慶国異聞
『キセキ』
「十年か……」
慶東国の王宮――金波宮。
露台から見える雲海の波を眺めながら、ポツリとつぶやいたのは赤い髪が鮮やかな慶国の王だった。
「まだ……十年……。もう……十年……。やっと……十年……」
どの言葉が一番適しているのだろう、と陽子は思う。
「浩瀚はどう思う？」
「どうとは？」
背後から、ゆったりと落ち着いた声が返って来た。
陽子が振り返ると、露台に用意された茶席で書類に目を通していた男が下官にそれを預けた。下がる下官を見送って、怜悧な容貌の冢宰はくすりと笑った。
「三百年の王朝を築いた者には＜まだ＞かもしれませんが、時間は人の過ごした内容によって感じ方が大きく変わります。がむしゃらに働いてあっという間に時がすぎることもあれば、何もしないであっという間に時がすぎることもある」
「うん……」
「主上にとっては最初の十年。それを短く感じたのか、長く感じたのか判断がつかないというのであれば、それだけ懸命に生きたということ。働いた、ということです」
「そう……なのかな」
浩瀚は目を細めた。
「主上が即位した年に生まれた子が十歳になっている。その子供が成人して、婚姻し、子を産み、育て、そして、その子供がまた子を産む。私たちは国を育てる親であり、えてして子供の成長は早いものです」
「あっという間、なんだろうな」
「あっという間でしょう」
この十年、とてつもなく多くのことがあった。
たくさんの人に支えられた。
この世界に来て。
故国を失って。
新たな国を得て。
戦って、戦って、そして得たものも、また多い。
楽しいこと、苦しいこと、大変なこと。
決意、説得、判断、決定、決断、後悔、歓喜……。
きっと、それの繰り返しなのだろう。
陽子は溜め息をついて小さく笑った。
「頑張って育てないと」
浩瀚もまた微笑む。
「主上」
浩瀚は立ち上がり、陽子の隣に並んだ。
「即位十年の祭礼――それは十年の子育ての苦労に対するねぎらいのお祝いですよ」
柔らかい笑みが陽子に降り注ぐ。
「国庫のことなど気にせず、素直にお受けなさいませ」
即位十年を記念しての式典は無用と口にした陽子に対する、それが浩瀚の返事だった。
了
【十二国記御題百選／090】
2005.03.01