300hit キリリク（ぼーさん×麻衣）
『今はまだ』
事務所に忘れ物をしたと気づいたのは、家に帰ってからだった。
「うわ〜、どうしよーう」
リュックの中に入れていたはずの体操着。
思い出してみれば、確かに取り出した記憶はある。借りていた本をセンパイに返した時だ。でも、そのあと再び入れた記憶はなかった。
そう。あの時電話が鳴って、ナルに呼び出されたのだ。
慌ててつかんだリュック。
事務所はセンパイと一緒に出て、カギを閉めた。
残された体操着――。
ナルとリンさんはそのまま泊まるみたいだったし、直帰した私は事務所には戻っていない。
あたしは時計を見た。
夜の１０時を回っている。
「ううううう……」
唸って、取りに戻るか考える。考えて、慌てて立ち上がった。
「やば！ 明日の朝、リンさんが事務所に行くとか言ってた！」
冗談じゃない。リンさんが言う朝というのは間違いなく早朝を指す。
どたばたと階段を降りるあたし。
「麻衣！？ こんな遅くにどこ行くのよ！！」
「忘れ物取りに行ってくる！！」
背後から呼び止めるような声が聞こえたが、あたしはお財布だけを持って駅に向かって駆け出していた。
ＪＲの渋谷駅を出ると、とたんに視界が広がった。あふれる人の波。夜の１１時を過ぎると、夕方の仕事帰りの会社員と若者が消えて、今度は大人の町になる。店の様相も微妙に変わっていた。
いくつもの方向に枝分かれした交差点で青信号を待っていると、真正面のビルにある巨大なスクリーンが流行のＣＭを流しだした。今まではそ知らぬ顔だった人が、みんなそのＣＭに顔をあげる。
そのときだった。
「どこに行くの？ ちょっといいかなあ」
顔だけを覗き込むようにして、金髪に染めたオトコの人が笑っていた。年はぼーさんと同じくらいだろうか。
「今、忙しい？」
「はい」
あたしがまっすぐに男の人を見上げると、その人はちょっとだけハッとしたような顔をして困ったように小さく笑った。
「少しでいいんだけど、話してもいい？」
渋谷に限らず、都会の通りには化粧品や髪のアンケートを集めるアルバイトがそこら中にいる。その人が宗教の勧誘じゃないことは分かる。ということは、水商売の誘いか、アンケートか、だ。
アルバイトだったら、どこかの店に連れて行かれて――たいてい少し離れた場所のビルの地下や３階のこぎれいな部屋だ――その人がアンケートをするのかと思いきや、別の女性にバトンタッチされる。椅子に座ってアンケート（どの化粧品を使っているかとか、身体で悩んでいることとか、ダイエットはしているかとか、どの雑誌を読んでいるかとか、そういった感じの内容）を書いていると女性がやってきて向かいの椅子に座る。
――今日は学校だったの？
――学生さん？
話は、ダイエットから、エステもしくは髪の毛、健康食品、美容食品の話になって――。最後に、成功するもしないもちょっとしたプレゼントをくれたりする。
あたしは微笑した。
「ごめんなさい、夜も遅いし、急いでいるんで」
アルバイト君は数が勝負なのことも分かっている。同じアルバイト苦労人としては出来るだけ協力してあげたいところだけど。
「綺麗だネ、君」
「は！？」
思わず素っ頓狂な声をあげてしまった。
「いや、ホント、付き合っている人いるの？」
「はああ？」
何だろう。ただの軟派だったの？
信号はいつのまにか変わっていて、すでに青信号から赤信号になろうとしていた。たいてい、周囲の人は見てみぬふりだ。こんな勧誘はそこらじゅうで当たり前のように行われているから。
「いないですけど……」
あたしの顔に不信感が広がるのが分かったのだろう。男の人はえへらと笑う。あたしの中でアルバイト苦労人から軟派男への攻撃態勢が整い始めていた時、あたしを背後から抱きしめた人がいたのだ。
――ひ！
叫ぼうとした私は、「麻衣」――という短いささやきに逆立った毛を治めた。安堵に思わず身体の力が抜けて、その人に寄りかかってしまう。
