3000htt キリリク（ぼーさん×麻衣）
『いつかまた』
――いつかまたあったら、嫁にもらってやるよ。
ぱち、と目を覚まして、麻衣は瞬きを繰り返す。
見える天井を一巡りさせて、自分を覗き込んできた男を見た。
「どうした、麻衣？」
「ぼーさん……」
滝川法生――通称ぼーさん。髪の毛は豊かなほどあるが、正真正銘の坊主だ。
何でぼーさんが？ と麻衣は一瞬思って、次の瞬間、自分が彼の部屋にきていることを思い出した。フローリングの床に寝転がって猫と遊んでいた記憶はある。きっとそのまま寝てしまったのだろう。
歌って踊って悪霊退治の出来る――どちらも一流だ――世にも珍しい青年は、整った顔を麻衣に近づけた。
「麻衣ちゃん？」
麻衣は手を差し出す。滝川は苦笑すると、その手を取って少女の身体を起こした。
「プロポーズされた」
「は？」
麻衣の言葉に、男が瞬く。
「だれに？」
「……ないしょ」
「……」
男は一瞬黙り込み、眉をひそめた。
「誰に」
「内緒」
「夢で……だろ？」
麻衣はにっこりと笑う。
「だーかーらぁ、内緒だってば」
男の頬が引きつった。
「ああ、そう、よかったねえ」
麻衣は足元に擦り寄ってきた猫を抱きあげて笑う。
「やきもち？」
「するかい」
「へへへ」
麻衣は男の飼い猫を持ち上げて、猫と男の顔を「ちゅ」とつける。
「やきもちだ」
麻衣はニヤニヤと笑う。とても嬉しそうに。
「だから」
麻衣から猫を受け取って抱く男の顔を、麻衣は下からのぞきこんだ。
「気になる？」
「ならない」
「正直に言ってみ？ ほらほら」
「ならないって言ってるだろうが」
「あ。そう」
麻衣はあっさりと背中を向けた。「んく〜！」と背伸びをする。
「さ・て・と！ もう遅くなったから帰りまっす！」
「麻衣」
「一人で帰れるよん。お気遣いなく〜」
「麻衣」
麻衣は振り向かない。
「お嫁にしてくれるって言ったの。その人」
「……」
男は静かに笑う。
「誰よ。その奇特な人は」
麻衣も笑った。相変わらず男には背を向けたままで。
「ほんと。奇特な人だよね」
でもね。と麻衣は言った。玄関に行き、ローファーを履いた。とんとん、とつま先を叩く。
玄関のドアを開いた。
閉める前に、顔だけ出して目を細めた。
「でも、その言葉に、あたし嬉しくて頷いたんだよ――じゃあね。お休みなさーい」
ばたん、と閉まるとドアを見て、男が舌打ちした。
「んだよ、それは」
猫が鳴いて自分の名を呼ぶ。だが、男はただ玄関のドアを見続けた。
何で、こんなに自分は怒っているのか――。
なぜこんなにイライラとするのだろう――。
「ナル……か？」
違う、と男は思う。
「違う……」
そうであってほしい。
――なぜ。
「なぜ……？」
男は静かにつぶやく。
少女の笑みが脳裏に浮かんだ。
「あたし、嬉しくて、頷いたんだよ」
自分の感情を男はまだ認めることが出来なかった。
「プロポーズ……？」
したことは……一度だけある。
あれをプロポーズというのなら。
それは麻衣にではなかったけれど。
「元気でいるのかな」
元気に笑っているといい、と男は思った。
※
麻衣は滝川の住むビルを飛び出した。下から上を見上げ、その最上階にある部屋の主を思う。
思って、頬を膨らませる。
「ばか！」
いつもはしつこいくらい聞いてくるのに。
「バカバカ！ バカたれ！」
いつもは麻衣が嫌がっても、ふざけて抱きついてきたりするのに。
「……ほんとに……」
麻衣は上を見上げまま、静かにつぶやく。
「本当にふざけているだけなの……？」
部屋に呼んでくれたこと、入れてくれたこと、期待したらだめなの？
あたしだけだって思ったらだめなの？
まだ……。
