戴国異聞
『居場所』
広徳殿の庭院で、大木を見上げてたたずむ青年がひとり。
「正頼」
声をかけられて振り返ると、正殿へと続く回廊で赤茶色の髪をした大柄の女性が何をしているのかと問いたげに立っていた。
髪をまとめず、長い髪を背中に垂らしたままの姿は女性にしては珍しい。それもそのはず、皮甲を身にまとった彼女は瑞州師の将軍だった。
「ああ、李斎、良いところへ」
正頼はホッと息を吐いて微笑むと、再び大きな広葉樹を見上げた。
李斎は首をかしげると、庭院へと入り、正頼の隣に立って同じように視線を上に向けた。
「なにか？」
まさか台輔がいるのだろうかと思ったが、そこに人の姿はない。ホッとしつつ、太い枝を辿って視線を上げて行くと、大木の中ほどで白い何かが動いた。
李斎は目をこらし、あっと声を上げた。
「子猫――？」
「ですよねえ」
やはりと言いたげな苦笑を正頼は漏らし、呑気に言った。
「誰か、飼っているんですかねえ」
「どうしてあんなところに……」
子猫がいる位置は、堂屋の三階ほどの高さだ。視線を走らせ、枝が回廊の屋根にかかっているからそこから渡ったのかもしれない――と予測はついたものの、問題はなぜ王宮に猫がいるのか――だ。大きさからして、今年の冬に生まれたばかりだろう。
府邸では青鳥を取り扱うし、王宮の深部には鳳凰や白雉、鸞など五種類の霊鳥が住まう梧桐宮がある。万が一何かが起こってからでは遅いと、基本的に王宮内では猫の飼育が禁止されている。
耳を澄ませば、みぃみぃと鳴く声が聞こえてくる。
「降りてこられないのか」
「李斎、捕まえることはできますか」
「……やってみよう」
放置しておくわけにもいかない。
李斎は足場になりそうな枝を目測で選んでいき、皮甲を脱いで身軽になると、助走もなく、軽く身を屈めてから飛び上がった。
ハッ、という軽い声に正頼が視線を向けたときには、女将軍の身体は大木の上にあった。掴んだ枝を懸垂して上がると、もう次の枝に飛び乗り、目的の場所まで向かっていく。
「おお」
パチパチと、足元から拍手する音がして李斎は苦笑をもらした。
正頼は思わず口笛を吹いてしまう。
「これは驍宗様じゃなくても惚れるなあ」
その声は李斎には届かない。
李斎の剣技を見た者は「風伯のように剣を振るう」というが、確かに風に乗っているような錯覚を覚えるほどに彼女は身軽だった。
そして、力強い。
もともと仙人だから骨は軽いが、普通の女性には自分の身体を片手懸垂で持ち上げることは出来ないだろう。
李斎が白い物体との接触に成功し、正頼は声を上げた。
「猫でしたか？」
「ええ」
おいで、という李斎の声が正頼のところにも聞こえてくる。警戒している動物に手を差し出す女将軍の姿に、正頼は「あっ」と思う。
「もしかして……」
李斎の様子が、ひとりの子供の姿と重なった。
城下へ降りたときに、猫を見つけて嬉しそうにしていた宰輔泰麒。膝を丸めてしばし見合ったのち、子供は右手を差し出した。
――おいで。
「台輔、か」
正頼は小さく笑むと、胸元に子猫を入れて降りてくる李斎に目を細めた。
「李斎、ありがとうございます。――この後、台輔のところへ？」
「その予定だが」
「でしたら、その猫も連れて行ってください。きっと、探していると思いますから」
「台輔が？」
――言って、猫の飼い主が誰かに気づいたのだろう。
「まあ」
ふわりと、李斎は微苦笑をもらすように目を細めた。
李斎が瑞州師の将軍になった祝いにと、鮮やかな花束をくれたように、小さな麒麟のもたらすひとつひとつが、無機な王宮を温かいものにしていくのが分かる。
その存在に。
その心根に癒される――。
回廊の先に、うろうろと何かを探すように歩く泰麒を見つけて、李斎は心から微笑んだ。
了
【十二国記御題百選／024】
2008.04.14