2　「春過ぎて　夏来にけらし　白妙の　衣ほすてふ　天の香具山」

　雁国玄英宮。
　夏の訪れを予感させる暖かくて爽やかな風が関弓を包み込むその日、王宮では官吏総出で、一斉に夏の衣を干すことが決められていた。
　もともと岩肌が白い関弓山は、さらに白く揺らめき、山の麓、関弓の街にも多くの衣が揺れる。
　王宮の行事と相まって、関弓でも各家々が夏の衣を一斉に干すため、その日は関弓が真冬のように白く染まるのだ。

「わ！　すごい！」
　関弓上空でも叫んだことを、少女は地上でもう一度口にした。
　奏国公主文姫。となりの町まで来ているとの青鳥を受けて迎えに出たのだが、確かにその光景は見慣れた俺でさえ溜め息をつくほど壮大で幻想的ともいえた。
　公主の求めに応じて関弓の街中に降りれば、風が衣の裾を揺らす音がなんとも清涼だった。
　公主は華やかな声で笑い、楽しそうに俺を見た。
「上から見るのも綺麗でしたけど、下から見るとまたぜんぜん違いますね」
　俺は上空を――関弓山を見上げ、そうだな、とつぶやいたが、いつもより多く、豪快にひるがえる一角を見て、眉をひそめた。
　公主が見に来ると聞いて、俄然張り切っているであろう部下の様子が目に浮かぶ。

　公主から青鳥がきたのは朝餉のすぐ後だった。
「将軍！　どちらへ！」
　毛旋が声をかけてきたのは、騎獣の手綱を握って移動している最中だった。訓練場には所狭しと紐が渡してあり、兵士たちが早速作業に取り掛かろうとしている。
　俺の肩には、公主から届けられた青鳥が止まっていたが、毛旋が右手を差し出すとその手に飛び乗り、腕を跳ねるように伝って肩へと移動した。
「公主が来る」
「え！　文姫様がいらっしゃるのですか！？」
　ざわ、とその場にいた者たちの手が止まった。
　各自が作業をやめて俺と毛旋の会話に耳を傾けている。話の流れによっては、現在の作業を中止するかもしれないのだから気になっても仕方がない。
　毛旋が問うように首をかしげた。
「こちらへ参られるので？」
「ああ。――だが、続けてかまわない」
「ですが……」
　俺は口の端を上げた。手紙に書かれていた文字を思い浮かべ――。
「なにしろ、それを――」
　顎で、毛旋の腕の中にあるものを差す。
「見に来るのだからな。――楽しみにしているらしい」
「えぇ！？」
　毛旋は驚き、だが、その瞳が嬉しそうに輝いた。拳を握って振り返る。そして――。
「聞いたか野郎ども！」
　叫んだ。
「やるぜ！！」
「「オーウ！！」」
　重低音の歓声が響いた。

　あの重低音がまだ耳に残っている。
「……やりすぎだ、馬鹿」
　俺の呟きに、彼女が瞬いた。
「何か仰いまして？」
「いや、なんでもない……」
「……？」
　文公主は小首をかしげていたが、俺の袖を引いた。
「ん？」
　何か伝えたいことがあるのかと身をかがめると、公主は口元を隠し、声をひそめて楽しげに囁いた。
「あれが『ふんどし』だなんて、ぜんぜんわかりませんね」
「……公主」
　少女は口に指を立てて片目をつむる。
「わかっています、内緒なのでしょう？」
　くすくすと楽しそうに笑って王宮の一角を指差した。
「あのあたりが将軍府ね！　一番真っ白だもの！」
「……」
　俺は、溜め息をついた。

　木の葉を隠すなら森の中――

　それは、王の一言からはじまった。
「ふんどしを一斉に乾す！　汚いもののように、こそこそと乾されていたものを穿いていたのでは息子が腐るわ！　洗え！　一斉に洗ってどうどうと乾せ！」
　と仁王立ち。
　おそらく、女御か女官と何かあったのだろう。
　夏の衣を干すのと同時に、男はふんどしを洗って乾せと、胸を張って叫んだ王は、実際にそれを断行してしまったのだった。
　阿呆か、と思うようなそれは、男性――文官武官の圧倒的な支持を受けて今でも続いている。
　真っ先に反対するかと思っていた朱衡ですら「みんなでやれば怖くないという心理が働くのでしょう」――などと、楽しそうに洗濯しながら乾すにいたって、もはや表立って反対する者はいなかった。
　女たちは恥じとばかりにふんどしを隠すように衣を干し、男たちは負けじとふんどしを乾す――その結果が、この初夏の風物詩というわけだ。

　ふう、と声にならない溜め息をついた。
　俺の袖をつかんだまま上空を見上げて歩く少女を見つめる。公主といっても、今は服装も髪形も普通の町娘と変わらなかった。それは、出会ったときから、変わらない。
　なぜ彼女が自分を慕ってくれるのか、正直、今でもわからない。
　公主が「あ！」と叫んだので、視線を上げると、山の中腹あたりを、白く長い布が舞っていた。風で飛ばされたのだろう。だが、すぐさま山から騎影が走り、それを拾い去っていく。
　それを見て、関弓のいたるところから拍手が起こった。
　公主も拍手していたが、楽しげに、問うような視線を向けられて、俺は肩をすくめてみせた。
「衣ならば良いが、下着を城下に落とすわけにはいかないからな」
「それで見張っているの？」
　公主はくすりと笑う。
　そうしている今も、白い布が関弓の上空を舞うたびに空行騎兵が出動、布を拾うたびに拍手が起こる。
　兵士にもそれはわかるのだろう。ときに手を振り返したり、空中妙技を見せたり。
　公主が、腕に頭を寄せてきた。
「大人気みたい」
「そのようだな」
　俺は微苦笑をもらした。

　了