「あたしはぼーさんにとって可愛い妹でしかないの？」
涙が出た。
聞きたくて。
いつも聞きたくて。
でも怖くて口には出せない言葉。
あたしのこと、好き？
※
３歳のときだった。
「なんで泣いてんだ」
頭上からかけられた言葉。うつむいていた麻衣が見上げると、大きなお兄ちゃんがタバコの煙を吐いて、境内から見下ろしていたのだ。
大きいといっても、大人じゃない。まだ子供だ。タバコを吸うにも早すぎる。
麻衣よりはずっと大きかったけれども。
麻衣は立ち上がって、少年を見上げた。
「あい、ないてないよ」
「うえ、うえって言ってただろうが」
「いってないもん。それ、あいじゃないもん！」
「あらそう。愛ちゃんじゃないのね」
「あいじゃないよ！ あいだよ！」
「……どっちよ」
「だから、あい！」
「……」
自分では「麻衣」と言っているのだが、舌が回らず、相手には「あい」としか聞こえないことに麻衣は気づかなかった。
「お嬢さんは何歳でちゅかー？」
彼の言い方にむっとするものがあり、麻衣はギッと少年を睨んだ。
「３さい」
「しゃんしゃい？」
カーと頭に血が上った。麻衣は足を広げて仁王立ちになると、少年に向かって指を三つ突き出した。
「さん！ さい！！」
「おお！！ ３歳ですか！！ それは失礼をば」
「おにいちゃんは？」
「あっし？ あっしでごぜえますか？ お代官様」
「うん」
おだいかんさまって何だろう、と思いながらも、麻衣はこくんと頷く。豊かな頬がプルっとゆれ、やわらかい髪が羽根のように浮いた。母親譲りの色素の薄い髪、それは少年にもいえることで、なんだか麻衣は嬉しくなった。
「おにいちゃんはなんさい？」
「あっしはそれにココノツ足しておくんなせえ」
「……」
麻衣には少年の言っている言葉「あっし」とか「ココノツ」とか「たす」とか、意味が分からなかったので、とりあえずその言葉は無視することにする。
「おにいちゃんは……」
麻衣が質問をしようとしたとき、少年ははっとしたように顔をあげ、慌てて境内から麻衣の隣に飛び降りた。タバコの火を砂利で消して、驚く麻衣を抱えて境内の下に隠れた。
麻衣はあっという間のできごとに、ただされるがままだ。ちょっとだけ面白い、と思う。
思って、手の中の「小さい子」に笑いかけた。
人の話し声が聞こえて、こちらへ近づいてくるのが分かった。
一人は麻衣の母親の声だ。
「では、大きくなれば見えなくなるのですね？」
「ええ、うちの不肖の倅もそうでしたが、そういうものに敏感な子供は思った以上にいるのですよ。大人になる前に見えなくなることのほうが多い。――いや、大半は見えなくなります。お母さん、あなたは彼女の言うことを信じてあげればいい。それだけでいいんですよ。そして、正直に言うんです。お母さんには見えない、と。それはお子さんにしか見えないものであることをちゃんと伝えればいい。それだけのことです」
「はい……」
「ご主人も 『見える』 方だったのでしょう？」
「そう聞いています。だから、大きくなったら見えなくなるし、聞こえなくなるだろうって……。あの人が生きていたら、きっとあの子の一番の理解者になれたと思うんです……」
「お母さん、あなたもすでにあの子にとっての理解者であることを忘れないように。頭から否定して子供に自分の常識を押し付ける、そういう親は多い」
「はい……」
「よい子に育っていますよ」
「はい、ありがとうございます」
「おまえ」
と少年が言った。二人が立ち去った後で。
「おまえも見えるのか？」
麻衣は少年に抱っこされている。――それが麻衣には嬉しいのだが。
なにが、と麻衣は思う。少年の目が、麻衣の手にある「もの」を見つめている。
