シリウス×ハーマイオニー
『その手を』
つないだその手を、いつまでも離したくない、と――。
「ねえ、シリウス」
ハーマイオニーがわたしの名を呼ぶ。
「ん？ 見つかったのかい？」
わたしは頭上を見上げたまま、彼女の方を見ないで返事をする。
「ねえ、シリウスってば！」
ハーマイオニーはくすくすとおかしそうに笑う。その声はとても楽しそうだ。
わたしは立ち止まって彼女を見下ろした。自分の肩ほどもない少女。
森の木々から零れ落ちる陽光がまぶしそうに当たって、彼女の髪が黄金に輝いていた。彼女の全身がキラキラと輝いて見える。
その瞳は真っ直ぐに自分に向かってくる。
「このまま見つからないといいなって思うの、それっていけないこと？」
クルックシャンクスが咥えていた鳥に彼女が悲鳴をあげたのは１週間ほど前のこと。何事かと駆けつければ、彼女は両目に涙を浮かべて、胸に抱いた小さな鳥に癒しの魔法をかけていた。
癒しの魔法は痛みを取るだけに過ぎない。今現在、その鳥は折れた翼が治るまで、小さな箱の中が仮の巣になっている。
クルックシャンクスに聞けば、別の猫が咥えていたのを救っただけだったらしい。
今朝は、森に入って巣を探すと言うハーマイオニーの従者を買って出たのだが。
「君が育てるのかい？」
わたしが言うと、ハーマイオニーはにっこりと微笑む。その笑みにわたしの胸が高鳴っていることなど彼女は知らないだろう。
――知らなくていいことだ。
「ううん。違うの。こうやって、お散歩できるのっていいなって思って」
彼女は無邪気に笑う。
「朝の散歩はいつもしているだろう？」
「ちがうの！！ 犬の散歩じゃなくて！ こうやって、手をつないで」
「森の中で？」
「森の中で」
嬉しそうに彼女は笑う。
「ここならシリウスも人の姿でいられるでしょう？」
「人の姿のほうがいい？」
「あら！ 私はどっちでもいいのよ！ シリウスが背伸びできるのが嬉しいの」
「地面にあるものを探すならともかく、巣は木の上にあるからね」
「もう！ ぜんぜん分かってないのね！」
そういう意味じゃないわよ、と頬を膨らませる。軽く頬を染めた彼女はとても愛らしい。思わず微笑すると、からかわれたと思ったのか、ぷいと顔をそむけて、わたしの腕を引いて歩き出した。
わたしは声を出さずに笑う。その気配が分かったのか、ハーマイオニーがキッと振り返ってにらんだ。
「ちゃんと探してる！？」
「おや、見つからないほうがいいんじゃなかったのかい？」
「んもう！」
「探しているよ、ハーマイオニー。ほら、足元をちゃんと見て」
朝の清涼な空気に混じって、彼女の髪が揺れるたびに優しい匂いが流れてくる。
彼女の家に犬の姿で住み、同じ部屋で眠る。
同じシャンプーを使って身体を洗うから、私もクルックシャンクスもハーマイオニーも同じ香りがしていた。そんなことがなぜかおかしくて、とても嬉しい気持ちになる。
この十二年間、身体を洗うものは水だけだった。凍るように冷える水は、そこにいる者の心も凍らせる。石鹸などというものもなく、差し入れられた水に布を浸して、それで身体を洗うのだ。風呂やシャワーというものもあそこにはなかった。
ハーマイオニーにはクルックシャンクスを洗うのも犬の姿の私を洗うのも同じ感覚なのだろう。逃げようとするわたしの首を抱えて「洗うわよ！」と元気がいい。
最初は戸惑っていたが、ハーマイオニーに身体を洗ってもらうことは、どんな女性に髪を洗われるよりも歓喜を誘う。
初めて濡れた身体を振るわせて、ハーマイオニーの全身に水を降りかけてしまったときを思い出して笑ってしまう。今では、わざと水を弾けさせるふりをして「きゃあきゃあ！ 待って待って、ブラック、まだまだまだだめ！！！」と風呂場から離れる彼女の反応を楽しんでいた。
水がかからない位置に収まってから「いいわよ」と彼女が声をかけるのだ。
「シリウス……？ なに笑ってるの」
