雁国異聞
『王の教育』
「朱衡」
官府から朝議に向かう途中、背後から声をかけてきたのは禁軍将軍の成笙だった。
秋官長朱衡を先頭とする一団の足が止まった。下官が道を開け、成笙に拱手する。
「おはようございます。――どうしました」
おっとりと朱衡が問うた。
成笙は細長い木の箱を持っていた。彼はそれを片手で持ち、挨拶をするかのように顔の右横に上げた。
「冬官府からだ。将軍府に届いたが、頼んだのはおまえだろう」
「ああ――。わざわざありがとうございます」
朱衡は相好を崩した。細面の端正な顔が嬉しそうに笑み、成笙から箱を受け取る。
成笙が片眉を上げた。
「剣か？ 珍しいな」
「見ていないのですか？」
きょとんと朱衡が瞬く。成笙は顔をしかめた。
「先に見てもいいものなら、先にそう言ってくれ」
「これからはそうしましょう」
朱衡が笑う。
府史たちが朱衡の手元を注目していた。朱衡は軽く笑むと、期待に応えてその場で箱を開けた。瞬間、中から紙が一枚落ちる。反射的に動いたのは成笙、床に落ちる前にそれを拾って紙面に目を走らせた。
「取り扱い説明書……手首は柔らかく、人を招くように動かす……？」
成笙が呟いた瞬間、頭上を高速で何かが走った。
――ビシッイ！
空気が鳴った。いや、朱衡が持つ黒塗りの鞭が床を弾いたのだ。
辺りはシン、と静まり返る。その場にいた、朱衡以外の全員が硬直していた。
「しゅ……朱衡？」
「だ、大司寇……」
問う者たちの頬が引きつっている。
黒光りする革の鞭は、騎獣に使うものとは違って柄の部分から縄のように革紐が伸び、妙に長かった。
朱衡は周囲の驚きを無視して説明書を読んでいる。
「手首は柔らかく……」
朱衡がもう一度手首を曲げると、まるで釣竿のように鞭がしなう。空気が鳴るが早いか、今度は二メートルほど先にある柱に巻きついた。鞭はピンと張り、みしりと音をたてて革紐が締まった。
ほう、と溜め息をついたのは朱衡だ。うっとり、という表情。
「さすが範国の特注品……良い出来です」
付き合いが長いためか、いち早く硬直から解けたのは成笙だった。
「範国から仕入れたのか」
「ええ、以前から冬官府にお願いしていました。猿を調教できる物を、と」
「……猿」
「猿です」
ゾッとするような笑みを朱衡は浮かべる。ふふ、ふ、と楽しげに笑った。
「………………」
「…………」
「……」
官吏たちは震えつつ背筋を伸ばした。もはや、誰に使うのかを問う必要もない。
ここには、昨日から行方不明になっている大猿がいた。
この場にいる者たちは視線を交わす。雁国玄英宮、王が猿なら麒麟も小猿、官吏も猿。
見猿
言わ猿
聞か猿。
一斉にうなずいた。
――見なかったことにしよう。
それが彼らの不文律。
了
【十二国記御題百選／037】
2004.07.08