「それが、何か、わかるのか」
それ？ 麻衣が首をかしげると、少年は考え込むような顔つきとなる。
「まあいいや。おいで、一緒に遊んでやる」
「あいと？」
「いやか？」
麻衣は頭を横にたくさん振った。
「あそぶ！ あそぶ！！」
麻衣は嬉しくなって何度も飛び上がった。
「こら、暴れるなって」
麻衣は手の中の「子」を離し、少年の首に手を回した。ぺた、自分の頬を少年の頬に当てる。
「な！」
「ママがいつもしてくれるの。だいすきよって」
「……それって、オレが大好きってことか？」
苦笑交じりに少年が笑う。
「うん！」
麻衣は大きく笑った。少年も笑う。
「おまえ、友達がいないんだろう」
「……」
見える子供というのは、たいていそうだ。誰にも見えないから、なにを言っても
『変な子』 として相手にされない。
「ともだち、いっぱい、いるもん」
「霊のな」
「れいのな？」
「いや、なんでもないよ。そうか、友達はたくさんいるのか」
少年は笑う。
自分のときはどうだっただろう？
たいていの子供は、成長の過程の中で見えなくなる 『もの』 が、今現在も見え、聞こえ、そして、その力は年々強くなっている自分は。
父親が、叔父や叔父、祖父が、彼を高野山へと入れようとしている。自分が「稀」な能力を持っていることを彼はもう認識していた。
だが、そんなところへ行く気はない。
やりたい音楽もできなくなるのは我慢できない。
投げたビニールボールが少女の頭上を超え、塀を越えてしまう。
「あ！ やべ」
「おにいちゃん、へたくそーー」
「うるせえ」
こつん、と少女の額を指でつつき、慌ててボールを捜しに門をくぐった。
「いいよ、おまえはそこにいろ」
門を出ようとする子供を、少年は止める。麻衣はおとなしく門の下で丸くなった。
５分がたってもボールは見つからない。
「くそ、ねえな」
「くそねえな」
「マネすんなって。頼むからそんな言葉、覚えるなよ。ほれ、返事」
「はあい」
「よし！」
少年の笑みに、麻衣も笑う。そして、少年の方へと駆けてくる。パタパタ、と音がしそうな走りだな、と思ったとき――。
ゴウウウウウウウ！！！！
風が鳴った。
「違う！」
少女をめがけて、黒い煙のようなものが集まってきたのだ。
「悪霊！！」
分かった。分かったがそれだけだ。
足がすくんで、何も出来ない。
退魔法――！？
間に合わない。
どうすれば！
そのときだった。はっきりとした声が不動明王呪を紡ぐ。
「じいちゃん！」
「このバカもんが」
袈裟ではなく、背広を着た初老の男がいた。その腕には、気を失った子供がいる。
「愛！」
「結界から子供を出すとは、なにを考えておるのじゃ」
「結界……？」
「寺にはってる結界じゃ！ このバカもんが」
「……」
少年が麻衣を抱える。
「まあよいわ、今、ここで祓ってやるとするか」
「じいちゃん？」
「おまえが嫌だ嫌だと抜かすことをするんじゃ、よう見ておけ」
普段はふざけてばかりの祖父の指が複雑に組み合わさっていき、口からは流麗な不動明王呪が流れ出す。
かっこいい、と正直に思った。
祖父の気が悪霊を払った、そのことが素直にかっこいいと思えた。
それが、彼の未来を、定めた。
※
少女が悪霊に狙われるようになった、その詳しい経緯を彼は聞くことが出来なかった。
今まで父親が少女を守っていたらしいが、その彼が死に、彼が施した守護も消えかかっていることに気づいた母親が、彼女を寺に連れてきたのだった。
最後に会ったのは、分かれるときだ。
彼女を守れなかったことが、正直に口惜しかった。
彼女を守れる力がありながら、その力の使い道を知らなかった自分。
元気でいろよ、と彼は言った。