ハーマイオニーが不安げに――というか、不気味そうにわたしを見上げている。わたしは咳払いをした。
「思い出し笑いを」
「やだ！ なに考えてたのよ！！」
「ハーマイオニーが寝言を言っていたこととか……」
「キャー！！ うそうそ！」
「うそ」
「――！」
ニコニコとわたしは笑う。
ハーマイオニーは目に見えて怒った。腹部に軽いパンチを食らう。そして、彼女は長く沈黙した後、頬を赤くして「私……寝言言ってる？」とつぶやいた。
「ハーマイオニー？」
彼女はチラリとわたしを見上げてきた。
真っ赤になった顔。
わたしは心から笑んでいた。その可愛らしい仕草も、表情も、すべてが愛しくて。
そして願う。
この手をいつまでも離したくないと。
私は身をかがめ、彼女の耳に囁いた。
「シリウス大好きって言ってる」
「――！」
かああ、と赤くなる少女に、わたしは笑った。
「うそだよ、ハーマイオニー」
「――もう！！」
今度から一緒に寝ない！ 外で寝て！ という彼女に、今度は真剣に謝る。
鳥の鳴き声だけが聞こえる、静かな空間。そこに、楽しげな会話が響く。
鳥の巣は自分が探すからハーマイオニーは転ばないように足元を見ていてくれ――と、手をつないで誘導してもらっていた。だが、実際は、朝露に濡れた木の根や苔に足を滑らせるハーマイオニーをわたしが何度も支えていた。
もし――。
自分が、鳥の巣ではなく、ずっと隣を歩く少女を見ているのだと知ったら彼女はどう思うだろうか。
彼女が振り返ろうとすると、顔をあげて探しているふりをする――そんな、茶番。それに気づいたハーマイオニーが怒るところも見てみたいと思ってしまう。
その、すべてにおいて真剣な彼女の姿勢が好ましい。
きっと、自分が彼女の年代の時には近寄ることすらなかったタイプだ。あのときに出会っていたとしても、目に入ってきたりはしないだろう。
まさか、自分が彼女のような人間に心引かれる日が来るとは思ってもみなかった。どう考えても自分とは正反対に位置する人間――。
こうやって、穏やかに手をつなぎ、心休まることもなかっただろう。
だから、先ほどハーマイオニーが言った言葉に、実は心臓が止まりそうになったのだ。
このまま見つからなければ――。
まさにそう願っていたから――。
手の中にある小さな宝物を、そのまま離すことなく――。
時が止まればいいと――。
「あ！ ねえ、シリウス、あれ違うかしら！？」
ハーマイオニーがわたしの手を引く。一瞬手が離れそうになったが、わたしのほうが握って離さない。どう考えても手をつないでいるほうが走りにくい。
それでも。
「ほら、あそこの――」
ハーマイオニーが一生懸命指さしている。
「あれは……ちがうな」
「えー！？ そう！！？」
「巣作りの途中で放棄されたものだ」
「そっかあ……残念」
「……」
しゅん、と肩を落としたハーマイオニーの頭に手を置く。
「明日も探しに来ればいいさ」
「そうね」
にっこりと笑う彼女に、わたしも笑い返す。
「そろそろ帰らないと、朝食の時間じゃないか？」
「あ！ 御飯！！ いけない！ 早く戻らなきゃ！！」
ハーマイオニーが駆け出した。今度は手を離す。
そして、わたしは変身した。
ハーマイオニーの横を軽く走りぬけ、「あー！」と叫んでいる彼女をしばらく離れた距離で待つ。
「乗っていくかい？」
「重くない？」
「どう言ってほしいの？」
「……もう！」
私はハーマイオニーの横に身体を寄せた。
「どうぞ、姫。白馬ではありませんが」
ハーマイオニーがくすりと笑った。そして、わたしの首に腕を回す。
「あら、とてもステキな黒馬でしてよ」
「それは光栄ですね」
森の散歩はそれから三日続き、巣は結局見つからないまま鳥を空へ放つことになるのだが。
その記憶は、いつでもわたしを幸せにしてくれる。
その手の暖かさという現実と。
彼女の笑顔とともに。
了
2002.05.17