慶国異聞
『祭りのはじまり』
「陽子……！」
陽子陽子、と何度も呼びながら金波宮の内殿を走るのは金の髪をなびかせた少女。
本来、麒麟しか持つことの許されぬ髪の持ち主は一国に唯一人。その慶国の麒麟を見つけて、
「景台輔！」
息を切らした少女は叫び、その場から跳躍した。
「氾台輔……！？」
めったに表情を変えることのない男が驚いた表情で手を差し伸べた。範国の麒麟はその手に可憐な手を重ね、羽毛が地面に落ちるかのように足を床につけた。少女に遅れて、頭から被っていた蠱蛻衫が重力に従ってふわりと落ちる。
ふう、と男は息を吐いた。
もともと麒麟は身軽だ。しかも仙骨で体重自体も軽いとはいえ、ここは蓬山ではなく他国の王宮なのだ。自由奔放にもほどがある。自国の者であれば王宮内を走るなどとんでもないと注意叱咤もできるが、相手は同じ麒麟だ。――もっとも、だからこそ問題ともいえるが。
常日頃から感情をあまり表にすることのない男は意識して冷静を保ち、落ち着いた声で言った。
「氾台輔、どうしたのです」
氾麟は顔を上げると、軽く息を整えた。
「陽子は？」
「……主上に用が？」
景麒は軽く眉を寄せた。また主を誘って城下にでも行くのだろうか、と思う。
氾麟は乱れた呼吸を整え、ひまわりが咲くかのような笑みを見せた。
「景王にお礼が……」
「お礼？」
「お礼が言いたくて」
陽子はどこ？ と可愛らしい笑みを浮かべる少女に王気の感じる場所を伝えると、氾麟はさらに明るく笑って手を振った。
「ありがとう！」
そのまま跳ねるように回廊を走りぬけていく。
景麒はやや呆然としつつ、主が何か差し上げ物でもしたのだろうかと首をかしげた。
台輔、と地面から低い声がした。驃騎だ。
「延台輔が参ります」
「延台輔が？」
今度は何だ、と景麒が怪訝に眉をひそめた直後、まるで先ほどの再現を思わせる登場で隣国の麒麟が姿を現した。
「景麒！」
弾むような元気な声。
跳躍してきた少年は、景麒の目の前で蛙のような格好で着地すると、すっくと立ち上がった。
雁国延麒。名を六太という。
「陽子はどこだ！？」
外見年齢は景麒の半ばほど。だが、景麒よりもはるかに長い時を生きた麒麟は、明るい鬣をなびかせて「陽子はどこだよ！」とぞんさいな口調で拳を上下に振り急かした。
景麒は眉をひそめた。
「いったい何事ですか」
「礼が言いたいんだ！ 早く、陽子はどこだって！」
「礼が……？」
景麒は怪訝を通り越し、不審な表情となって同胞を見下ろしている。
「主上でしたら西の休憩所あたりに……」
「サンキュ！」
景麒に最後まで言わせず、蓬莱の言葉で礼を言うと、六太もまた景王の元へと駆けて行った。それを見送ったあと、景麒はしばらく考え込むように視線を走らせた。主の気配がする場所に、ふたつの明るい気が近づいていくのがわかる。
三人の間に何かがあったのは確かだが、景麒にはそれがなんなのか想像もつかない。
景麒は一度は府庁に向かって足を進めるも、ふと立ち止まり、数秒の沈黙のあときびすを返した。なんとなく苛立つのは、自分が仲間はずれになっているような気がするからだ。
一応、状況も把握しておく必要がある、と景麒は理由をつけた。
「いったい……」
向かう先は、明るい気を放つ。
「何をされたのだ……」
景麒にとっては、ただひとつの光を目指した。
「ああ、景麒」
よく来てくれた、と。
その声には、安堵と苦笑を混ぜた響きがあった。
赤い髪と緑の瞳が鮮やかな女王は、床に倒れたまま手首を振って宰輔を迎えた。
景王赤子、名を陽子という。即位した年齢も若いが、実年齢もまだ二十歳を過ぎていない。
景麒は主を呆然と見下ろした。
「いったい何事です」
「いやぁ〜」
あはは、と苦笑いを漏らす少女の腰には、金の髪の少女と少年が抱きついている。あの勢いで二人に跳びかけられて、そのまま床に倒れたものと予測はついた。
この場には、冢宰浩瀚のほかにも祥瓊など近侍の者もそろっている。
「台輔、こちらへどうぞ」
倒れたままの女王と二匹の野猿を放ったまま、浩瀚が立ち上がって景麒に席を勧めた。
「陽子ー！ お菓子できたよー」
桂桂を先導にして、玉葉と鈴が現れた。女性ふたりが持つ盆の上には、それぞれ茶器と菓子器が乗せられている。甘い匂いの元は焼き菓子だ。