麻衣は真っ直ぐに彼を見上げて、ためらいがちに、彼のズボンをつかんだ。
「あいのこと、きらいになった？ きらいになった？」
「え？」
「おにいちゃん……あそんでくれなくなったから……」
じわ、と大きな目に涙が浮かんだ。
彼女を守れなかったこと。それが恥ずかしくて、あれからずっと避けるようにしてまったことが、子供をひどく傷つけたのだと知った。
ぐしゃぐしゃになって泣く子供を抱き上げる。
麻衣が彼の襟をぎゅっと握る。小さなその手で、ぎゅっと。
「あい、いい子になるから」
「ああ。いい女になれよ」
彼は笑い、麻衣の頬に軽く口付けた。
大好きだよ、のしるし。
父親や祖父が目を丸くしているのが視界の隅で分かったが、とりあえずそれは無視する。
麻衣には今の行為がどういうものか、ちゃんと分かったから。だから、驚いたけど、嬉しくて笑った。
「あのね、あのね。あいも、おにいちゃんがだいすき」
「そうか」
彼も笑う。
「じゃあ、いつかまたあったら、嫁にもらってやるよ」
麻衣には「嫁」というのがどういうものか分からなかったけれど。
麻衣はまた彼に会えるのだと思うとすごく嬉しくて舞い上がるような気持ちでいっぱいになった。
だから、「うん」と大きく笑ったのだ。
「ぜったいね。やくそくしてね」
ちゅ、とかわいらしい口付けが頬に返って来た。
チャリ、と麻衣の首にぶら下げている鍵とキーホルダーが鳴る。
これからも狙われるであろう――そういう性質なのだそう――少女の輝きを隠すための「お守り」を、彼は見つめる。
彼女が家の外へ出るときは必ず身に付けるように――家の鍵につけられたキーホルダーを祖父が「お守り」にした。父親の形見であるそれを少女が捨てることは絶対になく、これから家の鍵が変わったとしても、つけかえるだけでいい。
少女の能力はやがて消えるだろう。それでも、そのキーホルダーの放つ「守護」の呪が消えることはない。
そして、もしもいつの日にか、彼女が悪霊に狙われることがあれば、きっと自分が助けてあげることが出来るだろう、と彼は思うのだ。
――あのときに持っていた能力のひとつはすでに失ってしまったけれど。
今、彼女が困っていれば、必ず助けられるだけの能力はある。力も。仲間も。
大切なものも増えた。
「元気でいるのかな、あいつ」
男のつぶやきに、「あいつって？」と猫が聞く。
「内緒」
猫が男の足を軽く噛んだ。そしてドビューンと逃げる。猫が（舌をだして）言った言葉に、彼は思わずたじろぐ。
「麻衣を悲しませる？」
なぜ、と男は思う。
辛いのは自分だ。
彼女が大切であることに気づいているのに。
それを伝えることが出来ない自分だ。
――あのね、大好きなときはギュってするの。
子供の声が脳裏に響く。
ああ、と男は思った。
そういうことなのかも知れないな、と。
※
「お嬢さん、ちと道を尋ねたいのだが」
白髪の老人に声をかけられ、麻衣は立ち止まる。
「はい、どこですか？」
自分もここの地理には詳しくない。何しろ、オフィス街だ。それでも場所を聞かれる前に「分からない」と言うつもりはなかった。分からなければ、一緒に分かる人に聞けばいい。
だが、差し出された住所――というか、ビルの名前は麻衣にもわかるところだったのだ。
「あ……」
ぼーさんのところだ。
「分かりますかな」
おっとりと笑う老人は、その年代にしては背も高く、背筋もピンと伸びて、紳士然としている。どこか、威厳ある雰囲気があった。
「あ！ はい！！」
ご案内します、と麻衣は言った。
「いやいや、お時間をとらせてしまう。この道で正しければ、ひとりで行けますとも」
「でも、ここから近いですから。案内したほうが早いです」
