スネイプ×ハーマイオニー
『キス』
「キスって……したことありますか？」
突然、私は言った。
隣をあるいていたスネイプ先生は、一瞬立ち止まったあと、また歩き出す。私は慌てて先生を追った。
「先生、キスってしたこと、ありますか？」
「……」
先生はもう一度立ち止まった。眉間の皺を倍に増やして、私を見下ろす。
「ミス……グレンジャー」
「はい」
「……今のは君が言ったのか？」
ちょっと疲れた感じの物言い。
「はい」
「幻聴かと思ったのだが」
「私です」
「……」
ますます不快げに先生が顔をゆがめる。
「自分が何を聞いているのか分かっているのかね、ミス・グレンジャー？」
「あ……その……はい」
先生の威圧感に負けて、私は資料の本を強く抱きしめた。それだけが唯一の先生との間に立つ盾だったから。
先生は溜め息をついた。
「死のキス……ではあるまい。普通の口付けのことを言っているのか」
私は俯いたままうなずいた。
「教科書にそのような問題があるとは知らなかった。魔法薬学の授業ではないようだが。どの授業だ」
「……」
「まさか興味心だけで口にしたなどと、ふざけたことを言わないだろうな」
ミス、グレンジャー、と。先生は私の名前をゆっくりと言う。低い声が私の頭上に降りた。
「そういうことは君の親友に聞くのだな。私に聞くのは見当違いだ」
先生は私の腕にある本をつかんだ。
「これは私が運ぼう。そなたは次の授業に行くがいい」
「あ――あの」
「これ以上質問して減点されたいのか？ そのようなことはハリー・ポッターにでも聞け」
先生の眼光の鋭さに、私は息を飲んで目をそらした。
「……はい」
そのハリーに聞かれたのだとは、とても言えなかった。
どうして、よりにもよってスネイプ先生に聞いてしまったのだろう。
「分かりました。そうします」
ぴく、と先生の指が動いた。
「変なことを聞いて申し訳ありませんでした」
私は資料から手を放し、頭を下げた。そのまま顔をあげて踵を返そうとした――のだが、その胸に先ほどの本が押し付けられた。
「先生？」
「やはり自分で運べ、甘やかしては平等性にかける」
「は――はい」
……怒っている？ 表情はいつものように不機嫌そのものだけど、心なしか口調に苛立ちのようなものを感じて私は瞬いた。
ズカズカと歩いて行ってしまう先生の後を、私は慌てて追う。やっぱり相当怒らせてしまったらしい。
からかったとでも思われてしまったんだろうか。
ああ、どうしよう。
「先生――」
先生は止まってくれなくて。
「先生っ――きゃ！」
急に立ち止まった先生の腰にぶつかった。そのまま背後に倒れそうになった私の腕をつかんで、先生が引き戻してくれる。
「す、すみませんっ」
落ちてしまった本を慌てて拾おうとするが、先生が腕を放してくれない。
「スネイプ先生……？」
「ポッターに聞くのか？」
「は？」
私は瞬いた。
「何をですか？」
「……」
「先生？」
「なんでもない！」
先生が、イライラと目元をひくつかせる。なんだか、先生もどうして自分がイラついているのか分からないみたいだった。
「あ――さっきの、キスのことですか？」
先生がこれでもか、というほど睨んでくる。……怖い。
「すみません……」
「そのようなことを聞いてどうする」
「え？」
「キスをしたかと聞いただろう」
「はい。……その、もういいんです」
「質問に答えたまえ。ミス・グレンジャー」
握った腕を、強く引かれた。
「っ！」
「そのようなことを聞いてどうする」
「た……ただ、キスってどういうものか知らないので……先生だったら知っているかなって……その。考えが足りませんでした。そんな失礼なこと、聞くべきでは……」
「ある、と言ったらどうする」
「え！」
驚く私に、先生は目を細めて笑った。――その、笑いにも驚いてしまったのだけれど。
「もっとも、どのキスのことを言っているのかはわからんが」
「恋人の……」
「……」
先生を見上げた。
「先生に……恋人はいらっしゃるんですか？」
「それこそ余計なことだな」
先生の歪んだ顔に、私は顔を紅潮させた。
「す！ すみませんっ」
先生が手を放してくれる。