「ぼーさん……」
驚かせるな、馬鹿！
内心の悪態に気づいたのだろう。ぼーさんがくすりと笑う。
「俺の娘になんか用かい？」
ぼーさんがふざけた様子で男の人に言った。男の人は思った以上にうろたえて、「あ、いや、その、ええ」と舌を回しながら手首を振った。そのまま、後ずさりして、「なんでもないです、じゃあ」と信号待ちの人並みをかき分けて去っていく。
「ふにゃあ……」
足の力が抜けそうだ。あたしは、喉元にあるぼーさんの腕にしがみついて、顔だけあげる。
「ナイスタイミングだぞ、ぼーさん」
「何がナイスタイミングだ、ばか」
「ふに〜」
「ふにじゃない。何してんだ、こんな時間に」
「軟派されてたみたい」
「えーえー、はいはい。そうみたいね」
ポカ、とぼーさんはあたしの頭を叩く。
「事務所に行くのか？」
信号が変わって人並みが動くと、ぼーさんはあたしの身体を離した。
「うん！」
「……仕事でこんなに遅くなるのか、もしかして」
「え？ 違うよう、いったん家に帰ったんだけど、忘れ物思い出してさー」
「明日くればいいだろうが」
「ダメダメ！ リンさんに見られたら困るもん！」
「はあ？ なに忘れたのよ、お嬢さん」
「えっとねえ、体操着」
「体操着？ 別に見られてもかまわないだろう？ あれが麻衣の体操着を手にとって笑うような人物だと思うか？ 匂いかいだりするような人物だと思うか？ 思わず着ちゃったりするような……」
「匂いー！！」
あたしがげらげら笑うと、ぼーさんは溜め息をつく。
「コラ。真面目に言ってるんだぞ」
「真面目に言ってるからおかしいよ！ リンさんがあたしの体操着の匂いかいで思わず着ちゃうのー！？ ぎゃはははは！ それでニヤついちゃうんだ！？ きゃー！ 怖ーーーいっ！！」
そういう発想のぼーさんもかなり怖いと思うが。
「まーいーーー」
ぼーさんの真面目な顔に、あたしは笑いを収める。
「うん。でも、見られるとちょっと困るから……」
「体操着が？」
「うん、まあ。そう」
あたしは言葉を濁す。
まさか、ブルマも一緒とは言えんわな。いくらリンさんでも、体操着の横に黒い物体があればそれが何かくらいは想像がつくだろう。
恥ずかしい。それはちょっとどころか、かなり恥ずかしいぞ。
「よし！ 俺も行こう！！」
「え！ いいよ、ぼーさん、これから何か用事があるんでしょう？」
「こんな危ない夜の街に、かわいい一人娘を野放しにするなんてパパは許しません！」
あたしは笑った。
「きゃー！ パパ頼もしーい！！」
パパ、の言葉に、周囲の目がチラと私たち二人に向いた。
あたしは内心で笑う。もしかして援交と思われているのかな？
あたしはわざとぼーさんの腕にしがみついた。
「ねえねえ、パパ。おなかすいたー」
パパ、を強調して言うと、周囲の人がギョッとしたような顔をした。
東急ハンズに向かう道のマクドナルドに入る。あたしはセットを頼み、ぼーさんはセットとバーガーを単品で二つ余分に頼んだ。お持ち帰りにしてもらって、それを事務所で食べるのだ。
事務所は当たり前だが真っ暗だった。あたしは電気がつくより早く机に駆け寄り、その上にあった体操着とブルマを奪取。机の中にしまう。
振り返ると、ぼーさんが苦笑している。
「見た？」
「見た」
ニヤニヤとぼーさんは笑う。あたしは頬を膨らませた。
「……このエロぼーず」
「イエイエ。お代官様にはかないませんとも」
「リンさんが見たら、硬直してたかもね」
「頭にかぶったかもよん？」
「……」
「……」
二人して想像して、笑い転げる。ごめん、リンさん。
「ほれ、早くお座り」
ぼーさんがマックの紙袋を開いて中からバーガーの包みと紙の台に入ったジュース、ポテトを取り出す。
「ぼーさん、手ー洗ったー？」
「おっとーまだまだ」
冷蔵庫を覗き込んで、あたしは今日仕込んでおいたゼリーを取り出す。
「ねえ、マンゴーゼリー作ったんだけど、食べるー？」