「そうですか」
老人は笑う。
「ではお願いしましょうか」
日曜日のオフィス街は閑散としていた。滝川が住むビルの下の階にあるオフィスも、その大半が閉まっている。
老人の歩行に合わせて進みながら世間話をしていたが、ふと、老人が麻衣の顔をじっと見て首をかしげた。
「お嬢さん……お名前はなんと申される？」
「あたしですか？ 谷山麻衣です」
「谷山……まい」
「布地の麻にコロモって書くんです」
「そうですか。……そうですか。大きくなられましたな」
「え？」
麻衣が首をかしげたとき。
「麻衣！」
二人が向かっていた目的のビルから、男が飛び出してきた。
「ぼーさん、どうしたの？」
麻衣は目を丸くする。ひどく慌てた様子の男は、麻衣に向かって駆け寄ってくると、その肩に手をおいた。
「麻衣、言いたいことがあって……」
「うん？」
滝川は、一瞬だけ躊躇したが、身をかがめて麻衣の頬に口付けた。
「――！？」
「えっと、つまり、そういうことだから」
「ぼーさん……？」
かああ、と頬を赤くした麻衣は困ったように男を見上げる。
滝川は笑う。
「誰にも渡すつもりはないから」
「う、うん……？」
な、何だろう……と動揺しながら麻衣は思う。
「法生……」
ほうしょう、と老人が言った。
「あ」
麻衣が顔を真っ赤にする。――彼の存在を忘れていた。だが、もっと赤くなったのは滝川のほうだった。
「じいちゃん」
「え？」
麻衣が二人の顔を見比べる。
「おまえはなにをしとるんじゃ……」
「あ、いや、その……」
滝川は怪しい汗をだくだくとかく。
「これには……わけがあって……」
滝川は「どんなわけだ」と内心で鋭いツッコミを入れる。
「しかし、そうか、もう出会っておったか」
「は？」
「は、ではないわ。おまえが世間で言うところの、ろりこんだったとはのう」
「ロリコンって……じいちゃん……」
「まあ、おまえが山に行ったのもあの出来事がきっかけになったことだし、このお嬢さんなら許そう」
「はあ？ 何のこと言ってるんだ？」
ボケたのか、という言葉は言わないでおく。
「麻衣さん、お守りはまだ持っているかな？」
「お守り？」
「キーホルダーじゃよ。家の鍵についている……」
「はい！ 持ってます。え……でも？」
お守り？ と、麻衣は首をかしげた。
先に気づいたのは滝川のほうだった。マジ？ と口を覆った孫を見て、老人が片眉を上げた。
「何じゃ、気づいておったわけではないのか？」
「ああ……」
だって、麻衣とあのチビが同一人物なんて、普通気がつくか？
それに、あのチビは「愛」……。
――「ま､ ぁ、い」……そういうことか？
じゃあ……。
「麻衣……」
「にゃ？」
「おまえがプロポーズされたのって……３歳？」
「え？ あ、うん……たぶん、それくらい……かな」
俺かよ。
滝川は思わず脱力してしまう。座り込んで頭を抱えた。
つまり、自分に嫉妬していたってことか？
「くあー！」
きっと、自分が気づかなかったように、麻衣も気づいていない。
老人だけが、ははあ、と分かったような顔で笑った。
「麻衣さん、このバカな孫をどう思いますかな」
「え？ あ……その、すごく優しいです……」
「意地悪ではないかな？」
「……えっと、……はい」
「スケベじゃろう」
「……」
ぷしゅーと湯気を出して赤くなった麻衣を見て、老人は心地よさそうに笑った。麻衣の頭に手を乗せて、ぐりぐりと撫でる。
「あ……」
麻衣は照れたように笑んだ。老人の仕草が、彼の孫がよくやる行為と同じだということに気づいたから。
「えへへ」
思わず声を出して笑ってしまう。
滝川が麻衣の首に腕を回して引き寄せた。
「わざわざ何の用で来たんだよ」
