜美さんへ。
『五百年』
慶東国赤王朝。
長く続いた女王の統治は、今年で五百年を数える。その、五百年目の祝賀を前に、女王の治世を長きに渡って支え続けた冢宰――浩瀚が、その任を降りることが正式に発表されたのは、夏の初めのことだった。
見えるのは、淡い色調の模様が入った白い壁に、輝く柾目の床。決して狭くない堂室には、棚も椅子も卓も、なにもない。
埃ひとつ落ちていなかった。
「何もなくなってしまったな」
ポツリと呟いた言葉さえ、部屋の壁に反射していつもより大きく聞こえた。
浩瀚は、今まで自室として使っていたそこに立ち、新築の家を見回すような思いで苦笑をもらした。
何百年か前に改装した記憶があるけれども、そのときも改装が必要なのかと疑問に思うほど綺麗だったような気がする。
あの時も書物の移動が大変だった。
「こんなに広かったんだな」
ポツリと呟くと、
「こんなに広かったんですよ」
笑いを含んだ声に振り返れば、端整な顔つきの青年が腕を組んで入り口の柱にもたれていた。外見は二十代前半。一瞬、男装の麗人かと思うほどの美青年だった。痩身で、切れ長の目と眉、通った鼻筋は人目を引く。
浩瀚は目を細め、相好を崩した。
「夕暉、いたのか」
新たにこの部屋の主となる青年は苦笑する。
「先ほどからね」
赤王朝の要の一人、夏官長をはじめ州候を歴任した彼が、浩瀚に代わって冢宰になることを反対する者はいない。夕暉が五百年前に作った大学入学の最年少記録はいまだ塗りかえられていなかった。
夕暉は柱から離れ、浩瀚の横に並んだ。
「書庫代わりに、ずっとここに置いたままでもよかったのに」
「そういうわけにもいくまい。新しい冢宰には、綺麗な邸宅を引き渡さなくては」
夕暉は肩をすくめると、腕を組み、溜め息をついた。
「どうせ使わない堂室が余るだけなんだけどなあ」
金波宮において浩瀚が冢宰であった時分、官邸の主は浩瀚ではなく書物であったと誰もが口にする。だが今、書斎だけに収まらず、客室や寝室まで埋まっていた書物の数々はすべて姿を消していた。
「それでは、この先、置く場所に困ったら、夕暉に助けを求めるとしよう」
「期待していますよ」
浩瀚は穏やかに笑い、壁に手を触れた。
こんな柄の壁だったのだな、と思っているのが、夕暉には手に取るようにわかった。
同じことを、夕暉も思ったから。
夕暉にとっても、五百年もの間、通い慣れた場所だ。この官邸に自分が住むことになるとわかってはいてもピンとこなかった。
今まで書棚によって見えなかった壁や柱、窓が現れて、まるで別の部屋に来ているかのような錯覚さえおこる。
夕暉もかなり本を読むが、彼の場合は自分で買わずに図書府を利用したり浩瀚から借りたりするため、書物がたまらないのだ。裕福に生まれた者と、そうでないものの差であろうと夕暉は思う。同じく六官長のひとりである楽俊も本が好きだが、彼も父親が残したという古い書物以外は人へと渡してしまう。
もっとも、浩瀚が収集している書物は、世界で一、二冊あるかどうかという貴重なものばかりで、原書も多い。今回、浩瀚はかなりの書物や資料を国に寄贈したが、稀少な書物は手元に残したままだ。
夕暉は無意識のうちに溜め息をついていた。
「ここへ来るのが本当に楽しかった」
夜がふけるまで政について話したり、情報を交換したり、酒を飲んだり、ただ遊びにきたり。
浩瀚が振り返り、目を細めた。
「場所が移動しただけだ。今までのように気楽に来ればいいだろう」
「……」
夕暉は微苦笑をもらした。
「無理ですよ」
これから先、浩瀚の部屋に訪れることはできなくなる。浩瀚は気楽に来いというが、そういうわけにはいかないのだ。
――今度は自分の部屋にみんなが集まることになるのだろうか？
そんな想像もしてみたが、すぐに打ち消した。
賑やかな場所も、お茶を出すのも嫌いではないが、夕暉は自分が主催して話すよりも、賑やかな会話を静かに聞いているほうが好きだった。兄がいれば一緒に暮らすことも出来ただろう。だが、虎嘯は赤王朝が安定したと判断したときに仙籍を離れていた。いかにも兄らしい、と夕暉は思う。虎嘯は「おまえも来るか」とは言わなかったし、夕暉も兄とともに仙籍を抜けようとは思わなかった。
こんなときに兄さんを懐かしく思うなんて――。
「夕暉」
静かな声に顔を上げれば、浩瀚が真っ直ぐに己の後任となる青年を見つめていた。
「主上はそのようなことを気にする方ではないだろう」
「……」
夕暉は、赤髪の王を思い浮かべた。
「それは……そうですが」
「むしろ、今の状態からお前たちの態度が変化するのであれば、あの方は迷うことなく元の状態に戻すことを選ぶ」
浩瀚は、ふ――と表情を柔らかくして、楽しげに笑った。
「そうなると、困るのは私だと思わないか？」
「……」
夕暉は目を見開き、ぷ、と吹きだしてしまう。
「ははっ」
確かに――。
肩の力が抜けた。
「そうですね、あの人は――そういう人だ」
おかしくて、なぜか泣きたくなってくる。
何も変わらない。
あの人は変わらない。――あの、暁の女王は。
だから、変わらずに今がある。
夕暉は笑って、先ほどの発言を謝るように、拱手した。
「これからも通わせていただきます」
これからも、夕暉は浩瀚の部屋へと気軽に行っていいのだ。
「歓迎するよ」
きっと、暁の女王も歓迎してくれるだろう。――笑顔で。
浩瀚が穏やかに笑い、視線を夕暉の背後に向けた。
回廊を誰かが歩いてくる足音がした。浩瀚――もしくは夕暉を捜しているのだろう、各堂室ごとにいったん足音が途絶える。二人は、足音だけで人物を特定して顔を見合わせた。
「今日は主上の側にいるはずだが」
「ですよね」
案の定、足音が近づき、甲冑の音とともに姿を見せたのは禁軍将軍だった。
「ああ、こちらにいらしたんですか」
青い目の男は、目的の人物を見つけるとホッとしたように相好を崩した。
綺麗になった室内を見回して口笛を吹いた。嬉しそうに笑う。
「綺麗さっぱりなくなりましたね。――ま、新たな樹海が移動したってだけですけど」
「――何か用か？」
浩瀚が問うと、将軍はやんわりとした笑みを浮かべた。
「お二人とも、主上がお呼びですよ」
「主上が？」
「祥瓊と鈴殿を筆頭に、女御らがやたら張り切っておりまして。――助けてもらいたいのだと思います」
こほん、と桓タイは咳払いし、声をひそめた。
「婚姻なんて止めてやるー！ と言い出すのも時間の問題かと」
浩瀚と夕暉は、ともに苦笑をもらした。笑い事ではなく、本当に言い出しかねない。
「それは困るな」
浩瀚はくすりと笑う。
「それでは、捕らわれの姫を助けに行こうか、――冢宰殿」
夕暉は背筋を伸ばして、浩瀚に向かって拱手した。
「――御意」
浩瀚は冢宰の任を降り。
居を正殿に移す。
慶国赤王朝五百年目に、女王は婚姻を内示。
大公となったのは、元冢宰であった。
了
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2005.02.23