ナル×麻衣
『バレンタイン』
イギリスに帰っていたのは大学から呼び出されたからだった。手続き上、ネットでは対処しきれないものがあるというので、国に帰るついでに一通りの用事をまとめて済ませてきたのだ。
飛行機が成田に着いたのは夕方の４時。そのままタクシーを使って東京に向かう。事務所ではなくマンションに直接向かった。部屋の明かりがついているのが地上から分かり、誰がいるのかは容易に想像がついた。
「……麻衣」
不思議な気持ちが僕の中に湧き上がる。それをなんというのかは分からなかったけれど。
案の定、玄関の鍵は開いている。足元には女物のランニングシューズ。
フローリングの居間に入ると、麻衣がソファーから顔だけをのぞかせて「おっかえりー」と笑った。うれしそうに、足をパタパタを振っている。彼女が犬だったら尻尾がメトロノームのように揺れていただろう。僕がそのまま黙ったままコートを脱いでいると、麻衣が僕の名を呼ぶ。
「ナル！ ただいまは？」
「……ただいま」
「うん」
ニコニコとうれしそうに笑い、麻衣はソファーから飛び出してくると、僕に近づいてきてもう一度
「おかえり」 と言って目を閉じた。僕は溜め息をついて、麻衣の唇に軽く口付ける。
麻衣は大きな目をパチリと開くと、驚いたように僕を見上げた。
「ナル……」
「して欲しかったんだろう？」
「う……うん、……うん！」
麻衣が照れるように笑った。今まで、何度も何度もしつこいくらいに 「家にいるときだけは行って来ますのちゅうとお帰りのちゅうをして！」
と子供のように力説していた麻衣だが、今までは相手にしなかったのだ。まさか今、本当にしてもらえるとは思っていなかったのだろう。
麻衣は頬を赤くして両手で頬を押えている。初めてキスをしたときのような麻衣の姿に僕は小さく笑う。少し気持ちがよかった。
部屋の中を見回すと、殺風景だった部屋の中が徐々に変わりつつあった。小さな観葉植物が増え、人形が増え、写真が増え。少し甘い匂いと、暖かい空気。それらはすべて麻衣がもたらしたものだが、不思議とジーンがいたときの空気とよく似ているのも確かだった――。
ああ、と思う。この部屋の明かりを見たときに感じたものは安堵なのかも知れない。
ソファーに広げてある雑誌も麻衣が持ち込んだものだった。麻衣が買ったのではなく、綾子から回ってきたものだろう。表紙にバレンタイン特集といった言葉やハートの小物が賑やかに散っている。その開いた雑誌の中にある小物――プレゼントという文字を目にして、ネクタイを解きならが聞いた。
「麻衣。１４日、欲しいものがあれば先に言えよ」
「何？」
きょとんとした麻衣に、僕は思わず沈黙で返し、慌てて顔をそむけた。自分の口から出た言葉に一番驚いたのは僕自身だったのかも知れない。
「――なんでもない」
そうだ、と思う。そして舌打ち。日本では、男からではなく、女からチョコレートを好きな男に渡すのだった。
「ええええ？？ なに？ なに？？」
「うるさい。なんでもない」
「欲しいものって？ ねえ、ナル！ 何かくれるの？」
「引っ張るな、伸びる」
「あ！」
麻衣は分かっているのか分かっていないのか、あいかわらず僕の後をついてきながら、元気に右手を上げた。
「はいはいはい！！ あるあるある！！」
「……」
「おやすみ！」
「休み？」
僕は眉をひそめた。
「休めばいいだろう。別に無理して働けとは言ってない」
「あたしじゃなくて！ ナルのお休みが欲しい！！」
台所で牛乳を入れる。
「……意味がよく分からないのだが」
「お仕事、一日でいいから休んでよ」
「……」
「ね？ 何もしないで、ただ二人でいよ？」
「……」
「こら。ナル、返事は？ くれるの？ くれないの？」
「麻衣のために？」
「うん！ 私のために」
「……」
僕は溜め息をついた。
「分かった」
そんなことでいいのなら。
「やったぁ！」
麻衣がうれしそうに笑う。
「２月の１４日だよ、忘れないでね」
「……ああ」
今年の２月１４日は何曜日だったか、と考えながら、ウサギのように飛び跳ねている麻衣を見つめる。
ガキだ、と思いながら、そんな彼女がかわいいと思う。――思って、僕は顔をしかめた。
「ねえねえ、ナル、イギリスはどうだったの？ みんな元気だった？」
あいかわらず無邪気な顔で聞いてくる。僕がソファーに座ると、同じようにその隣に腰をおろして笑う。
――笑ってばかりいる。
「うれしいことでもあったのか？」
麻衣は瞬きを繰り返し、ちょっと怒った表情で。
「鈍感！」
頬を膨らませた。そのまま両足を丸めて両手で抱え込むとそこに顎を乗せて黙り込む。
僕はそんな麻衣を無視して、テレビのスイッチを入れた。麻衣が見ていたチャンネルから、いつも見ているチャンネルに移す。ニュースが世界情勢を伝える中、僕は手元で持ち帰った資料を開く。