「おー！ マンゴー！！ くれくれ」
ぼーさんがあたしの背後から覗き込んで嬉しそうに言う。もともとナルやリンさんには出しても感想など言ってはくれないから、こういったデザートはぼーさんや綾子たちに出す目的で作る。
「えへへ」
嬉しくて思わず笑うと、ぼーさんがあたしの頭に手を乗せてぐりぐりとかき回した。
「麻衣、かわいいなあ、本当に」
「へーんだ。今ごろ気づいたか！」
「自分で言うところはかわいくない」
「えーえーそうですよ」
「……」
あたしはぼーさんの雰囲気が変わったことに気づいて、小首をかしげた。
ちょっと深刻な表情。
「……どーかしたの？」
「……軟派。けっこうされるのか？」
ぼーさんがポツリ、と言う。
あたしはゼリーとスプーンを手に持ち、ぼーさんを見上げた。
「けっこうはされない……」
「でも、されるんだ」
「……されたら変？」
「……」
ぼーさんは、そのまま何も言わずにきびすを返した。
「……ぼーさん？」
何か怒らせるようなことを言ってしまっただろうか。
不安になって立ち止まっていると、ソファーに座ったぼーさんがあたしを見た。その真剣な瞳にどきっとして、思わず身を縮めてしまう。
ぼーさんはあたしの態度に微苦笑をもらした。下を向き、軽く息を吐く。次にあたしを見る目は優しく、口元には笑みが浮かんでいた。
「麻衣、ごめん。こっち来て」
「……うん」
優しく笑うぼーさんは好きだ。
ぼーさんは自分が座っている隣をぽんぽんと叩いた。ここに座れ、ということだ。あたしはおとなしくそれに従った。ちらりとぼーさんを見る。が、いつものように優しい瞳で笑いかけてくる。
なんだったんだろう？
「いただき、ます！」
「いっただきまーす」
がぶ！ とバーガーを豪快に口に含んだあたしを見て、ぼーさんが笑う。
「何よ」
「いや。かわいいな、と思って」
「なにそれ」
「だって、俺の前でそんなふうに気持ちよくバーガー食べる娘なんていないからさあ」
「……」
あたしは、なぜかむっとする。
「それって、ほめてるの？ 自慢してるの？」
「嬉しいの」
……意味がわからない。
ぼーさんがニコニコと嬉しそうに笑う。
「今度、ラーメン食いに行こうな、麻衣」
「……おごり？」
「もちろんです！ おごらせてくださいませ、お姫様」
「うむ。ごちになるぞよ」
「ははー」
ぼーさんが優雅に一礼し、あたしは笑う。
「そのバーガーおいしい？ ＣＭでやってたやつでしょ？」
「食べる？」
「うん」
ぼーさんは食べかけのバーガーを、少し食べる場所を広げてあたしの口に運ぶ。
あたしはぼーさんの手をつかんで、ちょっとだけ「かぷっ」と食べた。ソースがあたしのあごにかかると、ぼーさんがそれを指ですくって自分の口に運ぶ。――なんだか、親鳥がヒナの世話をしているかのようでおかしい。
「うまいか？」
「むー。おいひい」
「もっと食うか？」
「んんん」
あたしは首を横に振った。
「あたしのも食べる？」
「ピクルスだけならいりません」
「ちがうよー」
あたしは笑う。
「このソースがおいしいのー」
「どれどれ、毒見をしてやろう」
あたしがぼーさんみたいに紙を広げて食べる場所をつくると、ぼーさんが身を屈めた。
がぶ！！
「あーーー！！！」
あたしは絶叫する。手元のバーガーは３分の１がなくなっていた。
「んー。うまい！ 毒は入ってないようですぞ」
「信じられない！ そこまでするか！」
「だって、食べていいって言ったじゃないのよ」
「普通はちょっとしか食べないものなの！ ――くそう！ それ、全部食べさせろー！！」
「だっめだよーん」
ぼーさんが子供のようにバーガーを遠ざける。あたしはぼーさんに乗っかって腕を伸ばした。それでも届かない。
ぼーさんは笑っている。
「このおこちゃまが！」
「オコチャマだもん」
「いい大人が『もん』とか言うな！」
「やだもーん」
あたしはぐぐぐとぼーさんを睨み、視線をちらりとテーブルに向ける。