「おまえに用があってきたのではないわ。たまたま東京に来る用事があったのでついでに寄ったまでじゃ」
「顔を見に？」
「バカ面を見に」
「くそじじい」
「そんなことを言うと、わしの手元に来る見合い写真をすべて送るぞ」
「げ」
麻衣の頭上で交わされる身内の話を麻衣は黙って聞いていたが、見合いという言葉に、滝川の顔を見上げる。
「ぼーさん、見合いするの？」
「しません。このくそ坊主」
よけいなこと言ってんじゃねえ、と滝川は祖父を睨む。
老人はにんまりと笑った。
「もう少し老人を敬おうという気になったかの」
「帰れ」
「孫は現在フリーだと伝えておこう。嫁募集とな」
「わはは！！ まあまあ！！ おじいさまったら冗談がお好きなんだから。ぜひごゆるりとなさってくださいまし。お部屋にご案内しますわ。おほほ、ほほ」
滝川のこめかみが引くついている。
「て言うのは冗談だけどな。嫁はいいんだよ。ここにいるから」
麻衣は一瞬、なにを言われたのか分からなくて、その言葉を脳裏で繰り返す。
えっと、その。
「……あたし？」
「気づくの遅いよ、お嬢さん」
「……」
かああ、と赤くなった麻衣に、老人が優しい瞳を向ける。
「見合いの話は冗談だがの」
仕事の依頼じゃ、と老人は言った。
ビルの最上階に戻り、仕事の話をはじめた二人を、麻衣は猫を抱きながら遠くで見ている。
二人の声はぼそぼそとしか聞こえないので、どういう依頼内容なのかは分からない。
「どこかで会ったような気がするんだけどな」
滝川の祖父である老人を見つめながら、麻衣は猫に話し掛ける。
前にも、ああやって頭を撫でられたような気がする。
嫁はいいんだよ、ここにいるから――。
先ほどの言葉を思い出して、麻衣は頭に血をのぼらせる。
冗談なのかな？ 本当なのかな？
仕事の話をするなら帰る、という麻衣を滝川は引き止めて、部屋に連れてきた。
ホテルに泊まっているという老人も頷いたので、思わず来てしまったが。
話したいことって何だろうね、と麻衣はつぶやく。
つぶやきながら、そのまま目を閉じた。
そのまま熟睡してしまった麻衣に、滝川は彼女に言うべきタイミングをまたしても失ってしまうのだけれど。
麻衣は、とても幸せな夢を見たのだった。
眠る麻衣の耳元で、男がプロポーズしてくれる夢を。
「嬉しい……」
眠っているはずの麻衣の口から、ポロリと漏れた一言に、滝川は驚く。
「麻衣、起きてるのか？」
だが、麻衣の寝息は変わらない。ただ、ちょっと嬉しそうな寝顔になっているような気がする。
「まったく……」
滝川は苦笑した。
「どんな夢をみているんだか」
麻衣の唇に、優しい口付けを落とす。
重ねた唇は、遥か昔に誓った約束をかなえた受領の意味を持つ。
いつか、またあったら――。
「早く大人になれよ、麻衣」
そしたら、嫁にもらってやるからさ。
滝川は麻衣の腕から猫を抱き上げ――猫はちょっとした抵抗をみせたけれど――、コーヒーを入れに行く。
コーヒーの匂いに、麻衣が目を覚ましてくれることを祈って。
「ぼーさん……大好き」
夢の中。
麻衣は滝川に笑った。
まどろみの中にいる麻衣の笑みはとても幸せそうだった。
遠い遠い昔に交わした約束が叶えられる日は、そう遠くない。
了
【キリリク 3000hit】
2001.10.03
碧さんへ
ぼーさんと麻衣は小さいころに出会っていた、という感じで。
さらに、麻衣のお父さんが霊能力者だったということで（笑）
さらに、３歳よりも前に死んでいるということで(笑）←いつ死んだの？
勝手にぼーさんの祖父まで登場させてるし（笑）
少しでも楽しんでいただけると嬉しいです。
３０００ヒットありがとうございました！！