１０分くらい経っただろうか。
いきなり麻衣が資料を奪い取った。
「麻衣」
「帰ってきたばっかりなのに！」
「何を言っている」
麻衣の瞳に怒りの光がともった。
「分かってたけど！」
「もっと分かるような日本語を話せ」
「分かってたけど！ ナルが鈍感でデリカシーがなくて、全然全然！！ あたしと会えてもうれしくないんだって！ 分かってたけど！」
ボロ、と麻衣の目から涙が溢れた。
「あたしはうれしかったの！ ずっと話したいこととかたくさんあって！ ナルがあっちで何をしていたのかとか！ 何をやったのかとか、いろんなこと、いろんなことを話したかったの！」
「……２月１４日に休むだろうが。そのときに話してやる」
「だめ！ その日は休むの！ 何もしないで、ただ休むの！」
わけがわからない。僕は叫ぶ麻衣から目をそらして、溜め息をついた。
「何を怒っているんだ」
「うれしいことがあったかって、当たり前じゃんか！ ナルが帰ってきたんだもん！ うれしいに決まってるじゃん！ バカ！」
ボロボロと涙を流して、麻衣はクッションを手にとる。それを上に振り上げて、そのまま目を瞑って「うー」と唸った。麻衣はクッションを投げずに、そのまま抱え込んで顔を埋めた。
「麻衣」
僕は深い溜め息をつく。それが聞こえたのだろう。麻衣の肩がビク、と揺れる。クッションを抱く腕に力が入った。
「麻衣」
僕は麻衣が散らばした資料を拾ってテーブルに置く。
「麻衣」
麻衣は顔をあげない。僕は、麻衣の髪に指を通した。サラサラな茶色の髪の毛をそのまましばらく弄る。麻衣の頭をかき寄せるように、ゆっくりと。
「麻衣……顔をあげろ」
優しく囁いたが命令だった。麻衣はゆっくりと顔をあげた。僕を見上げるが、涙に濡れた顔が、さらに泣きそうに歪む。本当に子供だな、と思った。
僕が笑いを漏らすと、麻衣が「うう」と泣いた。
「うそ泣きかと思っていたが」
「違うよ！」
――知っている。
「そうみたいだな」
僕は麻衣に笑って、両手を広げた。おいで、というように。決して、麻衣以外には見せない笑みで。
「僕が鈍感でデリカシーがないのは知っているんだろう？」
「うん」
麻衣が両手を伸ばした。僕はその手首を引っ張って自分の腕の中に彼女を引き寄せる。簡単に手にはいったものを、僕は力強く抱きしめた。
ああ、何日ぶりだろう。彼女を抱くのは。
麻衣が僕の首に両手を回してギュッと抱きしめ、僕の肩に顔を埋めた。
「抱いてよ、 ナル」
「……」
僕は麻衣の後頭部の髪を引いて、彼女の顔をあげた。自分で口にした言葉に真っ赤になっている麻衣を見つめる。きめ細かく、日に焼けてはいるがきれいな肌だ。触れるとどんなに柔らかくて滑らかなのか、僕が一番よく知っている。
桜色の唇。お互いにその瞳で探るように見つめあう。唇と唇が触れそうで触れない位置で麻衣が囁いた。
吐息がかかる。熱い吐息が。
「抱いてよ、 ナル」
麻衣の目から涙がこぼれる。僕の身体に回す腕が震えていた。
「抱いてよ」
「いやだと言ったら」
「泣く」
「もう泣いている」
僕は微苦笑をもらした。
「たくさん話がしたいのか？ それとも聞きたいのか？」
どちらでもないだろう、と僕は思う。麻衣はいつだって話したいときは僕にかまわず話すし、聞きたいときはしつこいくらいに聞いてくる。
「麻衣と久しぶりに会えてうれしかったとでも言ってもらいたかったのか？」
「……」
「それとも……寂しかっただけか」
――図星。
く、と笑いを漏らして、僕は麻衣の軽く開いた唇に自分のそれを重ねた。
深く重ねた口付けに、麻衣の腕から力が抜けていく。
僕は麻衣のセーターの下に手を差し入れて、暖かい肌に触れた。ひやりとしたのだろう。ビク、と麻衣の腰が引いた。
「っん……」
「今さらいやだと言うなよ」
「ナル…………っぁ」
麻衣の口から漏れる喘ぎ。
麻衣の身体をソファーに倒し、その上に覆いかぶさる。
麻衣の喘ぎさえも飲み込むような深い口付けに、麻衣の目に涙が浮かんだ。左手は身体を支え、右手は麻衣の腹部を撫でる。ブラジャーの下から指を差し入れ、右胸を包み込むと、麻衣が猫のように鳴いた。
麻衣の顎の下に舌を這わす。
「それで？」
僕は聞いた。
「何が聞きたいって？ 言ってみろよ」
言葉にならない喘ぎの中で、麻衣は僕の前髪をつかんで 「意地悪」 と囁く。
僕は喉から笑い、麻衣の胸を強く揉んだ。
「ああ……っ」
「話したいことがあるんだろう？ 麻衣」
「こ……っ、んな……状態……じゃ」
「どうぞ？ お姫様。時間は……たっぷりありますよ」
最初に誘ったのはおまえだろう、と麻衣の耳元に囁きながら、久しぶりの肌の感触と耳に触れる甘い鳴き声に心地よさを感じていた。
ああ、帰ってきたんだな、と。
そう思いながら。
了
2002.02.06