ぼーさんがハッと気づく前に、あたしの手は残りの新品バーガーをＧＥＴしていた。
「ああ！」
ぼーさんが悲壮な声をあげる。
「とっておきが！」
「ぼーさんが食べたぶんはいただきます！」
「麻衣ちゃん……せこい」
ぼーさんがボソとつぶやく。
あたしは鬼神が宿ったかのような形相でぼーさんをにらんだ。
「何か言った？」
「……いいえ」
「そうでしょうとも」
あたしは、ふふんといった感じに笑う。……笑って、ぼーさんの口にＧＥＴしたバーガーをちょんと当てる。
「う、そ」
あたしはくすくすと笑った。
ぼーさんの膝の上から元の位置に戻る。
「それにしても、男の人って、本当にバーガー食べるの早いよねー」
ぼーさんに食べられたバーガーの残りをあたしは食べる。
ぼーさんが、あたしの腕を取った。あたしは笑う。
「もうあげないってば」
「麻衣」
ぼーさんの声が低い。
「誰か、別のやつと一緒に食べたことがあるんだ？」
「……ぼーさん？」
どき、とした。
ぼーさんの瞳が、すごく真剣だったから。
今までの、ふざけていた目とはぜんぜん違っていたから。
――そう。
さっき、軟派の話になったときの瞳と一緒だ。
「あるよ……」
「誰？ 俺の知ってるやつ？」
「……安原さん」
「……それだけ？」
「…………ジョン」
ぼーさんが、少し考えるように視線をさまよわせて、あたしの腕を放すと、自分の顔を手で覆う。溜め息とかすかな笑いが漏れる。ちょっと自嘲するような。
「ぼーさん？」
「ごめん」
「……何が？」
「……うん。ごめんな」
わけがわからない。でも、少し尖った空気は和らいでいた。
「悩みでもあるの？ 役に立たないかもしれないけどあたしでよければ相談に乗るよ……？ 今日は別のところで用事があったんじゃないの？ あたし、一人で帰れるから、行っていいし」
「そうじゃないんだ、ごめん、麻衣」
ぼーさんは手を離して、優しく笑う。どこか、切なそうな。苦しそうな顔で。
「ぼーさん？」
「悩みがあります」
「は？」
いきなりであたしは驚く。
あたしは姿勢を正した。バーガーを机に置く。
「うん！」
「おじさん、すごく欲しいものがあるみたいです」
「うん！！」
あたしは頷く。すごく真剣だった。
あたしの真剣さにぼーさんも気づいたのだろう。ちょっとためらうように言葉を飲み、困った表情で口元を覆った。あたしから視線をそらす。
「いや、やっぱいい……」
「あー！！ それなし！ 言ってよ！」
あたしはぼーさんの胸倉をつかんだ。
「ちゃんと聞くよ！ 手伝えるかも知れないじゃんか！」
「お嬢さんは、やきもち焼く男の人をどう思う？」
「は？ それ、悩み？」
やきもち？
あたしは唸って真剣に考える。
「嬉しい……かな？ でも、束縛されるのはいやかも」
「そうか」
「悩みってそれ？」
ぼーさんは笑う。
「好きな人が気づいてくれません、どうしたらいいでしょう」
「……」
あたしは困ってしまう。
ぼーさんの質問は――というか悩みは、あたしとは縁遠いことばかりだ。
でも、すごく変な感じ。
胸の奥が、すごく変な感じ。
「好きだって言ってるの？」
「冗談ではね」
「真剣に言わないの？」
「おびえたら、困るでしょう？」
ぼーさん、優しい。
羨ましいな、そこまで思ってもらえるなんて。
「えっと……その」
せっかくぼーさんが打ち明けてくれているのに、ぜんぜんいい答えを返すことが出来ない。
「年上の人？」
「年下」
「……へ、へえ……そうなんだ」
どうしよう。
すごく変。
なんだか、すごく泣きたい感じ。
――胸が。
すごく、変。
「かわいい？」
「すごくかわいいよ」
ぼーさんの笑みは本当に優しくて。
――ああ、本当に好きなんだ、その人のこと。
あたしの知ってる人……？
聞けない。
それだけは知りたくない。
――なぜ？
「えっと……そんなに、かわいいんだ」
「かわいいし、元気だよ。――すごく。……明るくて、がんばりやで、何事も一生懸命で」
