77　「瀬をはやみ　岩にせかるる　滝川の　われても末に　逢はむとぞ思ふ」

　こんなところまで来てどうしようというのか。

　南の大国――奏の首都隆洽へ来て、すでに一日が経っていた。一年に一度の中期の休暇。だが、雁国と奏国をゆっくり行き来するには短い日数だ。帰路を考えればここにいることが出来る日は片手にも満たないというのに、俺はただ騎獣の綱を持ったまま、街を歩く。
　主に官許の武器屋や騎商をのぞくだけで、こうして歩いていたとて、偶然にしろ彼女に会えるはずもなく。
　いったい何をしたいというのか――俺は。
　前もって連絡を入れていたというのならともかく、奏に行こうと思ったのは休暇に入ってから。安闔口と重なるために、武官は黄海に騎獣を捕らえに行く者が多い。実際に誘われたのだが――。
　溜め息と共に見上げたのは隆洽山。
「成笙さま――？」
　声をかけられたのは、視線の下。
　きょとんと、大きな目をさらに見開いた少女が目の前に現れた。偶然というにはあまりにも出来すぎていて、一瞬、自分が作り出した幻ではないかと――。
　だが、その幻は数度瞬きしてから、うそ、と唇を動かした。
「――公……主」
　見上げていた山の頂に住んでいるはずの彼女が目の前にいた。
「やっぱり！　成笙さま！」
　笑顔を前面に、この国の至高の一人がパタパタと駈けてくる。
　奏国公主文姫。だが、着ている物はごく普通に町娘が身にまとう服装と変わらない。
「もう、信じられない！　どうしたんですか？　公務？　あ、また延王を連れ戻しに来たんですか？　それとも台輔？」
　彼女が出てきた店は茶屋。飲むところではなく、茶葉などを売っている老舗だ。ということは王室御用達の店、ということになるだろうが、そのような看板は掛かっていない。王族が日ごろ使う茶葉を王族自らがわざわざ城下まで買いに来ているというあたり、いかにも彼の国らしい。
　明朗な声で彼女は小鳥のようにさえずる。
「いらっしゃったばかりですの？　宿はこれから？」
　予想外の出会いに思考が回らず、言いよどむ俺に、彼女は小首をかしげた。
「成笙さま？」
「さまはいらないと……」
　眉をひそめると、少女はころころと喉を鳴らして笑う。
「はいはい。将軍」
　その表情は、子供の主張に笑って答える優しい母親のよう。だが、その対応はいつもの言葉の掛け合いでしかなく、きっと彼女はこりずに自分を「成笙さま」と呼び続けるのだろう。
「周囲の視線が後方に流れているから何かと思って振り向いたら将軍がいるんだもの、驚きました」
　彼女が王宮に背を向けて、俺と並ぶと、手綱を持たない腕にそっと手を絡めてきた。
　ふふ、と彼女は笑い、俺を見上げる。
「会えてうれしいです」
「家の遣いで降臨したのではないのか？」
　敬語を使うとしつこいくらいに彼女が怒るので、公式な場所以外では普通に話す。
「はい。今度、将軍にも飲ませて差し上げますね。今、昭彰と一緒に蓬莱の茶道を習っているんです」
「……」
　そういう意味ではなかったのだが。
「茶筅といって、竹の先が細かく裂かれた道具でしゃこしゃこと茶の粉を混ぜるんです。きっと初めて飲んだら渋い顔をなさると思うわ」
「公主、帰らなくてもいいのか？」
　言って。
　失敗した、と思った。
　彼女が泣く、となぜ思ったのか。だが、彼女は一瞬だけ沈黙して、俺の腕を強くつかんだ。
「わたし……邪魔ですか」
「いや」
「なら、一緒に延王を探して差し上げます」
「いや――」
「邪魔ではないのでしょう？　少しでも延王の顔を知っている者がいた方がすぐに見つかります。ここはわたしの庭でもあるんですもの」
　これも――そういう意味ではなかったのだが――。
「さ！　早く見つけましょう！」
　彼女は俺の腕を引っ張って大股で歩いていく。俺は彼女を呼んだ。
「公主」
「――まだなにか！？」
　彼女は形の良い眉を吊り上げて俺を睨んだ。
　なぜ怒っているのか。
　俺は手綱を放し、彼女の腕にある茶葉の袋をつかむ。それを騎獣の首にかけてある袋に入れた。
「探すのであれば、重たかろう」
「……」
「それとも持っているか？」
　驚いた表情の彼女にニヤリと笑ってみせた。彼女は少しだけ頬に朱を走らせ、うれしそうに目を細めた。肩をすくめるようにして小首をかしげ「いいえ」と彼女が笑う。
　――笑って、両腕で俺の腕に抱きついた。