老婦人の目が景麒を捕らえ、やんわりとした笑みが浮かぶ。
「まあ、台輔まで」
しかし、近づいてきた玉葉の足が止まった。彼女は足元を見て軽く目を見開き、まあと笑った。
「匂いに惹かれていらっしゃったのかしら」
「え？」
続いた鈴が瞬き、その理由を悟る。
「陽子……！ 延台輔に氾台輔も……！ どうしたんですか！」
微苦笑を漏らしたのは浩瀚だ。
「ずいぶんと懐かれたものですね。――さあ、お二方、甘いものを用意致しましたのでどうぞ」
浩瀚が差し出した手を陽子がつかむ。六太たちが身体を起こすと、浩瀚は握った手を引いた。
六太は桂桂に「よっ」と気楽に挨拶をして椅子に腰を下ろしたが、氾麟は再び陽子の腕に抱きついた。
「陽子、本当にありがとう……！」
陽子は苦笑するばかり。
「そんな、感謝されるようなことは何もしてないですよ」
「ううん！ 感謝してもしきれないわ！ 範西国すべての民に代わって御礼を申し上げます」
「そんな、大げさな……」
「主上」
景麒は眉間に皺を寄せて陽子を真っ直ぐに見つめる。
「いったい、なにをされたのです」
「や、特には……」
「何もしていないのに、そのように感謝されているのですか？」
「うん……」
陽子の答えは煮えきらない。
くすりと祥瓊が笑った。浩瀚もなにやら笑いを堪えている。
「――浩瀚」
景麒は、この場でちゃんと答えてくれそうな者に視線を向けた。
浩瀚は視線を陽子に向け、軽く目元を和ませてから景麒を見た。
「今朝のことですが、延王君と氾王君がそろって主上へ会いにいらっしゃったのです」
「ああ――そのことならば知っている」
「延王が突然、もし俺たちが失道し、国が傾いたら陽子はどうする――と主上に問われまして」
範国は対にある国だから直接慶国に影響はないが、雁国が傾くとなると大事だ。
もし延王が失道したら……と、しばらく口に拳を当てて考え込んだ陽子は、
「きっと氾王が喜ぶでしょうね」
と、言ったのだった。
――そのことを思い出し、祥瓊が吹きだした。
それはあまりにも予想外の言葉だったのだろう。延王は一瞬ぽかんとした表情となり、ハッ、と笑ったのは氾王だった。
「陽子はよくわかっておるようだ」
愉快愉快、と笑う氾王に、延王は噛み付きそうな視線を送る。
陽子はさらに氾王を見つめ、にっこりと笑った。
「氾王が失道したら、延王が喜ぶと思います」
「ははは！ 当然だッ！」
延王が高笑う。
「お前が斃れた日を雁の祝日にしてやろう！」
「聞き捨てならないね。それはこちらの台詞だよ」
バチバチとやりあう二人を陽子は目を細めて見つめ――。
「主上はこう仰いました――」
浩瀚は軽く咳払いをした。
「氾王が治世を終えたら、延王はあいつはえらそうなことを言いつつ結局それだけで終わりかと嘲笑うでしょうし、逆に延王が六百年で治世を終えたら、氾王はなにがあっても延王よりも長く治世を布いて、延王を嘲笑うと思うんです――と」
一言一句間違えることなく口にした浩瀚に、それを知る者たちがおおお、と称賛の声をあげた。
景麒は、頭を抱えた。
「主上……」
「いや、だってな」
陽子は慌てる。
「二人の性格を考えると、もっともな話だろう？ そう言っておけば、競争心からどちらも相手より先に失道してたまるかって思いそうだし、そうなったらいつまでも治世が続きじゃないか」
「それはそうですが……」
六太も梨雪も、戻ってきた主から「延麒より先に失道するでないよ」「氾麟よりも先に失道したら絞め殺すからな」――という勅命を受けたのだという。
梨雪は軽やかに笑ってから、可愛らしい唇を尖らせた。
「主上ったらひどいわ！ まるで私たちが失道して国を傾けるみたいに言うんですもの。私たちが失道するのは王のせいなのに！」
「そうだよな！ 俺らよりお前らの問題だっての！」
六太は焼き菓子を口に放り、楽しげに笑った。
景麒は眉をひそめる。
「それにしても、他国の失道を待ち望むなど」
「いいのよ！」
氾麟がくすくすと笑った。
「あの二人はそれがちょうどいいの！」
六太と氾麟は声をそろえた。
「陽子はよくわかってる！」
了
【十二国記御題百選／015】
2007.03.25