「……」
「無茶ばかりして心配させる……麻衣」
ぼーさんの手が、あたしの頬を包み込んだ。
「何で泣くの？」
「分からない」
――分からない。
泣いていた自覚なんてなかった。
ただ、すごく胸が苦しくて。
泣きたいだけ。
その人が、羨ましいと思った。
今まで、ぼーさんに好きな人がいるなんて考えたこともなかった。いても当たり前の年齢なのに。
ぼーさんは、ずっとぼーさんだと思っていたから。
もう、いつもみたいに、さっきみたいに、ぼーさんとふざけたりしちゃいけないんだと思った。
「大丈夫、きっと、その子もぼーさんのこと好きだよ」
「そうかな？」
「そうだよ！ だって、ぼーさん、すごく優しいもん」
「優しくないときもあるよ」
「厳しい時だってあるけど、でも、怒る時だって、ちゃんとあたしのこと考えてくれてるでしょ？ その子だって、ちゃんと分かるよ！」
「……」
くすり、とぼーさんは笑う。
「その子ね。すごく鈍いからなあ」
クスクスとぼーさんは笑う。
「ほれ、泣くな」
ぼーさんが涙を手でぬぐう。それでも涙は止まらなかった。
「うー」
「しょうがねえなあ」
ぼーさんが顔を近づけて、あたしの頬をなめた。
「……ぼーさん？」
「さっきの悩み、俺のことじゃないよ」
「――！？」
「俺の親友。悩み相談されちゃってんのよー」
ははは、とぼーさんは笑った。
あたしはなんだか訳もなく悔しくなって、ぼーさんの胸を叩いた。
「真剣に、考えてたのに！」
「うん。ありがとう。参考になった」
「ウソだ！ ぜんぜん、役にたてなかった！！」
「そんなことないよーん。その子が、親友のこと好きなんだってことが分かったし」
「……？」
「で？」
「……で？」
あたしは首をかしげた。
ぼーさんはニヤニヤと笑う。
「で？ 何で麻衣ちゃんは泣いていたのかな？」
「！！！」
頭が真っ白になって、次の瞬間、一気に頭に血がのぼった。
――あれ？
何で？
「わからない……」
素直に言うと、ぼーさんが腹を抱えて笑い出した。
「ぼーさん！？」
「いや、ごめん、ほんと」
「うー！ なに笑ってんだよ！！ こらー！」
ぼかすかとぼーさんを叩く。ぼーさんは笑い続けた。
「麻衣」
ぼーさんが、あたしに覆い被さった。ぬいぐるみを抱くように、あたしを抱きしめる。
「コラ！ 重い！！ どけっ！」
「やだよーん。麻衣ちゃん、かわいいんだもん。お持ち帰りしたい〜」
「酔っ払ってんのか！ このオヤジ！ 寝言は寝てから言えー！」
「好きだよ、麻衣」
「はいはい！」
「麻衣は？ 俺のこと好き？」
「好きだよ！ だからどけー！！」
「うん」
素直な子供のように返事をして、ぼーさんは身を起こす。
「今はそれでいっか」
ぼーさんは笑う。
「なにが！」
「何でもございませんよ、姫」
「あー！ バーガーが冷めちゃってる！！」
「そうですね……」
どこか遠くの方を見るような目つきで、ぼーさんがつぶやく。
「色気より食い気か」
「何！？」
「何でもございません。よろしければ、こちらのバーガーもご試食くださいませ」
「うん！」
あたしは笑った。
ぼーさんも笑う。
なぜか、胸の痛みはなくなっていた。
なんだったんだろう。
あの気持ちは。
あの気分は。
まだ知らなくていい。
まだ、今のままでいさせて。
マンゴーゼリーをおいしいおいしい、と言ってくれるぼーさんを見ながら、あたしは思う。
恋人がいても、言わないでね。
好きな人がいても、言わないでね。
好きな人が出来ても、言わないでね。
まだ。
今はまだ。
ぼーさんとこうしてふざけあっていたいから。
「麻衣？」
ぼーさんがあたしを見る。
あたしは極上の笑みで笑った。
「今度はぼーさんの悩み、聞いてあげるからね！」
「また泣かれたらいやだなあ」
「泣かないよ！ あれは、なんていうか、ちょっと変だったの！ そうだ！ ぼーさんが変なこと言うからだよ！」
「変なことってなによ」