　街を歩きながら、彼女と世間話を交わす。どの店の何がおいしい、どこで何があった、行方知れずになっている兄のこと、仲の良い両親のこと、優しい兄のこと。おおむね彼女の方が一方的に話すだけだが、うれしそうな彼女の顔を見ているだけで自然と笑いが漏れる。
　自分はもとからバカ主従のことなど探してはいないが、彼女のほうはそれらしい男や親子を見つけると俺の腕を引いて確かめていた。
　つかんだ腕はそのままで。
　道行く人々からは、どう見えるのだろう。最高級の騎獣をつれた旅装姿の男と、町娘。
　――恋人には見えぬだろうな。
　苦笑を漏らしてしまったのを聞き咎め、彼女が俺の顔を怪訝そうに見上げた。
「もう！　将軍、ちゃんと探しています！？」
　眉を寄せる彼女に、俺は微苦笑を漏らした。
「すまん」
　すれ違う人とぶつかりそうになった彼女の身体を引き寄せて。
「すまん」
　もう一度謝った。
　彼女は問いたげな顔をしたが、何も言わずに、ただ身体を少しだけ俺に寄りかけてくる。
「謝らないで。……謝らないでください」
「すまん」
「成笙さま！」
　涙目になった彼女に、もう一度謝って。
「探してないんだ」
　彼女の額に囁く。
「え？」
　見上げてくる瞳に笑う。
「公主は自分から会いに来るくせに、俺が会いに来るとは思わないんだな」
「え？」
　きょとんと、俺を見上げてくる彼女に、俺は苦笑した。
「会いに来たと言ったんだ――公主に」
「……え？」
　信じられない、というより、まだ理解できないといった表情で彼女が目を丸くしている。だが、それは目に見えて変わる。その変わりように、胸が高鳴った。てっきり花が咲くような笑顔で笑うのかと思ったのに、急に顔を真っ赤にして俯いたのだ。
「公主？」
「……信じません」
「公主」
「成笙さまが私に会いに来てくださるなんて」
「なぜ？」
　首をかしげ、思ったことを素直に言った。
「てっきり、うれしい、と抱きつかれるかと思っていた」
「……！」
「だから、そうなったらどうしようかと思っていたのだが」
「……本当に……、わたしに会いに来て？」
「違うと言ってほしいか」
　ぷるぷると、子供のように彼女が首を横に振った。そういう仕草は本当に子供だ。
「自分でも可笑しいと思うがな。公主の顔が見たくなった」
「……」
　目に涙を浮かべて、額を俺の胸元に当てる彼女は確かに女で。
「……うれしい」
　うれしい、ともう一度つぶやく彼女を、手綱を持っている手で抱きしめた。
　やはり、彼女に会いたかったのだと。
　会えてよかったと。

　漆黒の髪に口付けながらそう思った。

　彼女に会えなければそのまま帰国するつもりだったことを言うと、覚悟はしていたが――。
「信じられない！」
　案の定、怒られた。
　街外に向かうと、彼女は護衛でついていた使令を呼び出し、２、３日帰れないことを伝えた。いつもやっていることなのか、狼型の使令の耳の後ろを撫でながら――。
「もちろん、理由は言わなくていいわよ」
「ですが、公主……」
　渋る使令に、彼女は笑う。
「大丈夫。帰りはちゃんと送ってもらうし、一緒にいるのは禁軍左将軍ですもの」
　禁軍左将軍、それは国で一番強い武官を意味する。宗麟の使令は、俺を一瞥すると静かに頷いてそのまま地に沈んだ。
「いいのか？　公務があるだろう」
　それには答えず、彼女はうれしそうに笑う。
「将軍のお休みが前もって分かっていたら、今度から一緒に取れるわね。あ……もちろん、一緒にとってもいいって……思ってくれたらだけど」
　俺は笑う。
「公主は押しが強いときもあれば、極端に弱いときがあるな」
「……戸惑う？」
「戸惑う」
　そういうときの彼女に惹かれてしまうから。
　愛しく思ってしまうから。
　それは、決して言葉にはしない思いだけれど。
「どこへ行きたい？　もっとも……この国のことはよく分からんが」
　彼女の答えを待つ。だが、彼女は頬を染めて首を横に振った。
「どこにも行きたくない」
　ギュ、と外套を握った。
「少しでも……一緒にいたい。少しでも長く……抱いて……いて、ほしいから」
「……」
「だめ？」
　見上げてくる瞳に、俺は目を細めて、彼女の身体を抱き寄せた。
「いや」

　なんのことはない。

　ただ、彼女に会って。
　彼女を抱きたかったのだと。

　そのために、この国へ来たのだと――今さらながらに気付いた。

　了