慶国異聞
『お休みください』
ふう、と息を吐いて肩をまわす。
身体にまとう熱気が、疲れを倍増させるような気がした。蓬莱であれば、学生はすでに夏休みの最中だ。
本来、不夜城であるはずの王宮で一番輝いているはずの正寝は、金波宮に限っていえば、使用箇所が少ないために、明かりもまた少なかった。
正門を通ると、奥まで続く回廊と、通りの控えの間、必要最小限の明かりだけがともる。慶が貧乏だから蝋や油を惜しんでいるわけではなく、ただ単に路寝へ出入りできる人間が少ないので、全部の宮に明かりをつけるには人手が足りないのだ。
もちろん、節約になっていい――とは思うけど。
「もう少し明るいといいんだけどなあ……」
回廊を歩きながらつぶやくと、その呟きがひどく大きく響いた。
足元は明るいが、そのぶん外の闇が深くなる。護衛のかわりに景麒の使令が遁甲してついているが、暗闇の中から重低音の驃騎や重朔の声などがした日には、ちょっとしたホラーだった。
「納涼肝試し大会でも開けそう……」
そんなことを提案したら、すぐさま景麒の雷が落ちるだろう。
この世界には、お化けとか幽霊とか、妖怪といった存在はあるんだろうか？
あくびを堪えて臥室に向かうと、控えの間から明るい笑いが響いている。祥瓊と鈴がいることはすぐにわかった。
「楽しそうだね」
衝立から私が顔をのぞかせると、ふたりは短い悲鳴をあげて立ち上がった。
「陽子……」
その表情が安堵に緩んだ。二人とも、大げさな仕草で胸をなでおろしている。
自分では良くわからないのだが、足音をたてなかったり、気配がないまま急に声をかけるので、今に限らず驚かれてしまうことが多々あった。
祥瓊が白湯を用意してくれる。
「もう終わったの？ 早かったわね」
「うん。今日は早くお休みくださいだって」
「そう」
了承したように、祥瓊はにっこりと笑った。
「お疲れ様でした」
「ん」
あと一刻はかかる予定だった浩瀚の講義は、今日はいろいろなことがあったからお疲れでございましょう、との言葉を最後に終了した。
涼しげな顔をしていたが、疲れているのは冢宰のほうに違いない。通常の政務のほかに、戴国についての対策、雁国との話し合いと調整に追われる日々が続いている。
手紙により範西国から氾王が直々に来訪されていることがわかったのは昨日のことだ。当人が希望するように、今日は公的な客ではなく私的な客としての招きではあったが、そのまま堯天の舎館に帰すわけにもいかず、二人を引き止めたのだが、氾王は天官が用意していた掌客殿を一目見るなり「趣味が悪い」と一蹴、内殿の園林にある淹久閣に移ってしまったのだった。報告してきた天官によると、そのあとも調度品などを入れ替えたり移したりと、おおわらわだったらしい。
客人の好きなようにさせるようにと伝えたが、御庫まで開放することになり、賑やかな声は外殿にまで聞こえてくるほどだった。理由を知らぬ者たちは、内殿で大掃除でもしているのかと思ったに違いない。
王族の突然の来訪は雁国主従で慣れていたのが幸いだな、と景麒に言ったら渋い顔をされてしまったけれど。
「ふたりがここにいるなんて珍しいな」
「ふふ」
鈴が嬉しそうに目を細めた。
「李斎さまが、もうひとりでも大丈夫だって」
「そうか」
李斎が半死の身で金波宮に来てから今まで、彼女の面倒を見ていたのは鈴だった。かつて、救いたくても救えなかった命を知っている鈴には、李斎の快復は誰よりも嬉しい出来事に違いない。
ご苦労さま――と言いかけて、私は言葉を言い直す。李斎の看病は大変であっても、鈴にとっては決して苦労ではなかったはずだから。
「よかったな。元気になって」
「うん！」
鈴は自分のことのように嬉しそうに笑った。
私は白湯を口に運ぶ。暑い夏には冷たい飲み物が当たり前だと思っていたが、こちらでは暑いときにこそ暖かい飲み物というのが常識らしい。不思議と甘く感じるけれど、実際はただ沸騰させただけのお湯だという。
「賑やかだったけど、何か面白いことでもあったのか？」
「そうね、面白いことっていうか……」
鈴が口を拳で押さえて微苦笑をもらした。
「範国のお方が、ちょっとね」
「何か問題でも？」
掌客殿でもめたということは二人の耳にも入っているようだった。
「牀榻はひとつでいいんですって」
「……え？」
私は瞬いた。寝台がひとつ？
「形が気に入らなかったのかな」
「やだ、ちがうわよ」
祥瓊が吹き出した。
「一緒に寝るってことでしょう」
「あ――そ、そっか。――――え？」
祥瓊が苦笑をもらした。
「被衫もいらないんですって」
「……」
寝間着もいらない？
思わず瞬いてしまった。
「えっと……」
「楽でいいわねえ」
それは、つまり……。
男女が、裸で、ひとつのベッドに寝る……ということだろうか。
「ええっ……」
真っ赤になった私を、二人は笑った。
「美容のためですって！」
「そ、そう……」
祥瓊は私を見て吹き出すように笑うと、表情を改めて、厳しい顔で大きな溜め息をついた。
「覚悟しておいた方がよさそうね。あの二人、私的な招きとはいえ、他国の王宮だっていうのに、しょっぱなからこれだもの。相当やっかいよ」
「はは、は。そうだね」
私は笑った。まさか、のちに祥瓊の予言が当たることになるとは、露ほども思わず――。明日には、氾王の不興をかった掌客の官にかわって、祥瓊がその任をひとりで受け持つことになる。
でね、と鈴が小首をかしげた。
「祥瓊と一緒に、今日は裸で寝てみようかって話をしていたの」
「――――」
私は瞬いた。
「裸で？」
「美容のためにね」
「寝るのか？」
「うん」
「そ、そう。……虎嘯や桂桂が来たらびっくりするんじゃ……」
二人は弾けるように笑った。
「やだ、もちろん、二人が来る前に起きるわよ」
「その前に、女性の部屋に無断で入ってくるなんて、そんなしつけはしていないつもりよ？」
「……そ……そう……」
裸で就寝――なんて、変なことがブームになったらどうしよう……そんな考えを読んだわけではないだろうが、祥瓊がくすりと笑った。
「なんて。本当は、暑いから裸だったら涼しいんじゃないかって話」
鈴が無邪気に首をかしげた。
「陽子も裸で寝てみる？」
私は慌てて顔を左右に振り、ひとつの提案を口にした。
「それより、今日はここで一緒に寝ないか？」
もちろん二人とも寝間着でね、と言うと、二人の顔が笑い声とともに華やいだ。
了
【十二国記御題百選／017】
2005.10.06
叶恭子（裸族）な氾王と氾麟。
いや、下着くらいは身に着けていると思うけど。