「色恋なんて、あたしに聞くから！！」
「だって、悩み相談ってそういうものでしょ」
「そういう悩みはダメ！！」
「えー」
「えーじゃない！！」
「お金がないよう」
「そういう悩みもダメーーー！！」
ぼーさんはくすくすと笑う。
「分かりましたよ。お姫様」
言って、ぼーさんは携帯電話を取り出す。バイブで鳴っていたらしい。
――出てようか？ と無言で聞くと、ぼーさんは指でソファーを指した。
――ここにいていいよ、と言われるのがすごく嬉しかった。それでもなぜか居心地が悪くなって、おとなしく座って冷えたバーガーを口に運んだ。
ぼーさんの口からは「えー、やだよー」といった言葉しか聞こえてこない。わがままなやつ。
溜め息をついて携帯を切ったぼーさんは、唸ってソファーにももたれかかった。
「どったの？」
「スタジオに戻ってこいってさー」
「仕事の途中だったの！？」
「だったの」
「ぐわ！ ちゃんと働かないとダメだぞ！ ナルみたいにわがままばっかり言ってると、仕事が逃げてっちゃうからね！」
「ナルが
『えー、やだよー』
とか言ってたら笑えるな」
「あの顔と声で？」
ナルが言う。
えー、やだよー。
「「こわーい！！」」
ぼーさんと二人してハモった。
再び渋谷駅前交差点。
ぼーさんは結局、おとなしくスタジオに戻るらしい（当たり前だ！）。家まで送ると言い張るぼーさんに、家に帰ったら携帯に電話を入れることを約束し、何とか納得させた。最後まで渋っていたが。
「じゃあね！ がんばるんだぞ！！」
どん、とぼーさんの背中を叩く。
「ふあーい。麻衣も気をつけて帰れよ。そうだ！ 向こうの駅に着いたらタクシー使って帰れよ！？」
「分かった分かった！」
「絶対だからな。歩いて帰ったら殺すぞ！」
周囲の人がぎょっとした顔であたしたちを見た。
「ぼぼぼ、ぼーさん！」
「お父さんはマジです、タクシーで帰ること！ いいね！」
「分かってるよー」
「じゃあ、これ、タクシー代」
「いいって言うのに！」
ギロ、とにらまれ、あたしはしぶしぶぼーさんからお金を受け取る。
「２万！？」
周囲の人々がさらにギョッとした。
それが周囲からどういう行為に見られるかということにようやく気づいて、あたしは慌ててそれをポケットにしまった。
「おやすみなさい、ぼーさん」
「おやすみ。――麻衣！ 気をつけてな」
「うん！」
あたしは元気に笑うが、その顔は真っ赤だ。
信号が変わって、あたしは走りだした。周囲の誤解にそうとう混乱していたんだと思う。
ぼーさんが慌ててあたしを呼び止める。
「おい！ 忘れてるぞ！」
「え？」
ぼーさんがマックの紙袋を振った。
「あ！」
あたしは慌てて戻る。
ぼーさんが軽く投げて、それをあたしは受け取る――はずだった。
肩が人にぶつかった。
「あ。すみません！」
ボト、と紙袋が落ちる音がした。
周囲の視線が足元に集まる。
「…………」
「…………」
「…………」
あたしとぼーさんは慌てて、それを拾う。
袋から、中身がこぼれていた。
頭の上から、複数の声がした。
「……プレイ？」
「コスチュームプレイ……」
「ブルマだブルマ……」
ぼーさんが笑っている。
「ぼーさん……」
あたしが言いたいことが分かったのだろう。ぼーさんは、おとなしく謝った。
「ごめん」
「ったく……」
笑い事じゃないぞ！？
「でも、いいかもな。コスチュームプレイ。それも現役だ。おお〜」
「…………」
あたしの気配を感じたのだろう。ぼーさんはあたしを見ることなく、静かに言った。
「すみません」
まだ言わないで。
今はまだ――。
もう少しだけ。
ぼーさんとは、ふざけていたいから――。
だから、好きな人が出来ても言わないでね。
恋人がいても、連れてこないでね。
わがままなのは、きっとあたしのほう。
大好きだよ、ぼーさん。
了
【キリリク 300hit】2001.06.11
山田道説様へ
３００HIT、本当にありがとうございました！