再び歩きはじめた先生のあとに従って歩く。すれ違った上級生が挨拶をしていくが、スリザリンの生徒は本当に先生のことを尊敬しているようだった。対照的に、グリフィンドールの生徒はすれ違ったあとに必ず舌を出したり、私の頭を撫でていく。
資料室に入った私は、本を先生に渡し、重たい本で固まった腕をほぐす。
「あと他にすることはありますか？」
奥の本棚に消えた先生に話し掛けるが、聞こえなかったのか返事がない。そのまま黙って帰っていいものか分からなかったので、私は初めて見る本ばかりで埋まる本棚を眺めた。「闇魔術に使う毒草」という題名の本を見つけて、思わず心臓が高鳴った。先生が闇魔術の授業を受け持ちたがっていることを私たちは知っている。教え方はともかく、実際、先生の技術は高いのだろう。
私がスリザリンの生徒だったら……もっといろいろなことが聞けるのに。先生だってちゃんと答えてくれるだろう。そう思ってから慌てて首を振った。ありえないことを考えても仕方がない。
カチャ、と陶器が鳴る音に顔を上げた。
「砂糖とミルクがない」
「あ、はい！」
私は目の前に出された紅茶を受け取った。
「いいにおい……ダージリンですね」
「さあ」
わからない、と先生が言う。薬学の先生なのに――そう思ったらなんだかおかしくてクスクスと笑ってしまった。先生が不機嫌そうな顔をする。
「いただきます」
かってにソファーに座っていいのか判断がつかず、私は立ったまま紅茶を口に運んだ。
「あ」
「……なんだ」
「熱いれす」
「……」
当たり前だろう、という顔で先生が眉をひそめる。
私は、涙をためる。
「ヤケドひまひた」
「……」
漏れたのは最大級の溜め息。
「喉か、舌か」
先生は自分の分の紅茶を置いて、立ち上がった。
「どっちだ」
私は舌を出す。先生がそのまま近づいてくるので、思わず後ずさりしてしまった。あ、と私も思ったが、もう遅い。黒い影が一瞬、立ち止まった。舌打ちが漏れそうな鼻息を吐いて、先生は私の腕を引いた。
「見せてみろ」
「うう」
「泣くな、それくらいなんともない」
「ううう」
先生は私のあごを持ち上げて、舌を見る。先生の顔が間近で――。
男の人の匂いがした――。
先生のまっすぐな目に、思わず顔が紅潮してしまう。
「……ああ、少し……」
先生のつぶやきに、私が不安げに顔をゆがめると、先生は慌てて言葉をのんだ。
「これならばすぐに治る。今夜は何も食べれぬだろうが」
「うう」
これくらいのヤケドではマダム・ポンフリーの世話にはなれない。自然治癒を待て、ということか。たしかに、舌をヤケドしたくらいで保健室に駆け込んでいては笑われてしまう。
「…………」
先生は視線をそらして、背を伸ばすと髪の毛をかきあげる。なんだかイラついている。
「座って、ゆっくりと飲まないからだ」
ぶつぶつとつぶやき、そして、やっぱり溜め息をついた。私の手から紅茶を受け取り、テーブルに置く。
「だが、私のせいだろうな」
「え、ちがいまふ、わたひが――」
私は首を横に振った。
先生は深い瞳で私を見下ろすと、手を伸ばして私の目を覆った。
「目をつぶるがいい。これは特別だ」
先生の大きな手の感触が額に触れる。先生の口から、聞き取れないほど小さな呪文が漏れる。
衣擦れの音。
先生のコートを私はつかんだ。
「――」
唇に、何かが触れた。
――指？
え、と思う間に、口の中から痛みが引いていくのがわかった。喉の奥の熱さも消えている。
先生は手を離すと同時に、パッと身を返した。
「もう帰るがいい」
先生は紅茶を両手に歩き出す。
なんだか今日は先生に迷惑をかけてばかりだ。
「スネイプ先生、ありがとうございました！！」
私は先生の後ろ姿に叫んだ。
先生は一瞬立ち止まったが、やっぱり溜め息をつくと無言のまま本棚の影に消えた。顔は見えないけど、きっとまた不機嫌に輪をかけたすごい表情をしているに違いない。それに、なんだかすごく疲れた感じだ。
「――うん！」
もっと回りに迷惑かけないように気をつけなくっちゃ！
私はこぶしを握って気合を入れた。
後日、同じように口の中をヤケドしたハリーを連れて、スネイプ先生に「この前ヤケドを治してくださった呪文を教えてください」と言ってすごい表情でにらまれるのだけど……。
おまけに減点。……なんでかしら。
了
2002.11.21