戴国異聞
『冷たい視線』
騎獣を手に入れるため、仙籍を抜け、安闔日のたびに黄海へ入って三度。一度入ると三ヵ月は出られないため、すでに黄海で暮らして八ヵ月が過ぎようとしている。
そう簡単に捕らえられるとは思ってもいなかったが、こんなにも見つからないものだとも思っていなかった。
最初の三ヶ月は黄海で暮らす術を覚えることに費やした。
次の三ヵ月は妖魔と妖獣の巣穴の違いと妖獣の捕獲方法を覚え、ようやく今、狙う妖獣の住処を探している。
無事に捕らえることが出来たとしても、調教には軽く一年かかるというから、国に戻るのはいったいいつになるのか想像もつかない。
――その日。
天犬という妖魔に襲われている少年を見つけたのは、妖魔が活動する夜ではなく真昼だった。
助けようと剣を抜き、妖魔を斬りつけようとしたら、その少年に制止された。
「大丈夫」
それは荒げるわけでもなく、静かな声であったのによく響いた。
「危害は加えない」
頭から外套を被った少年はそう言って、綺麗な手をためらいもなく妖魔に手を伸ばして嘴をなでた。
「ろくた」
彼が紡ぐ不思議な言葉。それが妖魔の名であることに気づいてハッとした。
決して人に懐くことのない妖魔を従えた人間がいることに驚き、それと同時に、それが可能な唯一の者を私は知っていたからだ。
――麒麟。
「蓬山公――。使令でしたか、失礼をいたしました」
今現在、蓬山には二国の麒麟がいるという。今は昇山者が下山の時節だ。
膝をついた自分に少年はくすりと笑い、頭にかけていた外套を脱いだ。
「ろくたは使令じゃないよ。麒麟の髪――鬣の色を知っているだろう？ 僕は黒だ」
その髪は、漆黒というより青みを帯びている。年の頃は十六歳前後。では、どこかの王なのだろうか。
私の思考を読んだのか、少年は再び外套を被って口角を上げた。
「王でもない。ただの人」
――ただの人が妖魔を従えることなどありえない。
だが、その穏やかな少年の気が、老成した独特の雰囲気を放つ天仙のものであることに気づき、それ以上の追求をやめた。
身につけた珠玉の飾り。妖魔すら従える黄海の住人。それは、すぐに犬狼真君という号に結びついたから。
少年は妖魔の首元を撫でながら首をかしげた。
「昇山者ではないね」
私はうなずいた。少年の目は探るように私を見る。
「だが朱氏でもない。妖魔に慣れている。――麒麟を見たことがある？」
一瞬、脳裏に走った姿に息を飲み、私は静かに答えた。
「……ある」
少年は視線を真っ直ぐ私に向けると、そう、と少し笑みを浮かべてつぶやいた。
パチ――。
火を絶やさぬよう薪として入れる枯れ木の爆ぜる音が静かに響く。
「国はどこ？」
「戴だ」
夕餉の時刻になり、合流した朱氏はこの少年が犬狼真君だと気づいたのか遠慮して近づいてこない。だが、どこか浮つき、気になる様子だけはどうしても伝わってくる。
天仙は人とは交わらぬものというが、たまには人恋しくなるのだろうか。それとも天犬を恐れない人間が物珍しいのか。
私は小さく笑った。
「そういえば、台輔の獣型も一度だけ見たことがある。遠く、金の輝きを見ただけだが」
あの美しい姿を忘れることは一生無いだろう。今でも思い出せば溜め息が漏れる。
「心を惹きつけて離さないな、あれは」
世界に十二しか存在を許されていない輝きは、その国の太陽だ。王を照らし、国を照らすために存在する。
王が太陽で、麒麟が月だと称する者もいるが、それは実際に麒麟を見たことがないからだろう。民にとっては、王こそが太陽であるのだからそれも当然だが。
あれが自分のものであればどんなに良いだろう――。
側にいたらあの髪に触れたくなる。
触れて、焦がれて、焼け落ちてもかまわないほどに強く望んでしまう。
パチ――。
「……」
少年は首をかしげた。
「将軍なんでしょう」
「……ああ」
漏れたのは自嘲的な笑み。
「今は違うが。――軍人だからな。王宮でも麒麟は近寄らぬ」
「血の臭いがする？」
「さあ」
どうだろう、と私はつぶやいた。それこそ、自分が知りたい問いだった。
「……するのかもしれん」
――貴方の瞳は……血のようです。
どこか冷たい物言い。
それは、初めて台輔に声をかけられた緊張を解くほどに冷たい言葉だった。
顔を上げれば、冷たい視線が刺すように私を射た。
自分ではどうしようも出来ないことを責められたことはわかったが、おそらく、言ったのが麒麟でなければ、これほど傷ついたりもしなかっただろう。赤い瞳を紅玉や炎に例えはしても、血のようだと言った者はいなかった。
漏れたのは、微苦笑。
「台輔は正直でいらっしゃる」
その言葉にハッとしたのは台輔のほうで、短く謝ると、駆ける様にして踵を返してしまった。
そしてその夜、謝罪の手紙が届いた。
今でも大切に保管している――細い字の、短い言葉。
手紙に添えられていた可憐な花と、それを結ぶ紐。
――その紐は、今も髪を結うのに使っている。
常に避けられているのは気配からわかっていたけれど、それからは台輔自ら私に近づいてくることはなかった。
近くにいても怯えたふうを見せる。
それでもふと感じる視線に振り向けば、そこには金の髪の主がいた。
後から思えば、それは麒麟の「獣の性」が発した警戒だったのかもしれない。
「獲って喰われると思われているのではないか？」
同僚はそう笑っていたけれど。
おそらく、それは真なのだ。
私は確かに、あの獣を――。
あの生き物を。
あの存在を欲しているのだから。
「貴方に似ている人を知っているよ」
少年がつぶやき、私は顔を上げた。
「飄々としていて、ちゃらんぽらんで、貴方とはまったく似ていないけど。やっぱり、ろくたを怖がらなかった」
彼は、遠い目をして北東の地を見た。
「いつか、貴方と会うかもしれないな」
了
【十二国記御題百選／035】
2008.04.23